■悪夢と一匙のアイスクリーム(1)■
遠い遠い昔、それは初めて仕事で人を殺した夜だった。
暗い埠頭の倉庫街、取引を餌に呼び出されたその男は、組織側の人間が黒ずくめの子供一人であることに憤った。
──なんだ使い走りのガキ一匹かよ、俺様を舐めやがって、さっさとブツをよこせよクソガキが──
そう悪態をつき、侮り、油断した男に、ジンはまっすぐに銃を向けた。男の顔が嘲りから驚きに変わる。その眉間に照準を定め、何度も訓練したとおり、ジンは引き金を引いた。聞きなれたはずの銃声が、やけに大きく耳に響く。
どさり、と崩れ落ちた男をジンは見下ろした。眉間に開いた孔と黒焦げた縁、コンクリートの床に流れ出る液体は薄暗さのせいで赤よりも黒に近い。男の表情は嘲りと驚きが入り混じっていた。目の前の人間のを外見だけで判断するとは、愚かな男だ。こんな男が、裏社会で生き延びられるはずもない。
物言わぬ死体に嘲りの笑いを返してやろうとし、だが自分の顔は思ったようには動かなかった。痕跡を残さないため、コンクリートの床から薬莢を拾い上げようとする、その指先が何故か震えている。先ほどの銃声が未だにガンガンと耳に響く。その音が銃声の残響ではなく、自分の心臓の音であることにようやくジンは気づいた。
指先から逃げる薬莢をどうにか拾い上げる。倉庫の淀んだ空気と血の匂いが混じりあう。死体となった男の眼は焦点を失い、口元がだらしなく緩んでいる。
──俺が、殺したんだ──
暴力から身を守るためではなく、生きる糧を得るためでもなく、生まれて初めてジンは仕事として──他人のために──人を殺した。
ジンの中に高揚が沸き上がる。それは仕事を成し遂げた達成感であり、それを命じた人間へ報いることができた嬉しさだ。
──褒めて、もらえるかな──
それが淡い望みだと知りつつ、ガンガンと響く音を脳に抱えながら、ジンは組織の人間が待つ合流場所へと走り出した。
初めての仕事を成功させ帰還したジンに対し、それを命じた人間は驚いたことに優しくねぎらいの言葉をかけてくれた。『よくやった』と。
その夜、達成感と褒めてもらえた嬉しさで、ジンの高揚はなかなか治まらなかった。その高揚を鎮める方法も、その高揚の正体も、幼いジンは知らなかった。組織に与えられた小さく暗い自分の部屋で、高鳴る音を脳に抱えたまま、ジンはベッドにもぐりこみ目を瞑った。
深夜、それは唐突に起こった。
ベッドから跳ね起き、心臓をおさえ、荒い呼吸を懸命になだめる。今聞こえた悲鳴が自分のものだと、理解するのに時間がかかった。
夢だ。今見たあれは夢だ。
夢の中、薄暗い倉庫の中でジンは間違いなく男の眉間に銃弾を撃ち込んだ。なのにその男は死ななかった。額から血を流しながら、嘲りの笑いを浮かべ、お前の銃弾など無意味なのだと、子供のお前に俺が殺せるわけがないと言いながら、ジンの方に手を伸ばす。ジンは立て続けに引き金を引いた。その銃弾は寸分たがわず、男の額に命中する。それでも男は止まらない。大きな手がジンの首を掴んだ。
ジンの中に恐怖が沸き上がる。──仕事に失敗した、叱られる、組織に不要な人間は捨てられる、いやだ、お願い、捨てないで──
夢の中であげた叫びは、現実のものだった。
未だに鳴りやまない心臓をおさえ、ジンはベッドから降りた。喉がひきつれるように痛い。水を求め、ふらふらと部屋から出る。
あれは夢だ。今日、確実に俺はあの男を殺したんだ──頭で分かってはいても、得体の知れない感情が心臓の中にうずまいている。
ふと、廊下の先に人影が見えた。思わずびくりと震えるジンに、その人物は話しかけた。
──こんな時間にどうした?──
「水を……飲みたくて……」
──悪い夢を見たのか?──
内側を見透かすようなその問いに、ジンは動けなかった。夢を見たくらいで、こんなにも動揺している自分が情けない。組織の人間として失格だ。
──……ついておいで──
その人物はジンをキッチンへと連れて行った。コップに水を汲み、手渡す。その水をジンは一気に飲み干した。冷たさが喉を通り、脳と心臓を冷やす。
──落ち着いたか?──
「はい……」
空になったコップを受け取り、その人物は冷凍庫をあけた。
──これは、悪い夢を遠ざけるおまじないだ──
冷凍庫から取り出した白いものを銀のスプーンで掬い、その人物はジンの口元へと差し出した。おそるおそる、ジンはスプーンを咥えた。冷たさが口の中にひろがる。その甘さが、ジンの中の高揚をゆっくりと溶かしていく。
冷たく甘い、ミルクの味とバニラの香り。
──さあ、眠りなさい。悪い夢などもう見ないから──
その人物がアイスクリームをくれたのは一度きりだった。
それが誰だったのか、男だったのか女だったのかすらも、もはや覚えていない。
その後も仕事は続き、成長とともに悪夢を見ることは格段に減った。高揚を、酒と煙草と人肌に溶かすことも覚えた。
死神となったジンに、アイスクリームはもはや必要なかった。
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