■白濁の骨(1)■
ガラガラと、玄関の戸が開く音が僕を現実に引き戻した。
「桐山、悪かったな留守番させて」
島田さんの声が聞こえる。
次の瞬間、僕の目の前は真っ赤になった。手に持っている本を慌てて閉じる。
──僕は今、何をしていた? 研究会に呼んでくれた先輩棋士の部屋で、こんな──
鞄をつかもうと手を伸ばす。身体を動かしたその時初めて、僕は自分の下半身が熱くなっていることに気付いた。カッと頬が熱くなる。
手が震えて、鞄に本がうまく入らない。
玄関からこの部屋まで、僅か数秒。
「シュークリームとか買ってみたんだけれど、お前、好きか?」
廊下の方から、俺はあんまり食わないからどれが美味いか分からないんだけど、という声が近づいてくる。
──駄目だ、間に合わない──
部屋の戸が開いた。島田さんの、いつもどおりの穏やかな笑顔と目が合う。
僕はどうしようもなく、ただその場に固まった。
島田さんもまた、穏やかな笑顔のまま固まった。僕が掴んでいる鞄と、そこにようやく半分だけ収まった本。女の人のほぼ裸の写真と、ケバケバしいピンク色の文字が刷られた表紙。それらが全てが、島田さんの視線の前にある。
「あ……っと、スマン」
一瞬の後、島田さんはバツが悪そうに目を逸らした。その表情に、心臓がドクリと跳ねる。
「ご、ごめんなさい、でもこれは僕のじゃなくて……」
よりによって島田さんの部屋で、こんな本をうっかり広げてしまった自分の愚かさに、頭がグラグラする。
──軽蔑されたくない。真剣な研究の最中に、こんなことを考えている人間だなんて思われたくない。自分を僅かでも認めてくれた、この人に嫌われたくない──
泣きたくなるようなぐちゃぐちゃの感情の中で、僕は必死に言葉を探した。
「あの、今日、将棋会館で知り合いに本を借りたんです! 将棋の本です! 紙袋にはいっていたから中身を確認しなくって、さっき開けてみたら別の本が入っていて、だから、その……」
自分で何を言っているのか分からない。全部本当のことだけれど、だからと言って、その本を島田さんの部屋で広げ、しかもうっかり夢中になってしまった理由にはならない。
もう言葉が出てこない。僕は島田さんを見上げたまま、それでも必死に言い訳を探した。
「あー、桐山」
島田さんが軽く、咳払いをした。困ったような表情で僕の前にしゃがみこみ、ぽんっと肩に手をのせる。僕の身体がびくりと震える。
「あのな、別に学校じゃないんだから。エロ本持ってたくらいで怒ったりしないから」
「え、あ……」
僕はぽかんと島田さんを見上げた。島田さんはその場に腰を下ろした。ほぼ同じ高さの目線で、少し照れたように、穏やかに笑う。
「いや、俺の反応も悪かったな。桐山はあんまりそういうことに興味なさそうな気がしてたから、ちょっとびっくりして、な」
そんなわけないよなー、お前、まだ十八だもんなー、としみじみ言われ、僕はその場にへたりこんだ。
どうやら軽蔑はされていないみたいだ。
安堵と同時に、さっきまでとはまた違う気恥ずかしさがこみ上げてくる。
「……あの、別に興味ないわけじゃないんですけど……いえ、すごく興味があるってわけじゃないですよ!? ただ、こういうこと話したり、貸し借りしたりする友達がいなかったっていうか……」
とりとめもなく、言い訳じみた言葉が口から溢れる。島田さんは骨ばった右手を口元にあてた。これは考え事をする時の、島田さんの癖だ。
僕は何を言っているんだろう。こんな話をされたって、島田さんだって困るだけだ。
「うーん」
小さく唸りながら、島田さんは二階の自分の部屋のあたりを見上げた。
「何かいいの持ってりゃ、貸してやれたんだけどなあ。ウチには今、そういうのないんだよなあ」
「え、あ、いえ、結構です、大丈夫ですから! お気遣いなく!」
僕は慌てて、島田さんの声を遮った。まだ手に持っていた鞄に、本をどうにか押し込む。
ああもう、恥ずかしい。
自分のしたことも、見られたことも、言ったことも、何もかもが恥ずかしい。そのうえ、こんなことにまで島田さんに気を遣わせてしまうなんて──
ようやく蓋を閉めた鞄を部屋の隅に戻すために立ち上がり、僕は動きを止めた。静まることを密かに願っていた下半身の熱が、まだそのまま残っていた。
「あ……」
小さく漏れた声に、島田さんが顔をあげる。
「どうした?」
「な、何でもないです!」
顔を背けたのと、島田さんが小さく、ああ、と言ったのはほぼ同時だった。
「あー、えーと、そうだな……」
島田さんがトイレの方を指しながら、少し言いにくそうに小さな声で言った。
「……抜いてこい。楽になるから」
その瞬間、僕の中で熱が膨れ上がった。
──抜くって……それって、つまり、僕がトイレで何をしているかバレバレの状態でするってことですか!? 無理ですよそんな……でも──
僕はどうすることもできず、ただ、その場に立ち尽くした。顔が熱い。心臓の鼓動と下半身の熱が連動する。
動けなくなった僕に、島田さんは小さく溜息をついた。
「しょうがないな」
次の瞬間、島田さんの手が僕の腕を掴んだ。
「後ろ向いてここに座れ」
「え?」
「いつまでもそうしてても、どうにもならないだろう。手伝ってやるから」
でも、そんな、と言いかけて、僕の言葉は止まった。
島田さんの表情は静かで穏やかだった。
僕を見下すのでもなく、からかうのでもない。ただ淡々と、今の状況に対する最善の方法を提示する、それは覚えのある表情と口調だった。
「……すみません」
掴まれた腕から、島田さんの意外に強い握力が伝わる。促されるまま、僕は島田さんの足の間に腰をおろした。
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