■愁雨(2)■
駅からマンションまではほんの十分。その間にも、糸針のような雨は二人の衣服を徐々に侵食する。
もうじき到着しようかという頃、不意に火村が足を止めた。
「ん? どうした?」
空き地の前、火村の目線の先には鮮やかな紅があった。
「彼岸花だ」
「ああ、あれな、ここの家が取り壊された後にあれだけ残ってたんや。俺も、咲くまで気づかんかった」
「……きれいだな」
「ああ、きれいな花や」
不吉だなどとただの迷信だと思っていたが、冷たい雨の中でなお鮮やかさを誇る紅は、確かにこの世の存在からはかけ離れている。
火村はじっと花を見つめたまま動かない。憂いを孕み、花を見ながらまるでこの世ならぬ花の向こうを見ているような、そんな表情に耐えきれず、有栖は努めて明るい声をかけた。
「なあ、知っとるか? 彼岸花の葉っぱと花はな、同時には……」
「『葉は花を想い、花は葉を想う』」
火村の声が、有栖の言葉を遮った。
「……なんや、知っとったのか」
「薀蓄好きはお互い様だろう?」
皮肉っぽく笑う火村の表情に、有栖は安堵した。どうやら火村はこちら側へ帰ってきたようだ。
「しかし、葉っぱと花が永遠に会えないなんて、かわいそうやなあ。織姫と彦星だって、年に一回は会えるのに」
「今日の作家先生はずいぶんとセンチメンタルだな」
その言葉に、有栖は火村を睨んだ。
「その言葉、そっくりそのまま君に返すわ」
「俺が? 俺はいつもと変わらないだろ?」
首をかしげる男に、有栖は自分の携帯を突きつけた。
「なら、なんや、このメールは」
発信はおよそ二時間前。
──『今から電車で行く。明日の昼まで時間を空けておいてくれ。できれば、でいい』──
たったこれだけの、一見ごく普通のメールだ。だがこのメールに隠された不自然さが読み取れないほど、火村との付き合いは浅くはない。それはむしろ、有栖にとってはあからさまな程の不自然さだ。
突然来るのは構わない。たとえ手の離せない仕事があったとしても、火村は勝手にリビングで寛ぎ、ソファで眠る。どんなに忙しくとも、軽い夕食くらいは共にできるだろう。
だが、時間をずっと空けておけるかは別問題だ。仕事の都合というものがある。もし有栖に急な仕事が舞い込んでいたらどうするつもりだったのか。それを全て承知の上で、都合も聞かずに時間を空けろと命令し、挙句に『できれば』、だ。これではまるで、今この時を逃したら二度と会えないような、共に過ごせないならせめて最後は同じ空間に居たいと願うような──つまりはなりふり構わぬ懇願だ。
これが感傷でなくて何だと言うのか。
秋雨の降る歩道の上、並んで傘を差し紅い花を見つめながら、有栖は穏やかに尋ねた。
「君、学会で出張やったよなあ。いつからやったっけ?」
「……出発は明日の午後の便」
「行先は?」
「……ロンドン」
「君、何度も行っとるよなあ。帰国は?」
「……日本時間で言うなら、六日後」
「その後の予定は?」
「……週末は金曜から休みをとって、こっちに来る」
「そうや、晴れたら紅葉を見に行く約束やったなあ。金曜から日曜まで、ずっと一緒や」
「……」
「つまり君は、本当は今頃は出張と発表の準備に大忙しのはずや」
「荷造りは全部終わっているぞ。発表データはさっき送付した。明日下宿に寄って、スーツケースを持てばそのまま俺は機上の人だ。何の問題も無いだろう?」
平然とした態度を装い、だがどこかきまり悪そうに、火村がぼそぼそと答える。
「そういうことちゃうやろ!」
有栖は怒ったように大声を出した。もちろんその怒りは、全く別の甘やかな感情の裏返しだ。
「この寒い雨の中、時間無いのに無理してここまで来て、なにやっとんのや。しかも帰ってきたら、確実に会えるんやぞ。それが、これじゃあまるで今生の別れやないか。大げさにも程があるわ!」
