■リンゴ(4)■


 部屋に入ると、覚えのある香りが漂ってきた。
 テーブルの上のリンゴを見て、安積は少し意外に思った。
──まだ食べていなかったのか?──
 確かに、もし貰ったが自分であれば、剥くのが面倒で放置するかもしれない。
 だが速水なら、たかがリンゴひとつ、ジーンズでゴシゴシ拭いて皮ごと齧るような気がしていた。
 まあ、別に急いで食べる必要もない。たまたまだろう。
 速水がキッチンでグラスと氷を準備する間、安積はいつもどおり、棚から封を切ったウィスキーを取り出した。残りは僅かだ。やはり、新しいのを買ってきて正解だったのだ。自分の読みが当たったのが少しだけ嬉しくて、安積はこっそりと笑った。
 二つのグラスにウィスキーを注いでいると、速水が隣にどっかりと腰を下ろした。小さな果物ナイフを操り、皮ごと半分に割ったリンゴをさらに四つに切り分ける。
──器用だな──
 安積は感心しながら、速水の手元を見つめた。自分がリンゴを切ったとして、こんなに素早く、きれいに出来る自信は全くない。
 リンゴを剥く姿など似合わない、と思っていたが、目の前でナイフを動かす速水には何の違和感もない。
 速水が、小さくなったリンゴに切り込みをいれた。
 安積は、ふと、不思議に思った。安積が普段する剥き方──めったに剥いたことなどないが──とは違う。速水はとても楽しそうに、ナイフを動かしている。何か、嫌な予感がする。
 速水は最後に、リンゴの端に刃を当て、皮をくるりと半ばまで剥いた。
 安積は思わず感心した。完成品を見たことはあるが、こうして作るものだとは知らなかった。
 そして同時に、嫌な予感が的中したことを悟った。
「ほら、口を開けろ」
 速水がにやにや笑いながら、安積の口にそれを近づける。
 安積は顔をしかめた。うさぎの形をしたリンゴなど、そもそも食べた記憶がない。と言うか、剥いてくれるのはありがたいが、こんな形にする必要があるのだろうか?
 安積は口をへの字に結んだまま、上目遣いに速水を見た。
 速水は楽しそうに、だが有無を言わさぬ強引さで安積を見つめている。
 しばしの躊躇の後、安積は口を開いた。歯で受け止めると、速水の指が僅かに唇に触れた。それは、甘酸っぱく、どこか懐かしい味だった。
 一度では入りきらず、口から、赤い耳と頭が飛び出している。その様子を眺めている速水の顔が満足そうに笑っている。
 安積は少し呆れた。
──自分と同い年の中年男が、リンゴを食べるのを見て、何が楽しいんだ?──
 そう思いながら安積は、そのままむぐむぐとほおばった。手を使わなかったのは、単に面倒だったからだ。
 速水はもう一度、満足そうに笑い、残りのリンゴも器用に剥いていく。あっという間に、皿の上には三匹のウサギが並んだ。その皿を「おまえのだ」と言うように安積の方へ置くと、速水は残った半分のリンゴに皮ごと噛り付いた。
 多少の抵抗を感じつつも皿の上のウサギに手を伸ばしながら、安積は速水を見た。
 丈夫そうな歯がバリバリとリンゴを噛み砕く。いかにも速水らしく、少し羨ましい。あんな食べ方が、自分にもまだできるだろうか──?
 安積の視線に気づき、速水が言った。
「おまえはやめておけよ。上司と部下がそろってリンゴに負けたんじゃ、強行犯係は笑い者だ」
 安積は驚いて、速水を見た。
「どうして知っているんだ!?」
 桜井がリンゴを食べたのが昨夜で、速水が署を出たのは今朝だ。情報が伝わる機会など、ほんの僅かだったはずだ。
 速水はにやりと笑った。
「俺の手下は優秀なんだ」
 それは疑いようもないことだ。分かってはいるが、桜井の話が出た後だけに、少し面白くない。大人気ないと自覚しつつ、安積は軽く速水を睨みながら言った。
「リンゴが齧れなくったって、俺の部下も優秀だ」
 速水が楽しそうに笑い声を上げた。
 安積はわざと不機嫌そうな顔を作り、速水を睨んだ。ひとしきり笑った後、速水が言った。
「知ってるさ」
 その声は思いのほか優しく、そして、含みがなかった。
 嬉しさに少し頬が赤くなるのを隠しながら、安積は、二つ目のうさぎを口に入れた。
 
 
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 リンゴを肴に酒を飲むのはどうかと思ったが、意外と悪くなかったな──安積はそう思った。
 隣で速水が、グラスを空けた。
 いいタイミングだ。安積は時計を見た。
 帰りたくはない。一緒にいたい。それが正直な気持ちだ。
 だが、明日も仕事だ。何よりも、速水は夜勤明けだ。仮眠は取ったのだろうが、夜は寝た方がいい。そのためには、日付が変わる前にこの部屋を出るべきだ。
 安積は立ち上がり、上着を手に取った。
「そろそろ帰る。明日も仕事だ」
 速水がソファーに座ったまま、安積の手を掴んだ。
「ここから署に行く方が近いぞ」
「おまえのことを言っているんだ。ちゃんと寝ろ」
「安積と一緒の方がよく眠れる」
 真顔で言われ、安積は一瞬、足を止めた。おもわず誘惑に負けそうになった自分を叱咤する。
 明日だってきっと、署で会えるはずだ。
 さっさとこの部屋を出てしまえば、諦めるだろう。速水も、自分も。
 玄関へ向かおうとすると後ろから、腕が伸びてきた。抱きしめるその腕の強さは、あからさまに安積を引きとめようとしている。
「おい、速水……」
「安積」
 甘えを含んだ低い声で呼ばれ、安積は動きを止めた。速水がじゃれつくように、安積の肩口に顔を埋める。
 安積の身体がひくりと震えた。後ろで速水が僅かに笑う。
「今日は何もしないから安心しろ」
「……そんなことを心配しているんじゃない」
 安積は顔を背けた。気恥ずかしくて速水の顔が見られない。
 何もしない。
 それが本当であることが、安積には分かっていた。速水は本当に、ただ、安積と朝まで一緒にいたいだけなのだ。声や視線に含まれる、熱を上回る甘さの度合いが、そう安積に伝えている。もちろん安積が望めば速水は喜んで応じるだろうが──。
 だからこそ、気恥ずかしいのだ。
 安積は赤くなる顔を隠すように、俯いた。
 いっそ、セックスをする方が、まだましだ。それならば、一緒のベッドで眠ってもおかしくはない、と思う。
 だが、何もせずに──ただ、二人で一緒に眠る。それは、セックスよりももっと甘ったるい行為のように、安積には思えた。この気恥ずかしさに、安積はまだ慣れることができない。
 速水が甘えるように額を擦り付ける。絶対に離さないとばかりに強く抱きしめられ、安積は観念した。速水の腕にゆっくりと手を重ねる。
「──また、パジャマを借りるぞ」
「あれはお前のだ」
「──風呂も貸してくれ」
「好きなだけ使え」
 嬉しそうな声を聞きながら、安積は速水の腕の中で、ワイシャツのボタンに指をかけた。
 
 
END



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