■愁雨(1)■
マンションのエントランスを出ると、そこは灰色の世界だった。秋の小雨が、針のように冷たい。
傘を広げ、有栖は足早に駅へと向かった。
まだ昼過ぎだというのに空はどんよりと重く、歩き慣れている道が別世界のように薄く暗い。同じ道を歩いているはずの人影はぼんやりと遠く、ただアスファルトの路面だけが雨粒を跳ね上げて色濃く霞む。
空き地の前を通る時、視界の端が紅いもの捉えた。昨年まで家屋があったその土地の隅に、不吉の象徴のようにも語られるそれが生え残されていることに、有栖はごく最近気付いた。
──葉は花を想い、花は葉を想う──
決して交わることのない二つの存在が互いに焦がれる、その鮮やかな紅が有栖は嫌いではない。だが今は、のんびりと花を愛でている余裕は無い。雨に耐えるその花を後に、有栖は駅へと歩みを進めた。
糸のように細かな雨の中がシャツの袖からひっそりと忍び込む。知らず、濡れてべったりと重くなった手首を振り、有栖は差していた紺色の傘を反対の手に持ちかえた。もう一本のビニール傘は、開いてもいないのにその透明な膜の中に雨粒を孕んでいる。
まったく、自宅から最寄駅へと向かうたった数分でこれだ。この季節の雨に、傘は不十分だと有栖はいつも思う。秋の大嵐は人間の傘など軽々と吹き飛ばす。かと思えば、今日のようにしとしとと降る長雨は空気そのものを水に換え、透明な霧のように全てを包む。上空からの降雨のみを想定した傘で防ぎきれるものではない。とは言え、差さなければもちろん濡れ鼠だ。
駅の入り口が遠くに霞む。機械的に歩みを進める有栖の思考もまた、妄想と共に雨の中にぼんやりと溶けていく。
──ああ、せめてこれが、えんどう豆のスープを流したような雨だったらなあ──いや、本物は見たことないけど。あれは本当に白い霧らしいなあ。あ、だからあの国の紳士は傘を差さずにコートを着ているのか?──そうだ、日本にも雨合羽という大変に合理的な防雨服があるじゃないか。小さな子供が、カエルの目玉やアヒルのくちばしが付いた合羽を着ているのを見たことがあるぞ。あれの大人用はあるんだろうか。今度迎えに来る時は、あいつの分はビニール傘ではなく雨合羽にしよう。いつも白黒ばっかり着ているあの男に、緑のカエルの合羽を着せたらどうなるか──うわあ、絶対に面白いに決まってる──
妄想と水の中を漂っていた有栖は、気が付くと駅の前に立っていた。脳味噌が霧中に遊んでいる間も、自分の足はきちんと仕事をしていたらしい。
ちょうど電車が到着したのだろう、人の波が有栖の傍を通り過ぎていく。その波の先、改札の向こう側に、白いジャケットが見えた。ドクリ、と心臓が鳴る。呼吸が止まる。細い細い雨の向こう、歩いてくる火村以外の全ての時間が停止する。その時間は一瞬でありかつ永遠だ。まったく、十年を超える付き合いを経てなお、未だに顔を見るたびドキドキと暴れ出す自分の心臓には心底呆れる。
火村が有栖に気づき、驚いた顔をした。声は遠くて聞こえず、だがその薄い唇が形作る言葉が有栖にははっきりと見えた。
『アリス』
暴れまわる心臓を無理やり抑え、有栖は悪戯っぽく笑いながらビニール傘を掲げた。
「丁寧なお出迎え、痛み入るな」
「感謝せえよ。どうせ君のことやから、折り畳み傘なんか持っとらんやろ」
並んで傘を差し、二人は夕陽丘のマンションへと向かった。灰色の空は相変らずどんよりと重く、細い雨が服を濡らす。だが薄暗さは感じない。むしろ雨の白さが明るくさえ感じる。秋も半ば、街路の銀杏は黄金色に濡れ、道端の雑草は名残の緑に慈雨を受けている。隣を歩く男から漂う、煙草のしっとりとした匂いが心地よい。
「ああ、本当に感謝しているよ。おかげで予定より十分も早く、お前に会えた」
「……阿呆ぬかせ」
図星を指され、有栖は火村を精一杯睨んだ。
「でもまあ、君が本当に阿呆やったら、俺もわざわざ迎えに来んで済んだんやけどな」
「ん?」
「もし俺が傘持って迎えに来んかったら、君、どうしてた?」
火村は差していたビニール傘を少しずらし、空を見上げた。
