■もう一度(3)■
馴染みの小料理屋で、相馬はカウンター席を選んだ。今日は別に、密談をするわけではない。斎木も特に異存はないようだった。
斎木のコップにビールを注ぎながら、相馬は口を開いた。
「まあ、なんだ、世話をかけたな」
「大したことはしていませんよ」
斎木が穏やかに微笑む。
皮肉の通じない斎木を相馬は軽く睨んだ。
確かに、相馬はベッドに縛りつけらるような大怪我をしたわけではないので、斎木も大層な看病をしたわけではない。問題は、その頻度だ。
退院するまでの数日間、斎木は毎日のように相馬の病室にやってきたのだ。
最初は照れくささから、来なくていいと言った相馬も、次第に本気でやめろと言い、最後には諦めた。
結局、斎木は毎日のように細々とした世話を焼き、相馬もなんだかんだで、斎木が来る時間には病室を空けないようにする癖がついてしまったのだ。
相馬はビールを啜りながら、斎木を見た。
「自衛隊ってのは、怪我をした同僚を毎日見舞う風習でもあるのか?」
「そんなことはありませんよ」
「じゃあなんだって、あんなに世話を焼きたがるんだ」
斎木は穏やかな微笑を浮かべたまま答えた。
「相馬さんのことが好きだからですよ」
相馬は思わず、噴き出しそうになった。かろうじて踏みとどまり、強引にビールを嚥下する。周りを見渡し、聞かれた様子がないことに少し安堵する。
斎木は相馬の反応を不思議そうに見ていた。
「おまえ……」
何と言っていいのか分からない。斎木が言うことは、斎木にとって本当のことなのだ。それはもう、十分に良く分かっている。だからこそ余計に、ニュアンスが掴みづらい。
結局、相馬は言葉通りに解釈することにした。もちろん、同僚として、もしくは共に戦った仲間として、だ。
「おまえ、最初は俺のことを馬鹿にしていたじゃねえか」
「どうしてですか?」
心外だ、というように、斎木は相馬を見た。その口元には、薄く笑みが浮かんでいる。
相馬は斎木を睨んだ。
「その顔だ。そうやって、余裕のある面をしているのが気に喰わねえ」
「そう感じるのは、相馬さんが、私のことも自分のことも信じたくなかったからでしょう」
相馬は押し黙った。この話になると、どう考えても、分が悪い。
そっぽを向いて酒を喉に流し込む相馬に、斎木が苦笑した。
「すみません、私もあの後、反省しました」
「反省?」
相馬は斎木を見た。
「建前が言えないことか? 反省したところで、変わるものでもねえだろう」
「そのことではありません。私は相馬さんに甘えていたんです」
甘えていただと? こいつが、俺に?
相馬は思わず、斎木を見据えた。
斎木は僅かに、コップに目線を落とした。
「あなたの経歴を見たとき、私はようやく、同じ種類の人間に出会えたと思いました。圧力に屈せず、自分の信じるもののために生きる人間だと」
斎木はゆっくりと、相馬を見た。
「でも、実際に会ったあなたは、別人のようでした」
「……悪かったな」
相馬は目を逸らし、ぶっきらぼうに言った。さっきから何とか反論したいのだが、上手い言葉が全く出てこない。
斎木は続けた。
「私は、会ったこともないあなたが、同じように私を同類だと感じると思い込んでいた。それは、私の甘えです。なのに私はそれに気づかず、あなたが私の想像通りでなかったことに苛立っていた。そして、意図的に、あなたを怒らせました。つまり、あなたに甘えていたのです」
相馬は何も言えなかった。何もそこまで背負い込むことはないだろう、とは思うが、そう口にするのはなんとなく、躊躇われる。
斎木は珍しく、少し俯いている。こいつでも落ち込むことがあるのか、と、相馬は少し驚いた。
なんと言っていいのか分からないまま、考えた挙句、相馬は口を開いた。
「まあ、なんだ、甘ったれは勘弁して欲しいが、年上の人間ってのはたいがい、つらい時に頼られたら悪い気はしないもんだ」
多分、斎木が言っているのはそういうことではない。分かってはいるが、相馬にはこれが精一杯だった。
見当はずれな上に柄にもないことを言った気がする。また馬鹿にしたように笑われる気がして、相馬はビールを喉に流し込みながら斎木を伺った。
「相馬さん」
相馬は一瞬、動きを止めた。斎木はとても嬉しそうに笑っていた。
「ありがとうございます」
礼を言われる筋はない、と思ったが、それどころではなかった。
しばし呆然と、相馬は斎木を見た。犬が尻尾を振っている様子を連想してしまい、軽く咳払いをする。
なんだってこいつは、急にこんな顔で笑うんだ? いつもは無表情か、でなければ、何もかも知っているような顔で薄笑いを浮かべているくせに。
同一人物とは思えない、無邪気とも見えるその笑顔から、相馬は目を逸らした。
「どうしました?」
「……いや、そんな顔で笑えるんだな」
「誰が笑っているのですか?」
「おまえだよ」
「私が?」
斎木が不思議そうな顔で相馬を見た。相馬も、斎木を見た。
「私は笑ってなどいませんよ? 確かに、時々人から、薄笑いが気に入らないと言われることはありますが、それは一種の交渉術ですから」
「……人懐っこいとか、言われたことはないのか?」
「そんなことは、一度も言われたことがありませんね」
相馬は頭を抱えたい気分になった。
じゃあ、何か? こいつのこの、犬ころみたいな笑顔は無自覚なのか? しかも、他人に言われたことがないだと?
普段は無表情だの薄笑いだのばかりの斎木が、急にこんな笑い方をしたら、誰だって驚くだろう。ひとこと言いたくもなるはずだ。
言われたことがない、という斎木の言葉は、嘘ではありえない。ということは──
「相馬さん、本当に私は笑っていたのですか?」
「いいや」
相馬は、溢れそうになる笑いを噛み殺しながら答えた。斎木が怪訝そうに、相馬を見る。
「おまえが笑ってないって言うんなら、そうなんだろ」
斎木は何か、腑に落ちない顔をしている。
相馬はビールを喉へ流し込んだ。
斎木の笑顔を知っているのが自分だけかもしれない、と──それを悪くないと思ってしまっている自分が、確かにいる。それは絶対に、斎木には知られたくない。
そして、いつの間にか、斎木の言うことが斎木にとっては本当なのだと、信じてしまっている自分がいる。それもまた、悪くない。
斎木はそんな相馬をしばらく見つめ、もう一度、笑った。
「私のことは分かりませんが、笑っている相馬さんも好きですよ」
相馬は動きを止めた。そして、本当に心の底から、顔をしかめた。
END
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