■依存症(1)■


 グラスを口にあてながら、パズはそっと、自分の斜め前に座る男の顔を見た。
 パズのセーフハウスのソファの上で、サイトーが同じようにグラスに口をつけている。透明な液体がサイトーの唇に流れ込み、少しだけあがった顎の下で喉がゆっくりとそれを嚥下する。
 秋にしか手に入らないのだと言うこの日本酒は、サイトーのお気に入りらしい。
 ポーカーフェイスを少しだけ緩め、満足そうに息を吐く姿に、パズはひっそりと微笑んだ。向かい合わせではなく、隣合わせでもなく、90度の角度で座るこのソファーの配置を、パズは密かに気に入っていた。この位置からなら、サイトーの生身の右眼がよく見える。ついでに、はだけたシャツからのぞく鎖骨も、しっかりと胸を覆う白い筋肉もよく見える。残念ながら、先日つけた赤い痕はもう消えてしまったようだ。
「ん? もう一杯飲むか?」
 パズの視線に気づき、サイトーが緑色の細い酒瓶を差し出した。何食わぬ顔で、パズは自分のグラスを空けて差し出した。
 注がれる透明な日本酒は、サトーが持ち込んだものだ。気温が下がり始めるこの季節を連想させるその名前を、パズはしっかりと脳に記録した。
 次は、この酒に合う肴を用意してやろう。
 そんなことを思いながら、改めてグラスに口をつけ、ゆっくりと味わう。
「……やっぱり美味いな」
「だろ?」
 嬉しそうにサイトーが笑った。つられて、パズも口元を緩める。
 人工の舌と人工の喉が感じる味が、サイトーの感じる味と同じかは分からない。味覚素子から送られる信号を美味いと判断しているのか、サイトーが美味いと言ったから美味いと感じているのか、その境界は曖昧で、追及するのは無意味だ。ただ、サイトーが美味いと言うものを、自分のゴーストも美味いと感じている、それがパズには嬉しかった。
 サイトーがグラスの中身を飲み干すのを見計らい、パズはそっと頬に手を伸ばした。
「パズ?」
 僅かに火照った頬の熱が、パズの手に伝わる。黒い瞳がこちらを真っ直ぐに見つめている。
 不意にパズの中に苦い記憶が蘇った。
 そう、自分自身ですら長いこと忘れていたゴーストの存在をパズに思い出させたのは、この熱と瞳だった。潜入、内偵、裏切り、嘘。自らのゴーストすら欺き続けてきたパズは、9課に属した当初、戦闘に参加するたびに自分の中に湧き上がる震えの正体が分からなかった。やがて、それがサイトーによってもたらされることに気づき、震えるものの正体に気づき、耐え切れない情動に突き動かされてサイトーを抱きしめ、そうしてパズはゴーストを取り戻したのだ。
 その時のことを頭から追い出しながら、パズはサイトーの腕を掴んだ。あれはパズにとっては重大な出来事だったが、同時に、自らの弱さを思い知らされた瞬間でもあった。今となっては、あまり思い出したくはない。
 パズはわざと獰猛な表情を作り、サイトーを強引に引き寄せた。
「うわっ」
 バランスを崩し倒れ込むサイトーを自分の上に座らせ、乱暴に舌で唇を割る。逆らわず、サイトーがその舌を受け入れた。
「……ん……っ」
 舌と舌が絡み合い、熱い息が漏れる。ソファーの上で身体が密着し、下半身が互いの熱を伝える。ぐっと腰を抱き寄せると、焦れたようにサイトーが腰を擦り付けてきた。そのまま尻を掴んでやると、吐息が熱を増す。
 ストイックに見えるこの男が、案外と享楽的だったことに驚いたのは、ずいぶんと昔のことだ。
 ズボンの布地越しに触れる尻の筋肉の感触を楽しみながら、パズは舌を貪った。
──ん?──
 いつの間にか、サイトーの舌がパズの口腔内に侵入していた。サイトーの指が、パズのシャツのボタンを外そうと蠢く。
──随分と積極的だな──
 やがてサイトーが唇を離した。熱を孕んだ黒い目が、パズを見下ろす。そのまま肩口に顔を埋め、サイトーが囁いた。
「今日は俺にやらせろ」
 思わずパズは目を剥いた。
 確かに今までも、逆になったことがないわけではない。滅多にないことだし、普段なら、サイトーがそういう気分ならあえて断る理由もない。もちろん抱く方が断然いいが、頑なにそれを主張するより、形はどうあれサイトーと繋がる心地よさの方がパズには重要だった。
 しかし今日は──
「サイトー、どうした急に」
 平静を装い、パズはサイトーのシャツの裾から手を滑り込ませた。背骨をそっと指で辿ると、サイトーの身体がひくりと震える。
 負けじと、サイトーがパズの胸に手を滑らせた。身体を震わせながら、熱い吐息を隠そうともせず、サイトーが笑った。
「俺もたまには、お前の中を感じたいんだよ」
 それが身体の中を指すのか、それともゴーストを指すのか──おそらく前者だと分かってはいても、パズは首を縦に振ることができなかった。今はまだ、あの記憶が脳の片隅にこびりついている。サイトーによって救われたことをサイトーに知られたくない──つまらないガキのようなプライドだと分かっていても、だからこそ、今はサイトーを抱きたかった。征服し、これが自分のものだと実感したかった。
「駄目だ。また今度、な」
 低い声で囁き、耳にねっとりと舌を這わせる。サイトーの膝が震え、腰が落ちそうになる。それでもパズのシャツを脱がせようとする手は止まらない。
「いいから……やらせろよ……っ」
 強気な言葉とは裏腹に、サイトーの声はねだるように擦れている。
──ったく、強情だな──
 パズは苦笑した。力任せに抑えつけることはできるが、絶対にサイトーの機嫌が悪くなる。パズはポケットの中を指で探った。
「なら、これでどうだ?」
 取り出された銀色のコインを見て、サイトーの眼に別の光が宿った。唇の端が楽しげに吊り上がる。
「いいぜ」
 サイトーの腰を片腕で抱えたまま、パズはコインを上に弾いた。鈍く光を反射しながら落下してくるそれを宙で掴み、テーブルに伏せる。
「裏だ」
 サイトーが迷いなく言った。
 パズはゆっくりと、手を持ち上げた。コインの上で、女神の横顔が微笑んでいる。
「……くそっ」
 悔しそうに悪態をつきながら、サイトーがパズの上から降りた。
「先にシャワー浴びてくる」
 スタスタとバスルームに向かう後ろ姿にほっとしながら、パズはグラスの残りを一気に飲み干した。



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