■小さな一歩(7)■
何かが身体に触れる感触に、安積は意識を取り戻した。
目をあけると、すぐ傍に速水がいた。手にタオルを持っている。どうやら、安積の身体を拭いていたようだ。
「俺は……落ちてたのか?」
「ああ。ちょっと心配したぞ」
速水は苦笑しながら、安積の身体を拭っていく。抵抗する気力も無く、安積は速水のするがままに任せた。
身体を拭き終えた速水が、グラスに入れた水を差し出した。安積は半身を起こして受け取った。声を出しすぎたのだろう、乾燥した喉に、冷たい水が心地よかった。
速水はベッドに腰掛けた。既に下はスウェットを履いている。
何も着ていないことが急に気恥ずかしくなり、安積は毛布を腰まで引っ張り上げた。
「で、どうするんだ?」
速水が尋ねた。
「俺はおまえに惚れている。おまえは俺を何とも思っていない。そして、今日、俺たちはセックスをした」
安積は黙って、速水の言葉の意味を考えた。
速水は続けた。
「何もなかったことにするか? それとも、俺のものになるか?」
「誰がおまえのものなんかになるか」
安積は憮然として言った。速水は苦笑した。
「なら、何もなかったことにするか」
「そんなこと出来るわけがないだろう。事実は……消せない」
「なら、どうするんだ?」
速水は真剣な顔で、安積を見た。その表情には苦痛が浮かんでいるように、安積には思えた。
一呼吸おいて、安積は言った。
「俺が責任を取る」
「は?」
「男なんだ、寝た相手に責任を取るのは当然だろう? だから、俺が責任を取って、おまえと付き合う」
「おまえなあ……」
速水は呆れ半分、怒り半分の表情で安積を見た。
「責任感で付き合って欲しいなんて、思っちゃいない。第一、責任を取るなら俺の方だ」
「俺が責任を取るのは、おかしいか?」
安積のまっすぐな眼差しに、速水は目を逸らした。ベッドの上の安積を優しく抱きしめる。
「なあ、安積。俺はおまえに幸せになって欲しいんだ。別れたカミさんでも誰でもいい、好きな相手とくっついてくれれば、安心なんだよ」
「おまえとじゃあ、幸せになれないって言うのか?」
速水の腕に力がこもった。
「絶対幸せにする、とは言えないな」
「別に、おまえに幸せにしてもらわなくてもいい」
「安積?」
安積は腕の中から、速水を見据えた。
「俺が幸せかどうかは、俺が決める。おまえが決めることじゃない」
「安積……かんべんしてくれ」
とうとう速水は音をあげた。
「二十年だぞ? 俺は本気でおまえに惚れているんだ。……分かってくれよ」
「──怖いのか?」
「なに?」
速水は思わず、安積を睨んだ。
「俺が不幸になるのが怖いのか? それとも、いつかおまえとも別れるかもしれないことが怖いのか?」
「安積!」
速水は怒鳴った。同時に、速水にも安積にも分かっていた。図星を指されると人は怒るということを。
「だから……っ」
安積は真剣な顔で速水を見た。
「おまえが怖いのは、俺のせいだ。だから、俺に責任を取らせてくれ」
「安積……」
「頼むから、そういうことにしてくれ」
安積は赤くなって目を逸らした。
「俺は、おまえの気持ちに二十年も気づかなかったし、おまえみたいに経験豊富でもない。だから、おまえみたいに、惚れているなんて言葉は簡単に言えないんだ」
「安積……」
「そのうち、多分、言うから。だから今は、俺が責任を取っておまえと付き合う、ってことにしておいてくれ」
速水は安積を強く抱きしめた。
「わかった。おまえはそれでいいんだな? 安積」
安積は速水の腕の中でうなずいた。
安積の耳に、速水の言葉が届いた。
「安積……愛してる」
安積は、うなずいた。本当に、それが精一杯だった。
END
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