■喰らい尽くす(1)■


「どうした?」
 速水の声に、安積は我に返った。
「眉間に皺が寄っているぞ。仕事のことか?」
 速水が、からかうように笑った。
「……ああ」
 珈琲の入ったマグカップを手渡され、安積はありがとう、と礼を言った。
 速水の部屋に来て、仕事のことを考えることは、あまりない。自分でも呆れるほどだが、本当に、この部屋にいる時に考えるのは、速水のことと自分のことばかりだ。もしくは、何も考えていない。
 今日はたまたま、今かかえている事件で少しだけ気になることがあった。無意識にそのことを考え始め、そこから一気に、他の事件やら部下のことやらで頭がいっぱいになったようだ。
 速水が優しく笑いながら言う。
「おまえは、ひとりで抱え込みすぎなんだよ」
 いつもの優しい言葉だ。今まで何度、言われたか分からない。
 それなのに何故か、安積は苛立ちを感じた。
 仕事のこと、部下のこと、娘のこと。
 いい年をした大人なのだ、抱えるものは多くて当然だ。
 それは速水も同じはずだ。抱えるものの種類は違っても、その重さは安積と同じであり、また同時に、比べられるものではない。同じ人間ではないのだから。
 にもかかわらず、いつもこの男は余裕のある顔をしている。正確には、余裕のある顔を作ることができる。そして、抱えてなお、安積を気遣うことができる。それが当然だと言うように。まるで、保護者のように──
 安積は憮然とした。こいつは俺を少し、みくびっていないか? 子供ではないのだ、抱えるべきものとそうでないものは判断できる。
 安積は言った。
「俺が抱えるものの重さは、おまえにはわからない」
 俺に、おまえが抱えるものの重さがわからないように──
 そう続けるつもりだった。だが、その言葉を発することはできなかった。
 速水の表情から、優しさが消えた。
 凶暴な目が安積を睨む。乱暴に、速水が安積の肩を掴んだ。
「……っ」
 あまりの強さに痛みを感じ、安積の口から苦痛の声が漏れた。
「ああ、きっと俺には、分からないんだろうな。おまえが、俺が抱えるものの重さを知らないのと同じだ」
 安積が言おうとしたのと同じ言葉を速水が言う。
 同じ言葉なのに──こんなにも意味が違う。
 安積は速水の目を見た。いつもなら、どんなに辛くとも、目をそらすことはない。睨み合って、負けることなどない。
 だが、安積は速水の目を見続けることができなかった。それほどまでに、速水の目は激しかった。
 速水の手が、安積を強く引いた。引きずられるように連れて行かれたベッドの上で、倒されそうになる身体を安積は辛うじて、速水にすがりつくことで支えた。
 速水の手が、乱暴にネクタイを引き抜く。ボタンを外すのももどかしいというように、シャツが引き裂かれた。
 速水の唇が喉元に噛み付いた。
 喉から胸へ、また喉へ。熱い唇と舌が皮膚を這う。ズボンの上から雄を掴まれ、安積は息を詰めた。布越しの容赦ない愛撫に、身体の奥が熱くなる。
 息があがる。速水がこんなにも乱暴な行動に出たことはない。少しの恐怖が、安積の胸に宿る。
 唇が唇を覆う。容赦なく入り込んで来る舌が安積の中をかきまわす。口を閉じる暇を与えられず、液体が滴る。苦しさに崩れそうになり、安積は速水にしがみついた。
 ようやく離れた速水の目が安積を捕えた。視線の痛さと溢れる熱に、安積は目をそらした。
「安積、教えてやる」
 低い声が耳に響いた。
「俺が欲しいものは、おまえだけだ」
 そんなはずはない。
 速水が抱えるものは、もっともっと、たくさんある。そしてそれを投げ出す男ではない。
 頭では分かっている。
 だが、安積の内側に速水の言葉が浸透していく。
 速水の手が、ズボンと下着を引き抜いた。
 全身を隈なく舌が這う。胸、腹、手首、指。足首を掴まれ、歯を立てられる。本気で自分を喰おうとしているかのようだ。
 速水の目が、一瞬だけ、安積を見た。凶暴な光が、速水の中にある獣じみた欲望を安積に伝える。
 安積は自分の内側が熱くなるのを感じた。
 速水が抱えるもの。理屈では分かっているそれとは違う、言葉で伝えられたもの。速水にとってはどちらも本当なのだ。それならば、今は──目の前にいる速水の言葉を信じたい。
 安積は思った。今、この時だけ。凶暴な熱を言い訳にして、こう言うことは許されるだろうか。
──俺も同じだ──
 安積は奥歯を噛み締めた。言い訳が必要な言葉など、言えるはずがない。
 熱い舌が、安積の性器に絡んだ。
 速水の言葉をもう一度、思い出し、そして安積は考えることを放棄した。
 僅かに届かない速水の身体に、それでも手を伸ばし。安積は、目を閉じた。


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 速水は、安積の全身に舌を這わせた。
 頭が熱い。この衝動を止めることができない。
 
──おまえにはわからない──
 安積の言いたかったことは、頭では理解できていた。だが、この言葉を聞いた途端、自分の中で何かが弾けた。
 安積に聞きたい。俺がどれほどおまえを好きか、おまえにわかるのか?
──俺がおもうほどに、おまえは俺のことが好きか?──
 そもそも、見返りを──報われることを要求する気などない。あったら、二十年もこの感情に耐えたりはしない。
 想いの深さは計れるものではなく、比べることなど無意味だ。
 分かっている。
 分かっていてなお、時折、不安がつのる。
 安積は本当に、俺のことが好きなのか?
 俺は安積を不幸にしていないか?
 安積は流されていないか?
 いつか、我に返った安積が、俺の元を去ってしまうのではないか?
 考えれば考えるほど、不安は増殖する。
 そして、その不安は逆向きに回転し、矛先は安積に向かう。
 本当に、俺のことを好きか?
 俺がおもうほどに、おまえは俺のことが好きか?

 安積を構成する全てのものに向かう感情。
 これは、嫉妬だ。
 これほど醜い感情が、ほかにあるだろうか?
 安積の目を自分に向けさせたい。自分だけを見ていてほしい。
 それが無理ならば。せめて、安積が抱えるものの中で──安積の世界を構成するものの中で、一番大切だと言って欲しい。
 仕事よりも、部下よりも、娘よりも。
 俺の世界には、安積しかいないというのに──

 速水は、安積の全身に舌を這わせた。これが全て俺のものだと、そう確信するために。



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