■ヴィのような(2)■
海の方から、大きな音が地響きのように聞こえてきた。安積は書類作りの手を止めて、窓の外を見た。夜空には鮮やかな光が浮かんでいる。老朽化した建物はこの音にすら耐えられず、まるで揺れているような錯覚をひきおこす。
「お、はじまったぞ」
誰かの声を皮切りに、残っていた若い署員たちが二階の窓に群がった。その中には、須田と黒木の姿もある。
安積は思わず表情を緩めた。
待機寮に戻れば、もっと気楽にビールでも飲みながら見物できるだろう。だが、署員たちがここで花火を見たがる理由は、何となく分かる。花火は大勢で見たほうが楽しいのだ。
聞き慣れた足音が近づいてきた。
「よお、ハンチョウ。刑事には花火を楽しむ情緒ってもんがないのか?」
当然のようにやってきた青い制服姿に、安積は顔を上げた。
「お前こそ、仕事はどうした」
「今日はあがりだ」
にやりと笑いながら、速水は窓へと向かった。
普段は一階で勤務している署員たちも、次々と二階にやってくる。もしかしたら今日が一年で一番、この部屋に人が多いのではないだろうか。
さして広い部屋でもないので、少々暑苦しく感じなくもない。だが、楽しそうにはしゃぐ若者たちの姿は微笑ましい。皆がこんなに楽しそうなのだから、花火もなかなかいいものだ。
ふと、部屋を見渡すと、村雨と桜井が机に向かっていた。村雨は淡々と、桜井はいかにも大急ぎといった様子で必死に、書類を作っている。
なにもそんなに急がなくとも、花火を見てから作ればいいだろうに。それとも、村雨に遠慮しているのだろうか。
そんなことを考えながら、安積は再び書類に向かった。が、どうも視線を感じる。窓際の署員たちが、ちらちらとこちらを見ているのだ。
安積は諦めて、ボールペンを置いた。こちらが何も思っていなくとも、若い署員からすれば、係長──階級で言うなら警部補が仕事をしていては、羽目を外しにくいのだ。
安積は座ったまま窓の方を見た。さすがに、若者に混じって窓にかじりつくような年ではない。署員たちの頭越しに、花火の端っこであろう、小さな光が見える。これでも十分きれいじゃないか、と安積は思った。
そういえば速水はどこへ行ったんだ?
速水の姿を目で探し出し、安積は呆れ半分に笑った。
速水は窓の最前列にかじりついていた。何やら楽しそうに、年の離れた署員たちと笑いあっている。
大人気ないが、違和感もない。
あいつも、俺と同じ警部補なんだがな──そんなことを思いながら、安積はぼんやりと、僅かに見える光を眺めた。
ふと、速水がこちらを見た。いつもの顔で、にやっと笑う。つられて安積も、頬を緩めた。
楽しそうな速水の頭越しに、きれいな光が弾けた。
書き終えた書類にもう一度目を通し、村雨はボールペンを置いた。隣の席では、桜井が必死に書類を書いている。
花火を見るのは仕事を終えてから。そう命令したつもりはないが、桜井が何のためにこんなにも急いでいるのかは、さすがに分かる。
花火が終わるまでに書き終わればいいが──そう思いつつ、村雨は席を立った。
確認印をもらうために係長席まで行き、声をかけようとして、村雨は動きを止めた。
安積係長は、窓の外の花火を眺めていた。僅かに微笑んだその顔は穏やかであり、楽しそうであり、そして、とても優しかった。
村雨は、その目線の先を追った。窓の外の花火、その手前に群がる若い署員に混じり、ひときわ目立つ青い制服姿があった。
「ああ、どうしたんだ、村雨」
思わず立ち尽くしていた村雨に気づき、安積が声をかけた。
「……あ、いえ……」
「村雨?」
「……なんでもありません。明日で結構ですので、確認印をお願いします」
動揺を抑えつつ、村雨は書類を渡した。
今夜何度目かも分からない、大きな音が響いた。
安積が窓の方を見ながら言った。
「しかし、きれいなものだな」
「そうですね」
村雨も、窓の外を見た。僅かに見える光が、数日前のテレビを思い出させる。
「係長」
「なんだ?」
「係長は、花火は好きですか?」
安積が軽く驚いたように村雨を見た。
「考えたこともないな。そもそも花火は、好き嫌いを論じるようなものではないだろう」
日本人にとって、米のようなものじゃないのか?
安積の答えに、村雨は僅かに笑った。まったく、そのとおりだ。
「好き嫌いはともかく、皆があんなに楽しんでいるのだから、いいものだなと思うよ」
そう言いながら、安積はまた、窓の方を見た。その目線の先にあるもの、そして、安積の穏やかな微笑みに、村雨の中で何かが痛んだ。
その時、背後で「できた!」という声がした。がたがたと、椅子から立ち上がる音がする。
村雨は奥歯をかみ締め、それから、安積に向かって言った。
「係長、私はお先に失礼します」
「花火を見ていかないのか?」
安積の問いに、村雨は努めて冷静に、背後に聞こえるように少し大きな声で答えた。
「家族と……約束がありますので」
そう言うと、村雨は踵を返した。
「村雨さん、花火を──」
すれ違いざまに桜井の声が聞こえた。それを無視し、村雨は足早に外へ出た。
家族との約束などない。桜井との約束も忘れてはいない。
ただ、安積係長の前で──僅かな花火と青い制服、ただそれを見ているだけで、あんなにも穏やかに微笑む安積係長の前で、桜井と花火を見ることが、村雨にはできなかった。
END
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