「アリス」
火村が困ったような顔で有栖を見つめる。
「なんや」
息を荒げながら、有栖は火村を睨んだ。
「……迷惑だったか?」
「阿呆」
ぶっきらぼうに有栖は答えた。泣きそうな笑顔を見せなかったのは、最後のプライドだ。
「迷惑やったら、わざわざ傘持って迎えに来んわ」
そう、駅からマンションまでは僅か十分。その十分が待ちきれなくて、早く会いたくて会いたくて、傘を掴んでマンションを飛び出したのは自分だ。
仕事で一ヶ月以上会えないことも珍しくはない。なのにたったの一週間、海の向こうへ行くというただそれだけで、抑えきれない感情が溢れ出す。
雨が次第に激しくなり、傘を打つ音が大きくなる。
火村の手がそっと、有栖の頬に触れた。傘から零れた雨の滴を、白く長い指が拭い取る。
自分は──自分たちは、いったいいつから、こんなにどうしようもなくなってしまったのだろう。十年を超える密な付き合い、三十をとっくに超えた年齢、仕事、責任。普通ならそろそろ落ち着きを増すはずが、実際はまるで、付き合いたてのハイティーンだ。
「アリス……」
火村の声が、心臓に染み渡る。感傷を振り切り、有栖はにこやかに笑った。
「なあ、彼岸花見物もええけど、そろそろ行かへんか。本当に、風邪をひくのは御免や」
「そうだな、傘を差していても、意外に濡れるものなんだな」
火村がジャケットの裾を払った。
「この季節は仕方ないわ。冷えるしな」
紅い花に背を向けて、二人は歩き出した。マンションは、もうすぐそこだ。
「なあ火村、温めた牛乳、飲みたいか? 蜂蜜入りの甘いやつ」
「そうだな、結構冷えたから、作ってくれるならありがたい」
「そうやろうな、俺も作ったろう思ったんやけど、問題があるんや」
「何だ?」
「うちには蜂蜜とブランデーはあるけど、冷蔵庫に牛乳が無い」
「……は?」
有栖は目線を逸らした。
「だから……飲みたいならコンビニに寄るけど、どうする?」
一瞬の間の後、火村が唐突に有栖の手を握った。そのままぐいぐいと手を引き、有栖のマンションへと一直線に向かう。
「おい火村! うわっ、手、冷たっ……!」
「アリス、俺は寒いんだ。だから速やかに温まりたい」
「……っ」
「時間が惜しいんだ。協力してもらうぞ」
握った手から、有栖の体温が火村に伝わる。もはや有無を言わせぬ火村に手を引かれながら、有栖は小さな声で応えた。
「……ええよ、俺があっためたる」
有栖が目を覚ました時、火村はもうベッドにはいなかった。
「……火村?」
寝室の向こうから身支度をすっかり整えた火村が顔を覗かせる。
「悪い、もう時間だ」
「ちょっと待て!」
有栖は慌ててパジャマの上衣だけを羽織った。玄関まで火村を追いかける。
「アリス?」
「ん……っ」
玄関先で、有栖は火村の首に腕をまわした。そのまま、ちゅっと口づける。
触れるだけの唇を離し、有栖は穏やかに笑った。
「いってらっしゃい。気をつけてな」
一瞬の間の後、火村が優しく笑い、有栖に口づけた。
「ああ、いってくる」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
「なんや、新婚さんみたいやな」
「ああ、でも、悪くない」
「そうやな、これはこれで悪くないな」
もう一度唇を重ね、目線で言葉を交わし、そうして火村はドアの向こうへと出て行った。
しばらくの間、有栖は閉じたドアを見つめていた。
十年と言う時間を経てなお、愛おしさはつのるばかりだ。
無理をして会いに来た火村。十分の時間を惜しんだ自分。
三十を過ぎた、いい大人がすることではないのだろう。
けれど。
これはこれでいいじゃないか。
決して交わることのない葉と花に比べたら、自分たちは何と幸せなのだろう。
あの鮮やかな紅を思い出しながら、有栖はそう思った。
END.
|