■快楽と体温(1)■


 名前を呼ばれた気がして、有栖はぼんやりと目を開けた。
──……? なん……や……?──
 部屋はまだ薄暗い。ベッドの中、目の前で火村の裸の胸が規則正しく上下している。眠っている間に有栖を抱き抱えるのは火村の癖だ。
 枕にしていた腕から抜け出し、有栖はそっと頭をあげた。男らしさを強調する喉仏、僅かにのびた髭、薄い唇、通った鼻筋。時に冷酷に光り、時に悪戯っぽく笑う目は、今は穏やかに世界を遮断している。若白髪の混じった髪はこの年齢になるとむしろ落ち着きを醸し出す。
 眠っている火村は相変らず、それなりに男前だ。薄暗い部屋の中、目の前の顔をぼんやりと眺めながら、有栖はそう思った。昼間は知性が前面に出がちだが、今は髭が野性味を演出している。これはこれで悪くない。
 火村の口元がむにゃむにゃと動いた。先ほど名前を呼ばれたのはこれだったのか。
 苦笑しつつ、有栖は時計を見上げた。まだ六時前だ。有栖はそっとベッドから抜け出した。部屋の中はさすがに寒い。フローリングの床からひんやりとした冷気が伝わる。スリッパを探し出し、散らばった下着とパジャマをかき集め、手早く身に着ける。
 有栖は窓に近づき、そっとカーテンを捲った。
 春を控えた早朝の空は、墨色の雲に覆われている。天気予報を信用するなら、今日は昼前には雨が降り始めるはずだ。
 重たい空を見つめながら、有栖は昨夜のことを思い浮かべた。
 火村と自分の境目が無くなり、世界が真っ白になるあの瞬間、火村は何かを囁いた。あの時、自分の耳はその言葉を捉え、同時に頭はその言葉を捉えることを拒絶した。それは火村が口にしたことのない言葉であり、火村が言うはずのない言葉だ。
──聞き違いや──
 あれはきっと、名前を呼ばれただけだ。そうに決まっている。そんな聞き違いをする自分の愚かさは、いっそ滑稽だ。有栖は無意識にパジャマの胸元を握りしめた。少しだけ胸が苦しいのは、窓から伝わる冷気のせいか、それとも──
「アリス?」
 不意に名前を呼ばれ、有栖はとっさに平静を取り繕った。わざと欠伸をしながら目を擦る。
「なんや、起こしてしまったか」
「ああ、寒くて目が覚めた」
 火村が緩慢に起き上がり、歩きながらパジャマを羽織る。そのまま有栖を後ろから抱きしめ、窓の外を見上げた。
「ひと雨きそうだな」
「そうやな。この雨があがって、寒さが終わったら、桜が咲くな」
「もうそんな時期か」
 背中を暖かさに包まれながら、有栖は遠くを見つめた。春になればこの窓からも僅かだが桜が見える。
「おいアリス、俺は寒いんだ。花見は桜が咲いてからにしてくれ」
 そう言いながら、火村がカーテンを閉める。引きずられるようにベッドに戻り、布団に包まる。本当に寒かったのか、火村が有栖を抱きしめた。冷えた火村の身体が温まるよう、有栖は身体をすり寄せた。
 今日は九時に府警へ行き、昨晩の捜査会議の結果を聞くことになっている。その後は、関係者の話を聞いてまわりつつ、現場で密室トリックの謎解きだ。八時にこの部屋を出るとして、あと一時間程は眠れる。
 徐々に伝わる体温に微睡み始めると、ごそごそと火村が動いた。手を伸ばし、自分の携帯をいじっている。
「……ん……?」
「目覚まし、七時でいいだろ」
「……三つ……十分おき……に……」
 火村が笑う気配がした。
「一つでいい。お前はもう少し眠れ。俺も寝る」
 髪をそっと撫でられる、その感触に身を任せたまま、有栖は暖かくなった火村の腕の中で眠りについた。



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