■抱擁(4)■
事件発生から二週間。ようやく容疑者が逮捕され、帳場は解散した。
自分の机で書類と格闘していた速水は、時計を見た。午後八時。今ごろ、刑事たちは茶碗酒で互いをねぎらっているのだろう。
「あれ、まだ帰らないんですか?」
隊員が声をかけてきた。速水は第一当番だ。退勤時間はとっくに過ぎている。
「いや、そろそろ切り上げるさ」
速水は立ち上がり、帰り支度をした。
刑事部屋を覗こうかと思ったが、やめておいた。明日から安積は、通常勤務だ。疲労はピークに違いない。今日はさっさと帰って、休んだほうがいい。
玄関を出ようとした時、後ろから声が響いた。
「速水!」
安積が階段を駆け下りてきた。
「よう、ハンチョウ、片付いたようだな」
「ああ」
安積は速水に近づき、小声で言った。
「話がある。今日……おまえの部屋に行っていいか?」
速水は苦笑した。安積にはまだ、細々とした仕事が残っているはずだ。速水の部屋に着くのは、早くても十時を過ぎるだろう。
「今日は帰って寝ろ。おまえさん、クマがすごいぞ。男っぷりが五割増しだ」
速水の軽口に、安積は取り合わなかった。
「どうしても、今日、話したいんだ」
言い出したら引かない。安積はそういう男だ。
速水は説得をあきらめた。
「あんまり遅くなるようなら、無理するなよ」
そう言って、速水は署を後にした。
十時過ぎ。チャイムが鳴った。ドアを開けると、安積が立っていた。硬い表情から察するに、あまり色っぽい話ではなさそうだ。
ドアの中に入った安積は、靴を脱がずに立ったままだった。
「どうした? あがれよ」
「いや、ここでいい。話はすぐに済む」
安積が何を話したいのか、見当がつかない。速水はうっすらと、自分の中に感情が沸きあがってくるのを感じた。あのとき屋上で感じたのと同じ感情だ。
安積は視線をさまよわせながら、ゆっくりと言葉を吐いた。
「今まで……はっきり言っていなかった、と思ってな」
速水は黙って、安積の言葉を待った。心の中に渦巻く感情が、徐々に膨れ上がる。速水は努めて、いつものふてぶてしい表情を作った。
安積は言葉を探すように、何度か唇を動かした。腕が伸び、速水の身体に触れようとする。
が、安積は自分の拳を握りしめた。そして、意を決したように、速水を正面から見据えた。
「速水」
「……なんだ?」
「俺はおまえが、好きだ」
あまりの言葉に、速水は呆然とした。
こいつは、今、なにを言ったんだ?
安積は口のなかでごにょごにょと、言葉を続けた。
「いや、そもそも嫌いなら何年も友人でいるはずはないな。そういう意味ではなくて、つまりその……」
安積は一呼吸置いた。
「本気で好きだ、ということだ」
「……知っている」
速水はようやく、そう言った。
そうだ、俺は知っている。いつもおまえが伝えてくれていることじゃないか。
速水は優しい笑顔を作った。
「とっくに、知っているさ。急にどうした?」
「最近、おまえの目が……」
安積は何かを言いかけて、言葉をとめた。
「いや、なんでもない」
安積の腕がまっすぐに、速水に伸びた。小さな、だがはっきりとした声が、速水に届く。
「言えなくて、すまなかった」
安積の腕が、強く、速水を抱きしめる。
「安積……」
速水は、自分の中にわだかまっていた感情が溶けていくのを感じた。
認めたくなかった感情。見破られるはずがないと思っていた感情だ。それに安積は気づいていた。本質を見抜き、本人が納得しやすい言葉で分からせる。安積もまた、上に立つ人間なのだと、いまさらのように速水は思った。
そして、その本質を口にしないのは、速水のプライドを重んじているからだ。だから言えない言葉を安積は抱擁で伝えるのだ。
──まいった。降参だ──
速水は安積の腰を抱きよせ、その身体を腕の中に包み込んだ。
惚れた方が負け、とは、よく言ったものだ。
結局俺は、おまえに勝てないんだろうな。
だからこそ、俺はおまえに惚れているんだ──
「安積」
速水は腕の中の安積にささやいた。
「俺は、おまえを愛しているよ」
腕の中で、安積の唇が動いた気がした。だが結局、声は聞こえず、安積はうなずいただけだった。かわりに、腕の力が強くなる。
やっぱり、これはまだ言えないか──
それでいい、と速水は思った。
いつかきっと、安積は口に出して言うだろう。それは、そう遠くないことのような気がする。
腕の中で、安積が身じろいだ。
「安積、頼みがある」
「……なんだ?」
「朝まで、一緒にいてくれ」
安積が、速水を見上げた。顔を赤くし、だが疲れは隠しようもない。
「……俺は明日も、通常勤務だ」
「俺だって第一当番だ。何もしない。隣で寝てくれるだけでいい。今なら風呂もサービスするぞ」
速水の言葉に、安積が笑った。
「正直、もうくたくただ。風呂の中で寝ちまうかもしれんぞ」
「かまわんさ。そうしたら俺が、ベッドまで運んでやる」
笑いながら、安積は靴を脱いだ。いつものように上着を脱ぎ、ソファーに腰掛ける。
速水は湯を張るために、浴室へと向かった。
END
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