「まあ、このくらいの雨なら、買ってまで傘は差さないな」
「そうやろ? で、秋雨を甘く見た君は、家に着く頃にはぐしょ濡れや。阿呆は風邪をひかんらしいけど、残念なことに助教授センセイは頭がええからな」
どうや感謝せい、とばかりに得意そうに、しかもわざと大真面目な顔を作り、有栖は火村を見た。火村はあからさまににやにやと笑っている。
「……なんやその顔は」
「俺の風邪をそこまで心配してくれる、お前の情の深さに感激していたんだ」
「……言うとくけど、君のためやないからな、俺がうつされたくないだけや」
冷たいはずの雨の中、僅かに火照る顔を有栖は傘で隠した。その傘の向こう側で、火村が笑う。
「それならそういうことにしておこう。だがな、アリス」
言いながら、火村が有栖の傘の縁を軽く弾いた。思わず上げた顔が、視線に晒される。
「なんや?」
僅かに水を孕んだ髪を邪魔そうにかきあげながら、火村が顔を近づけてくる。その意外に男臭い仕草に思わず見とれている間に、火村が強引に、有栖の傘の中に頭をいれた。
雨の中、人通りの少ない歩道で、低い声が密やかに耳を擽る。
「もし俺が濡れて冷えきったとしても、お前の協力があれば、速やかにあたたまることが可能だろう?」
「な……なに言うて……っ!」
二本の傘が、雨に包まれた世界から二人を遮断する。閉ざされた二人きりの世界の中、唇が触れるほどの距離で、甘やかな低音が囁く。
「暖めてくれるよな? 身体の外からも、中からも」
「っ……」
耳を擽る熱い吐息が、有栖の内側に否応も無く火をつける。それはもはや、慣らされた条件反射だ。まるでパブロフ博士が犬の前で鳴らすベルのように、低く囁く火村の声は有栖の奥底に眠る本能を揺り起こす。とは言え有栖は理性を持つ人間であるし、未だ与えられていない餌に涎をたらす器官は持ち合わせていない。まして、ここは屋外だ。燻る熱を理性で押さえつけ、有栖は涼しい顔で応えた。
「そうやな、熱いシャワーくらい、いくらでも貸してやるわ。それと温めた牛乳な。蜂蜜を溶かして、大サービスでブランデーも入れたるわ。腹の底からあったまるやろ?」
一瞬、火村が虚を突かれたように目を見開き、それから考え込むように唇をなぞった。
「熱いシャワー……甘いホットミルクにブランデー……」
いつもより湿気を孕んだ唇に白く長い指が触れる、傘の中、その仕草を間近に見せつけらる。思わず喉がごくりと鳴る。──いいのだ、これはもう、聞かされるだけのベルの音ではなく、目の前に差し出された餌だ。
数瞬の後、火村の目が焦点を結び、有栖を見た。
「悪くない」
「そうやろ?」
得意そうに有栖は笑った。有栖の提案は助教授のお気に召したようだ。
「ああ、いいアイディアだ、アリス」
甘く囁き、火村の頭が傘から離れる。上機嫌に歩く火村を見て、有栖はひっそりとため息をついた。
有栖が提案したのは、一人雨に濡れた火村がシャワーを浴びた後、リビングのソファで猫舌と格闘しながら、有栖が温めた牛乳を飲む光景だ。
だがおそらくこの男の頭の中では、雨に濡れていない有栖も熱いシャワーを浴びているに違いない。そして、ミルクを飲む場所はベッドの上で、もしかしなくても二人は裸で一枚の毛布に包まっているのだろう。
想像の間違いを訂正しようとして、有栖はやめた。どうせ火村はまたあの低い声で、『間違っていないだろう?』と言うに決まっている。そして今度こそ、自分はそれに反論できないに決まっている。
上機嫌に歩き続ける男を、有栖はちらりと見た。火村は雨の具合を確かめるように、時折、傘をずらして上空を見上げている。白いジャケットに、その精悍な横顔に、薄い唇に、小さな雨粒が降りそそぐ。
──ああ、唇を濡らす雨粒よ、呪われてあれ──
そんなフレーズが有栖の頭を掠める。
まったく、屋外でろくでもないことを言い出す変態性欲の持ち主のくせに、どうしてこの男は、こんなにもいい男なのだろう。
未だ火照る自分の耳を、有栖はそっと傘で隠した。
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