Lost word

11/29【エヴァな世界 その2】

で、そもそも私はエヴァンゲリオンという話を、 必要以上に他人と距離感を感じる、しかもあまり上手く立ち回れない、さらには自分自身に自信が無いといった、 内向的な三重苦を背負った少年が、少年故の分岐点に差し掛かる毎、何らかの要因に尽く成長の芽を摘まれて 追い込まれていき、その結果、あまり理想と呼べないような終末(映画版)にたどり着いてしまったという、つまりはバットエンドの人間ドラマだと解釈していて、舞台がロボット物だったり、一般に謎とか呼ばれている部分は単なるデコレーションくらいにしか思っていません。 まあ、これに限らず基本的に、劇中でこれ見よがしに提示される不可解な演出とか小道具って固執するほど興味を継続できたことがないんですけどね。 辻褄合わせとか妄想するのは楽しいですけど、所詮は誰かが作ったものですからねー。何がなんでも全貌を把握したいとは思いません。

そんな所感でしたから、エヴァ2のワールドシミュレータというジャンル選択は好意的に受け取りました。 主人公の少年で始めた場合、目の届く範囲の人間くらいは知り合いになろうと行動し、なるべく好意的な会話(選択)を心がけ、徐徐にだけど相手の信頼(パラメータ)を勝ち取っていく。 そうやって温厚な人間関係を構築していくと自身のテンション(A.T)も上がり、 その上昇を維持するべく行動すると平常値の底上げが発生し一時的なものから定時的なものへと変化する(つまり段々社交的な性格になっていく)。 するとますます好意的に接しようとする相手が増えてくる(頻繁に家に遊びに来る、姿を見かけると相手から好意的なアクションをとって来るなど)。 以下繰り返し…と、ゲーム内容的に理想的なプレーは、原作の少年の歩みとはまったく反するものになってしまうのがなかなか感慨深いです。 一応A.Tを上げることは敵との戦闘パートを有利に進める要素になるのですが、それが全てを決してしまうほど致命的なものでもありません。 だから逆に人間との関わりを最低限に避け自室に篭ってひたすら技能を上げるとか、 常にネガティブな会話応答を選択して険悪な人間関係構築するとか、ひらすらローテンションを維持したままボーっと過ごすなんてこともできます。 各登場人物間にも影響を与え合う能動的な関係が存在しますから、そうしてプレイヤーの介入を加味した結果を観察するのも一興です。 残念ながら進んだ先には大した数の結末は用意されていないようですが、結果よりも過程に赴きを置くなら十色な楽しみ方ができると思います。

ただひとつ文句があるとすれば、上の文を読んで察した人もいるかもしれませんが、そこはかとなく説教臭いんですよね。 いや、直接表現されているわけではないんですけど、少なくても(私達と言うと御幣がありそうなので)私のような人間には。 やってると微妙に居た堪れなくなるというか、反省を促されているというか、んでも、そもそも意気投合して一緒にナンパに出かけた友達が、いきなり「夜遊びはいけないことだ」とか説教してくるような微妙な気まずさがあって。原作もそうだったけど。

11/27【エヴァな世界 その1】

そんなわけで、先週末に発売したエヴァ2(PS2)なんですが世間的にはあまり評判良くないですねぇ。 所謂、キャラクタゲームと呼ばれる版権モノを扱ったゲームは普段からゲームが好きで趣味の一環としている客層以外にも、 ゲームをあまりやらないけど原作のファンなので、 その冠が乗っていることに興味を持ち購入するという定石とは別のルートから入ってくる層もターゲットとなります。 両方の属性を持ち合わせていれば話は早く、実際にそういう人も多いとは思うのですが、 もちろん全てに当てはまるわけではありませんし、そういう想定でモノを作るのは怠慢です。 しかし、独自の選眼を確立し、楽しみ方を知っているユーザーと、まったくのライトユーザー。 その「面白い」と感じるベクトルはある程度、相反する方向を向いていますので、そんな中で両者から 評価を得るというのはかなり難しい命題だと思います。

