■春なのに(1)■
春を間近に控え、気の早い強風が窓ガラスをガタガタと揺らす。夕方と呼ぶにはまだ早く、だが薄い雲に覆われた空は早くも陰りをみせている。
自宅マンションの書斎で、有栖はキーボードを叩いていた。画面の中で物語がゆっくりと、だが滑らかに進んでいく。八割の没頭と二割の客観がバランスよく頭の中で働く。こういう時は気分がいい。
その八割の集中力を物語に残しつつ、有栖はちらりとカレンダーに目を走らせた。同時に残りの枚数を頭の中で数える。大丈夫、締め切りまでまだ余裕はある。
指を止めないまま、有栖は今日の朝刊を思い浮かべた。確証はない。だがもしかしたら、という予感が甘く胸に湧き上がる。
現実の殺人事件を痛ましく感じる自分と、そのことに僅かな期待を抱いてしまう愚かな自分と、それらを自覚しながら今まさに指先で人を殺している自分。二割の客観はそれらを矛盾することなく認識し、だが決して有栖が紡ぐ世界を侵食しない。
区切りの良いところまで書き上げ、有栖は大きく伸びをした。熱いコーヒーでもいれようかと立ちあがったその時、携帯電話が鳴った。
画面に『火村』という文字が浮かび上がる。心臓がドクンと鳴る。反射的に通話ボタンを押そうとして、有栖はその手を留めた。ゆっくりと息を吐き、呼吸を整える。
──大丈夫、急いで出なくても、火村は電話を切ったりせえへん──
そんなに気の短い男ではないことは、有栖が一番良く知っている。
自分しかいないマンションの書斎で、誰に対してかも分からないまま平静を装い、有栖は携帯を手に取った。ドクドクと鳴る心臓の音が聞こえてしまわないか、などと埒もないことを考えつつ、通話ボタンを押す。
「はい」
うわずる声を抑えるのに必死で、月並みな言葉しか出てこない。
電話の向こうから、待ち焦がれたバリトンボイスが聞こえた。
『ああ、アリス、仕事中だったか?』
仕事中であるかなど気にも留めていないその声に、有栖も生真面目な声を作って応酬する。
「作家は二十四時間、仕事中や。休講ばっかりの助教授センセイと一緒にすな」
『それはそれは、お忙しいところ邪魔して悪かったな、超売れっ子作家センセイ。ところで──』
邪魔して悪い、などという殊勝さは微塵も感じられないその声に、有栖はひっそり笑った。もう何年も、お約束のように繰り返してきた会話だ。講義中や缶詰中は別として、相手の都合をいちいち気にしていたら、十年を超える密な関係は結べない。
電話の向こうから、火村の心地よいバリトンボイスが続く。用件は予想通り、朝からニュースを賑わせている殺人事件に関するフィールドワークへの誘いだった。
即答で「行く」と答える。
明朝、現地集合という指示を有栖は承諾した。
『じゃあ、明日な』
「ああ、また明日な」
『寝坊するなよ』
笑いを含んだ声が有栖の耳に響く。
「目覚まし三個かけるから大丈夫や」
『寝坊しそうだという自覚はあるんだな』
「うっさいわ!」
楽しそうな笑い声を残し、通話は切れた。
有栖は沈黙した携帯電話をしばらく見つめた。画面は火村との通話が終了したことを告げ、やがてそれは待ち受け画面に戻る。
いつもの会話。いつもの皮肉の応酬。その名残を振り切るように、有栖は携帯電話を机に置いた。
事件現場は大阪市郊外の高級住宅街だ。一日で片が付かなかった場合、連日京都大阪間を往復するのは手間だろう。というか、火村にはそうする理由がない。ここ夕陽丘に定宿を持っているからだ。
頬に火照りを感じ、有栖は自分の頬を両手で叩いた。パンッという音とともに、気合がはいる。
「よっしゃ!」
熱いコーヒーをいれ、有栖は再びキーボードを叩き始めた。八割の集中力は健在だ。夜までもうひと仕事、次の区切りまで書き上げたい。それが終わったら夕食を済ませ、それから、一ヶ月ぶりに会う友人のために部屋を掃除しよう。
二割の客観が立てた計画に満足しながら、有栖はキーボードを軽やかに叩いた。
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