■チョコレート(2)■


 結局、書類を作り終えて時計を見ると、定時を三時間ほど過ぎていた。他のメンバーはとっくにいない。
 安積は帰宅準備をして一階に降りた。
 交機隊の島に顔を出すと、残っていた署員が、速水は帰宅したと教えてくれた。
 考えてみれば、チョコレートを受け取るだけなら、あの時すぐに速水の机まで行けばよかったのだ。
 そんな単純なことにも気づかないほどに──つまり、動揺していたということだ。
 何となく、速水の手の上で踊らされたような気がして、安積は面白くなく感じた。

 手近な定食屋で夕食を取り、電車に乗って、大崎へ向かう。
 いつの間にか、通い慣れた道だ。慣れたと感じる自分が、また、面白くない。
 マンションの部屋の前でチャイムを鳴らすと、見慣れた顔が出迎えた。
「よう、遅かったな」
「あいにくと、書類が溜まっていてな」
 勝手知ったる他人の家だ。
 安積はコートと上着を脱ぎ、ソファーに腰掛けた。テーブルの上に、きれいにラッピングされた包みがある。
 挟まれたカードを開くと、見慣れた字で「お父さんへ」と書かれていた。見間違うはずもない、娘の字だ。
 包みの中は、洋酒入りのチョコレートだった。
 キッチンから、速水が顔を出した。
「メシは?」
「食ってきた」
 速水がグラスとポットを持って戻ってきた。
 棚からウイスキーのボトルを出し、手際よく二つのグラスに注ぎ、お湯で割る。
「署で、おまえがチョコレートを貰ったって噂になってたぞ。相手が誰か、賭けまでしそうな勢いだった」
「へえ」
 安積はグラスを取り、口をつけた。冷えた身体に、温かいアルコールが沁みる。
 速水が隣で、にやにや笑いながら言った。
「で、おまえは誰に賭けたんだ?」
 その答えを、俺に言わせたいのか? 本当に嫌なやつだ。
「そんな賭けに、のるわけないだろう」
「そうだよなあ」
 速水のにやにや笑いが気に食わない。
 安積はチョコレートの箱を手に取った。
「どうして署で渡さなかった?」
 こんなことをしないと、俺がここに来ないと思ったのか? 馬鹿馬鹿しい。
「本命のチョコレートを貰う気分を味わってみたかった」
 速水は相変わらず、にやにやと笑っている。安積をからかって、反応を楽しんでいるのだ。
「なんだ、おまえ、チョコレートが欲しかったのか?」
 安積は小さな包みを一つ手に取り、キラキラした包装紙を剥いた。
「ほら」
 つまんだそれを無造作に、速水の口の近くに持っていく。
 速水が呆れたように言った。
「おまえさん、本当に色気がないな」
「そんなもの、俺に期待するな」
 安積は憮然と言う。本当に、そんなものを期待されても困る。どうしていいのか分からないのだ。今まで、そういうことをした経験がないのだから。
「こうやるんだよ」
 速水は、安積がつまんだチョコレートを半分、唇で挟んだ。そのまま、安積の頭に手をまわし、上を向かせる。
 チョコレートが安積の唇に触れた。至近距離で、速水が安積を見つめている。
 安積はゆっくりと、唇を開いた。チョコレートを口に含むと、僅かに唇が速水に触れた。
 その距離を楽しむように、速水がチョコレートを噛み砕いた。
 中の洋酒が流れ落ちる。
 思わず抑えようとした安積の手を速水が捕らえた。
 顎を伝う液体を速水の舌が舐め取る。舌はそのまま、安積の唇を舐め、ゆっくりと侵入してきた。
「ん……っ」
 いつものように深くは入ってこない。入り口付近を舐めるように、時には啄ばむように、浅く触れているだけだ。それなのに甘ったるい匂いと酒の味が入り混じり、いつも以上に濃く深く感じる。
 速水が唇を離した。
 安積は速水を精一杯、睨んだ。目が潤んでいるのが、自分で分かる。きっと頬はみっともなく、赤くなっているに違いない。
 速水は安積の肩に手をかけ、ソファーに押し倒した。安積は逆らわなかった。
 器用な手が、安積のネクタイをほどく。ワイシャツのボタンを外す速水の顔に、ふと、苦笑いが浮かんだ。
「おまえからチョコレートが欲しいなんて、思ってないさ。ただ、おまえは、おまえが一番欲しいチョコレートを毎年貰っている。ちょっと羨ましかっただけだ」
 安積は黙って、速水の頭に腕をまわした。
 速水のささやかな嫉妬を嬉しいと感じる、そんな自分は浅ましいだろうか。
 もし、速水の慣れた行為が物語る、過去の経験に嫉妬していると言ったら、速水はどんな顔をするだろうか。
 言えるはずもないことを考えても仕方が無い。
 安積は、口に出して言う代わりに、速水の唇に残った液体を舐め取った。
 
 
END



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