こと私に関して言えば先週末の少ない休日、少ない時間を遣り繰りしながらも楽しんでしまった口です。 まあ、前提条件で言えば「ガンパレードマーチのシステムでエヴァンゲリオン?買うしかないでしょ!」とか嘯く、 完全な両属性持ちという(かなり誇れたものではない)輩なので、まったく参考意見にはなりませんけど。 それに、私が面白いと感じるから無条件で人に勧められるかと言えば答えはNOで、客観的に考えると、 システム的にはガンパレの廉価版で所々は進歩している部分も多いのだろうけどゲーム全体に付きまとう閉塞感(世界の狭さ)はむしろ退化しているような印象すら覚え、 新鮮味を抜かせば「結局はガンパレの方が楽しいかも?」って感じだし、 原作好きなら細切れの止め絵よりは動画や単行本読んだ方が満足できる時間を過ごせると思います。 特に後者はシナリオが完全新作のヴィジュアルノベル(またの名を電脳紙芝居)でも出た方がよっぽど喜ばれたのではないかなーとか。

どうも最近は少し前にネタにしたSIRENにしても、このエヴァ2にしてもゲームのパッケージ外の部分に微妙な罠が仕掛けてあって。 SIRENは店頭ではCM発禁に便乗した宣伝が展開されて、その話題性とホラー系ADVという元々のジャンルの魅力で結構なライトユーザーを獲得したらしいけど、 ゲーム本編はかなり厳しい難易度でまったく初心者向きではありません。 その中には途中で(下手をすれば序盤で)投げ出し「買って損をした」「つまらない」と評価した人も少なくないと思います。 エヴァ2は、ゲーム内容を考えると「2」というよりは「アナザー」もしくは「if」という冠が妥当な気がします。 煽り文句も「答えが見つかる」とか「謎が解ける」といったような刺激的なモノよりは、 「エヴァの世界で生きられる」といったようなワールドシミュレーションとしての特色を全面に出したニュアンスの方が、 本来興味がなかった筈の人はスルーするだろうし、買うにしてもユーザーの心構えが違ってくるでしょう。

や、結局はメーカーにとって一時でも利益になれば良いというならユーザーが自衛するしかないわけですが。 ただ、両方とも取っ付き難さや勘違いの部分を越えればそれなりに楽しいんですよ。 つまりは途中で辞めてしまうのは機会損失って奴だと私には思えるんですね。 本来やれば得られたはずの利益が、やらなかったために得られない。 別に出会ってなければ、もしくは初めから自分には合わないと興味を持たなかったならいいんですけど、 出会い方が歪んでいたために本来楽しめる筈だった世界が(嫌悪感と共に)永遠に失われてしまうのは非常に勿体無いなーと。

11/25【過ぎし日に、置き忘れるべきモノ】

うぅ。ただでさせ間を空けちゃったから筆が鈍っているというのに。 落ち着いてエヴァ2の感想でもまとめようかと思っていたんですが、家に帰らせてもらえないので明日以降にします。 いい加減終業間際から打ち合わせ入れるのは辞めてもらいたいです。 どうせ先方に「あーだこーだ」言われて今日中に作業できる部分は進行させるって話になるんだから、午前中やれ、午前中。

致命的でないアイデンティティの崩壊なんて結構簡単に自覚できるもので。 今、仕事で携わっているプロジェクトにめっぽう不満を抱えて臨んでいることと、 その気持ちに反比例するかように時間を割かれてしまうこと、 そしてタイミング悪く、数年前の面影しか知らない親戚スジが立派に大人になっている姿を 確認してしまったことが重なったりして「ああ、私って何やってるんだろう」 とか反芻してみて確認するここ数日だったりします。 まあ、血は争えなくて30過ぎてもガンプラに囲まれて生活している親戚も居るんだけど、それで救われるのかと言えば50歩100歩だしな。 所詮、しばらくすれば日常に溶け込んで薄れてしまう感覚なのだから、しばらくは「人間の大人としてまともな生き方」という常識に囚われて鬱になるのも悪くない気もしますけど。

や、一番厄介だったのはアレです。私と同世代の従兄弟同士の子供が仲良くジャレあってるのを見て微笑ましいながらも寂しかったことなんだろうなー。 確か数十年前には私達も同じような風景の中に居た筈なのに、んで、中身的には成長しないで体だけ大人と呼ばれるような状態まで成長してしまったけど、 それに置いてけぼりを食らったような焦燥感。もしくは孤独感。他方では「お互い大変だよねー」なんて会話が成立してしまうのに。

