■萩乃町の狂犬■


 萩乃町(はぎのちょう)は、某地方都市の歓楽街だ。歌舞伎町やすすきのほど有名ではないが、一応、地元の観光ガイドにも載っている。小さな雑居ビルが所狭しと立ち並び、飲食店や風俗店、雀荘などが密集している。
 その萩乃町の中央通りは、いつもどおり喧騒に満ちた夜を迎えていた。
 キャバクラや風俗店の派手な電飾が、道行く人々を照らしている。雪がちらつく寒空の下、薄いドレスに身を包みんだ女たちが客に愛想を振り撒き、黒い服を着た男たちが大声で呼び込みをする。それを振り払うように、あるいは品定めするように、会社帰りのサラリーマンが歩いていく。酒と煙草の匂いに香水が混じったような、歓楽街独特の匂いが立ち込めている。
 小田島鶯(おだじまうぐいす)は、そんな人の波の中を歩いていた。寒さを少しでもしのぐため、ジャンパーのポケットに両手をつっこみ、肩をそびやかしている。
 すっきりと通った鼻筋に細い顎、細身で長身の身体。だが、単なる「若くてかっこいい男」と呼ぶには、彼の瞳はあまりにもぎらついていた。
 つい一時間ほど前、鶯はボーイとしてたった一ヶ月勤めただけのキャバクラをクビになった。きっかけは些細なことだ。酔った客が、ホステスの身体にべたべた触り、過剰なサービスを要求してきた。仲裁にはいった鶯に対し、客は目つきが気に入らない、態度が悪いと難癖をつけ、ウィスキーグラスを投げつけた。ウィスキーグラスは、とっさにホステスをかばった鶯の額に当たった。
 そこから先はよく覚えていない。
 気がついたとき、鶯は後ろからマネージャに羽交い絞めにされ、目の前には顔が血まみれになった客が転がっていた。拳の痛みとこびりついた血から、自分が客を殴ったということは分かった。客が腹を押さえて呻いている様子からして、おそらく蹴りも入れたのだろう。
 鶯はそのまま従業員控え室に連れて行かれ、マネージャからクビを宣告された。
 裏口から出て行く鶯の後ろから、マネージャの吐き捨てるような声が聞こえた。『狂犬なんて雇うんじゃなかった』と。
 今まで何度、同じ理由で店をクビになったか、鶯はもう覚えてはいなかった。
 大抵、相手の最初の言葉は「目つきが悪い」だ。
 自分から喧嘩を売ったことなど一度もない。だが、難癖をつけられると途端に血が沸騰し、頭の中が真っ白になってしまう。相手が客だろうが酔っ払いだろうがヤクザだろうが同じだった。鶯にとって、引くことは死ぬことと同じだ。
 雑踏の中を歩きながら、鶯はポケットから煙草を取り出した。
 店でのことを思い出だすと、ささくれ立った気分が治まらない。グラスをぶつけられた額がズキズキと痛む。
 安っぽいライターで火をつけようとした時、どんっと肩がぶつかった。振り向くと、いかにもチンピラといった風情の男が鶯を睨みつけていた。
 鶯は男に見覚えがあった。以前、働いていたキャバクラで見かけたことがある。確か、萩乃町を取り仕切る真島組の下っ端だ。
 男は鶯を威嚇するように肩を怒らせ、罵声をあびせた。
「どこに目ぇつけてるんだ、こらぁ」
 鶯は無言で、男に目を向けた。切り裂くような眼光の鋭さに、男が一瞬ひるむ。
 何だ、どうした、と声が聞こえ、男の仲間らしいチンピラが二人寄ってきた。人数が増えたせいか、男の表情に余裕が戻った。
「こいつがぶつかってきやがった。なのに謝りもしねえ」
「ぶつかってきたのはそっちだ」
 鶯はそう言い捨ててその場を去ろうとしたが、後ろから肩をつかまれる。
「ふざけんじゃねえ」
「なんだその目つきは」
「ちょっとこっちに来い」
 チンピラたちは、鶯のことを知らないようだった。口々に怒鳴りながら、鶯を裏路地に引っ張り込む。
 人気がなくなったところで、鶯は自分を掴む腕を鮮やかに振り払い、口の端を吊り上げて笑った。切れ長の目に狂気に似た光が浮かぶ。
「上等じゃねぇか。こっちもちょうどイライラしてたんだ。相手になってやるぜ」
 言い終わると同時に、鶯はチンピラの一人を殴り飛ばした。
「この野郎!」
 もう一人のチンピラが、鶯を後ろから羽交い絞めにした。最後の一人が鶯の顔を殴りつける。鶯は少しよろけたが踏みとどまった。すかさず蹴りで応酬し、反動を利用して、自分を押さえつける腕を振りほどく。殴られても蹴られても、鶯は身を守ろうとはしなかった。ただ相手をぶちのめす、そのことしか鶯の頭にはない。
