■チョコレート(1)■


 二月は一年で一番寒い。朝は特に冷え込む。
 取り立てて寒さが苦手なわけではないが、年々、身体がつらくなってくるのは否定できない。
 あと二週間もすれば三月だ。そうすれば、少しはこの寒さも和らぐだろう。
 そんなことを考えながら、安積はいつもどおり、署に入った。
 二階へ上がる階段の前で、女性職員に声をかけられた。大きな紙袋から取り出した、小さな包みを渡される。
 そうか、今日はバレンタインデーか。
 職場で女性職員がチョコレートを配るというのは、よく考えると奇妙な習慣だ。
 が、安積は深く考えないことにしていた。そもそも、バレンタインデーに対する拘りも興味もない。義理とわかっているものを断るのも面倒なので、とりあえず受け取り、適当に誰かにおしつける。毎年のことだ。
 階段を上がり、踊り場でふと下を見ると、速水の姿が見えた。先ほどの女性職員が差し出す包みを受け取らず、ひらひらと手を振って、部屋の中へと消えていった。
 女性職員の方も、毎年のことなので気にしていないようだ。そもそも、最初から速水の分など用意していないのかもしれない。
 速水が義理チョコレートを受け取らないことは、少しでも親しい人間なら誰でも知っている。
 何かポリシーがあるのか、単に甘いものが嫌いなのか。案外と硬派なところがあるから、安易なお祭り騒ぎに乗りたくないのかもしれない。
 そういえば、長い付き合いなのに、理由を聞いたことがなかったな──
 そんなことを考えながら、安積は刑事部屋へと向かった。
 さて、貰ったチョコレートを誰に押し付けようか。須田は意外に食べないし、村雨だと家庭にいらぬ波風が立つかもしれない。桜井に押し付けたら、村雨が機嫌を損ねるかもしれない──というのは、いくらなんでも考えすぎか──
 結局、先に出勤していた黒木に押し付けることにした。迷惑がるかと思ったが、黒木は意外にも嬉しそうな顔をした。


 午後になっても大きな事件はなく、比較的穏やかに一日が過ぎて行った。
 安積は書類作りの手を止めて立ち上がった。休憩ついでに廊下へ出る。廊下の突き当りは小さな休憩所になっていて、テーブルと自動販売機がある。
 その休憩所で、数人の署員が何やらひそひそ話をしていた。その中には須田と黒木もいる。
 勤務時間中だが、今日は珍しく事件がない。少しくらい息抜きをしたってかまわないだろう。
 邪魔をしないよう、安積は声をかけずに自動販売機に近づいた。
 気づかぬふりをするつもりだったのだが、偶然、須田と目が合った。あわてて目を逸らす須田の態度に、安積はひっかかりを感じた。
 ちょっとしたおしゃべりを咎めるほど、俺は規律にうるさいと思われているのか?
 他の署員も安積に気づいた。一人が声をかけてきた。
「あ、安積係長、知ってますか? 速水小隊長のチョコレートの話」
「おい、やめろって」
 須田が慌てて話をさえぎろうとする。署員は不思議そうに須田を見た。
「何でだよ、安積係長なら知っているかもしれないだろ?」
「何の話だ?」
 須田は何とも言えない顔で目を逸らした。黒木は無表情だ。
 署員は好奇心たっぷりに尋ねてきた。
「速水小隊長の机の上に、チョコレートがあるんですよ! しかも結構、高級そうなヤツ!」
 速水にチョコレート?
「それがどうしたんだ?」
「ほら、速水小隊長って、義理チョコは受け取らないじゃないですか。だから絶対に本命だろう!ってみんなで言ってたんですよ」
 馬鹿馬鹿しい。なんだって、大の大人が雁首そろえて、チョコレート一つで盛り上がっているんだ。
「相手が誰なのか気になるじゃないですか! 安積係長、ご存知ないですか?」
 署員は好奇心いっぱいの顔で尋ねてくる。
「知らんよ」
 安積は呆れながら、さっさと缶コーヒー買い、その場を後にした。
 署員たちは、速水の相手が誰かで賭けを始めたようだ。
「すみません、チョウさん」
 後ろから、須田の申し訳なさそうな声が聞こえた。
 速水のチョコレートより、須田が何故そんなに申し訳なさそうな態度を自分にとるのか、そちらの方が安積はひっかかった。

 自席に戻り、安積は書類作りを再開した。
 須田と黒木も戻ってきた。何となく、須田がそわそわしているような気がする。
 まったく、速水がチョコレートを受け取ったってことが、そんなにも大事件なのか?
 あいつだって、何が何でも義理チョコを受け取らないわけじゃないだろう。断りきれない場合だってある。
 そういえば、あの署員は、高級そうだと言っていた。本命ならばなおさらだ。その気の無い相手のチョコレートを受け取るような男ではないが、憎からずの相手に渡されれば、悪い気はしないだろう。速水は独身だ。何もおかしいことはない。そう、何もおかしいことも、不都合なこともないのだ──

「……長、係長?」
「え、あ?」
 いつの間にか、書類作りの手が止まっていた。
 村雨が怪訝そうな顔で立っている。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。何だ?」
「今日はお先に失礼したいのですが……」
「え?」
 安積は時計を見た。定時だ。全く気づかなかった。
「ああ、おつかれさん」
 特に事件も無い。何も無い日は、早く帰るべきだ。他のメンバーも、今日は早く帰らせよう。
 それにしても、事件がないとは言え、村雨が定時きっかりにあがるのも珍しい。
 ドアを出て行く村雨を見ながら、安積はぼんやりと考えた。
 まったく、今日は速水のせいで書類作りがはかどらなかった。全部、あいつが悪い。あいつのせいで──
 なんで、あいつのせいで書類作りが進まなかったんだ? ただ、あいつがチョコレートを貰ったと聞いただけなのに。
 その理由を考える前に、ドアの向こうに人影が現れた。
 速水だ。入り口から、安積を手招きしている。
 いつもならズカズカと刑事課の縄張りに入り込んで来るくせに、何で俺が行かなきゃならんのだ。用があるなら、そっちが来い。
 安積は無視をした。
 速水はしばらくして、苦笑しながら入ってきた。須田がなにやらビクビクしているのは──気のせいだ。
「よう、ハンチョウ」
「何の用だ。俺は忙しい」
「そんなこと言っていいのか? 大事な預かり物があるっていうのに」
「預かり物?」
 安積はようやく顔をあげた。速水がにやにや笑っている。
「昼に偶然、外でお嬢さんに会ってな」
「涼子に?」
「ああ。お父さんに渡してくれって、チョコレートを預かった。自分で渡したかったが、急用が出来たんだとさ」
 なんだ、じゃあ噂のチョコレートは、俺宛だったってことか。
 安積は脱力した。
 涼子は毎年、チョコレートを贈ってくれる。それが嬉しくないといえば嘘になる。
「それはすまなかったな」
 受け取ろうとする安積に、速水は両手を広げてみせた。
「ここには持ってきていない」
「なに?」
 速水は安積に顔を近づけ、声を潜めた。
「欲しければ、取りに来い」
 速水はにやりと笑い、刑事部屋を出ていった。
 須田の方を見ると、書類作りに精を出している。いや、出しているふりをしているだけのように、安積には思えた。



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