11/22【足りない】

どもども、ご無沙汰しました。 結局、法事は(適切でない表現な気もするけど)無事に終ったので2日前には生活園に帰って来ていたのですが、 この時期に数日仕事を空けてしまった余波を思いっきり受けてしまい週の後半の殆どを会社で過ごす羽目になってしまいました。 まあ、仕方無いといえば仕方無いんですけどね。 それでも、別に他のことはどうでも良いけど年末進行だけはアメリカ辺りを見習ってほしいと思います。 向こうは感謝祭とか言って仕事しないですよね? 日本は年末年始1週間ばかししか休めないのに、その帳尻合わせやら決算やらのお陰で 先生も走っちゃうほど忙しくなるんだもんなー。 普段通り消化するんじゃなくて期間に見合った仕事量に減らすくらいのゆとりがほしいものです。

法事といえば忌引きなんですけど今回1つ勉強になったことがありました。 や、数ヶ月前に、奥さんの父親が亡くなくなってしまった同僚が休んだ時に忌引きを貰えなかった話を聞いていたので 嫌な予感はしていたんですけど、案の定1日しか貰えませんでした。 今回の私の場合、父方の祖父が亡くなってしまったのですが色々面倒な事情があり、 私が幼い時に私の父は亡くなっていて、父はその家の長男で他に男の子供がいない上に私は父の長男なので、 法事の初めから終わりまで居なければならない立場だったのです。 や、そんな事情を加味しなくても普通は2日くらいは貰えるものですよね。 前述の同僚にしても、なら法事に出席しなければ良いのかといえば決してそんなわけにはいかないのですから。 …結局、有給使えば済む話なんですけどね、でも忌引きってのは真心なのではないかと。 そもそも土曜に定期出勤があって他の会社より休日日数少ないし、有給だって初年度7日しか付かないし、 ようするにケチなんですよ。

で、何が勉強になったのかと言えば、就職とか転職の時にはその会社の忌引きの仕組みを聞くのが 器を計る上でかなり有効なのではないかと。他の条件は説明と現実が違うなんてことがよくあるけど こいつは誤魔化しようがありません。誰しもが避けて通れない出来事なのに、一般的な忌引きの仕組みと比べて差があるようなら その会社は雇う側の倫理が幅を利かした場所なのでしょう。。

11/15【オレオレ】

(終業時間である筈の)19時から始まった打ち合わせもそろそろ3時間を経過しようとしていて、 「いい加減集中力切れてきたし、煙草も吸いたいし、つか欠伸が堪えきれなくなってきたなー」とか思っていたら運悪く携帯電話が着信を告げました。 先方が気分を害さないような、なるべく自然な動作を意識しながら履歴を確認すると実家からの電話でした。 最近、祖父の体の具合が思わしくなく「もしかすると…」なんて話で頻繁に電話が掛かってくるのです。 ほどなく10分程度で会議が終わったので折り返しの電話を掛けてみることにしました。
「はい、○○です」
「あ、オレだけど」
「はい?」
「だからオレだって。オレオレ」
「プツン。ツーツーツー…」
ありゃりゃ。多分どうやらオレオレ詐欺と勘違いされてしまったみたいです。 にゃ、このタイミングで掛かってくる電話の我が子の声くらいは識別してほしいような気がしますが、これくらいの警戒心を持ってくれていた方が息子としては安心かなー。

よく、年配の人は世の中を信用しすぎているし若者は世の中を疑いすぎるという話を耳にします。 年配の人は自分に向けられる悪意というものを想像していないから簡単に騙されるし、 若者は目に入るもの全てに悪意を想像してしまうからいらぬ傷を負ってしまうのだと。 確かにそういう部分はあるだろうし、実際、まず人を信じることから始めるというスタンスが「人の良心」だと説く人も多いです。 往々にして「何故そのスタンスを選ぶの?」という問いには「だって常に疑うような人間関係はギスギスした貧しいものじゃないか」みたいな答えが返ってきます。 それも、まあ、その通りなんだけど、私としては無邪気な人だなーと思うんですよね。 例えば、「人」では無い何かを信じるという話では必ず理由が必要になってきます。 根拠があるから委ねられるわけです。それが「人」になると理由はいらないってのは響きは良いけど現実的ではないと思います。 11日の日記に被るけど、結局、2極化したものの見方をして相対的に正当化しようとするからいけないんだな。 つまり、無条件に人を信じない人=常に疑っている人ではなく、ほとんどの場合は態度を保留している人なのです。