 五分後、鶯の足元には三人のチンピラがうずくまっていた。チンピラたちの口からは呻き声が聞こえる。鶯も足元はふらついていたが、どうにか立っていることはできた。口の中が切れていることに気づき、口元の血を手の甲で拭う。
 その時、鋭いホイッスルの音が響いた。
「そこ! 何をやっている!」
 音のするほうを見ると、表通りの人ごみを掻き分けながら二人の制服警察官が走ってくるのが見えた。
 鶯は心の中で舌打ちをしたが、今さら逃げる体力も気力もなかった。それに、喧嘩で警察の世話になるのも慣れていた。
 警官がチンピラたちを引きずるように立たせる。表通りの通行人たちは足を止め、覗き込むようにその様子を見ていた。鶯の元へも、見覚えのある警官がやってくる。
「またお前か」
 警官は面倒臭そうに言った。
「あいつらが先にカラんできやがったんだ」
「とにかく、話は署で聞く」
 警官が鶯の腕を掴む。反射的に振り払った時、男の声がした。
「うちの若い者が、何かしましたか」
 警官が声の方を向き、渋い顔をした。
 ダブルのスーツに白いコートを羽織り、黒光りする靴を履いた男が、五人ほどの取り巻きを引き連れて立っていた。
 鶯はその男を知っていた。真島組の岸本だ。萩乃町の風俗店を取り仕切っている、と以前勤めていたバーのママが教えてくれた。
 岸本は三人のチンピラと鶯を一瞥すると、キツネのように小ずるそうな顔に笑顔を浮かべ、警官に話しかける。
「ご迷惑をおかけしてすみませんね。こいつらはこちらで引き取りますので、ここはひとつ穏便に」
 岸本と二、三言、会話をした後、警官たちは去っていった。どうやら岸本は、自分の組のチンピラだけでなく、鶯も解放させたらしい。
 岸本は自分の取り巻きに、まだうずくまっているチンピラたちを連れて行くように指示した。チンピラたちはのろのろと立ち上がり、鶯の方を見て「覚えてろよ」「ぶっ殺してやる」などと怒鳴りながら、引きずられるように去っていった。
 見物していた通行人たちも、再び歩き始める。
 鶯も、頬の痛みに耐えながら、その場を立ち去ろうとした。その後ろから、岸本が声をかけた。
「礼ぐらい言ったらどうだ? しょっ引かれるところを、俺がわざわざ口を利いてやったんだぞ」
 恩着せがましい声を無視し、鶯は歩き始めた。だが、岸本の声は続く。
「三人相手にひるみもしないか。さすが『萩乃町の狂犬』だな」
 その言葉に、鶯は勢い良く振り向いた。地面を蹴って一瞬で岸本に近づき、胸ぐらを掴んで首を締め上げる。
「俺を犬と呼ぶんじゃねえ」
 ぎらついた瞳が、岸本を射抜く。
 だが、残っていた二人の取り巻きが「この野郎!」と怒鳴りながら、鶯を引きはがず。わき腹を強く蹴られ、鶯は地面に転がった。すかさず肩をつかまれ、うつ伏せにアスファルトへ押し付けられる。
 岸本は薄笑いを浮かべ、乱れたネクタイを直しながら言った。
「口の利き方に気をつけるんだな。お前はウチの舎弟を三人もツブしてくれたんだ。俺の口利き一つで、組の連中に報復させることもできる」
 鶯は地面の上から、岸本を睨みあげた。
「そう怖い顔をするな。今日はお前に用があって来たんだ」
 薄笑いを浮かべながら、岸本は鶯の前にしゃがみ、鶯の顎をつかんで持ち上げる。岸本の指の感触に、鶯は嫌悪感を覚えた。しかし抵抗しようにも、押さえつけられていて身動きができない。アスファルトの上で溶けかけた雪の冷たさが、鶯の身体に染み込んできた。
「店をまたクビになったそうじゃないか。金がいるんだろう?」
 岸本は立ち上がると、鶯を押さえつけている男たちに「放してやれ」と身振りで指図した。自分を押さえつける腕が離れた瞬間、鶯は岸本に殴りかかろうとした。だが、蹴られたわき腹の痛みに咳き込み、膝をついてしまう。
 鶯は地面に座りこんだまま、岸本を睨み上げた。立ち上がることすらできなくとも、鶯の瞳は凶暴な光を失ってはいなかった。
 岸本は内ポケットから煙草を取り出して銜えた。すかさず、取り巻きの一人が銀色の高価そうなライターで火をつける。
 岸本は紫煙を吐き出しながら言った。
「ここじゃ落ち着いて話もできねぇ。ついてこい」



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