どっちにしろ、この手の詐欺話って被害者側が不安な(弱い)部分を持ってるとヤバイわけで。 最近流行りの債権詐欺のメールだって有料サイトに行ったことがないと断言できる人にとっては微塵の動揺も誘わないものなー。 で、冷静でさえあれば督促なのに対象者の個人情報がどこにも記載されていないこととか、 送信専用アドレスとか、問い合わせ不可(電話番号無し)とか、ネットに慣れていなくてもおかしい部分はいくらでも発見できます。 そう考えると母親にしてみれば、さしずめオレオレ詐欺に関しての不安材料は私自体の存在でしょう。 (例えば、借金工面の打診とか)アイツなら有り得ないことではないみたいな。

11/14【うーむ】

例えば何らかの突発的な対人トラブルが発生して相手が一触即発の状態になってしまった場合、 さらに自分の方も相手に対して少なからず敵愾心を持ってしまった場合、 とてもじゃないけど肝っ玉も腕っ節も自慢できない私が取れるベターな戦法は、成る丈目撃者が多い所で、 こちらが手を出していない状態で一発殴らせて、即、障害で告発することを宣言し、しかるべき処理に入ってしまうことだと考えています。 意外とそういう選択肢を想定している人は多いのではないでしょうか。 実行するかはともかくとして、運悪く聞く耳持たないような者に絡まれてしまった時の解決法の1つとして。 でも、状況によっては単に卑怯者に見えてしまうのも事実で、 昨日は運良く(?)他人様がその戦法を使っているのを目撃してしまいました。 まったく、だから終電近くの電車に乗るのはいやなんですけどね。

状況は(まったくの私見ですが)頭の悪そうな若者VS酔っ払ったおじさんの構図で、戦法を行使したのはもちろんおじさんの方です。 混んだ電車がホームに着いた時、押した押さない、いや、押したんじゃない殴ったんだ、といった言い争いが始まりました。 おじさんはひたすら「殴りたいなら殴れ」を連呼し、挑発に乗った若者が数発手を出した所で連れ立ってホームに降り、 駅員さんを呼んで「警察を呼んでくれ」みたいな話をしていました(ちなみに駅員さんが間に入った後も、おじさん挑発→若者が殴り掛かる→周りが止めるという風景が傷物のレコードのようにリピートされていました)。 このトラブルで発車時刻は遅れてしまいましたが数分後には電車が動き出したので、事の顛末は確認できませんでしたけど、 閉まるドアの向こう側ではおじさんが「土下座すれば許してやる」とか息巻いていました。

まあ、要するに客観的にはよくあるどっちもどっちな話だったのですよ、若者が手を出す以前の段階までは。 手を出してしまった後は社会のルールでは圧倒的に若者の方の立場が悪くなってしまいますが、 あくまで殴ったことに対する評価であって、それ以前の(そして大元でもある)出来事においての正当性が認められるわけではありません。 もちろん殴った若者がバカなんだけど、「殴ってみろ」と執拗に挑発した結果殴られたなら文句が言えた義理ではないと思うし、 土下座なんか強要する辺り、おじさんのモラルの低さも相当なものです。 だからやっぱりどっちもどっちで、若者は世間知らずだし、おじさんは卑怯だったねーという感想になってしまうわけです。 百歩譲っておじさんに正当性があったんだとしても、自分は正しいことをしたつもりなのに(瞬間的には)電車を遅らせたことで乗り合わせた数百人から恨まれてしまうのだから割に合わないでしょうに。

11/12【現実でも足掻いてるんだけどね】

ホラーゲームCM、怖すぎてテレビ放映中止
SIREN公式ページ

この件についてネットでは「CMが放送中止になるほど怖いゲーム」 なんて書かれているのをしばしば見かけるのですが、実の処、CMの演出や映像から怖いという感情が引き出されたからといって、ゲーム本編の内容からも怖いという感情を呼び起こされることが確定しているわけではないです。 だからCMを判断基準に(恐怖を期待して)購入を検討するのは、この場合賢明ではないでしょう。 つか、ある程度のリアクションは予測していた筈だし7人くらいの抗議で差し替えって話題作りにしか…ゲフンゲフン。

とか、否定するようなこと書いてますが、ちゃっかり先週の発売日には捕獲していますし、実際にプレーしてみても怖かったんですけどね。 ただSIRENは、初見ではビクッと来るような仕掛けや演出が散りばめられていても、ある人物の場面場面を1単位としたシナリオの中で ほとんど反撃手段の無い化け物を相手に上手く立ち回ってその空間から脱出するというゲーム内容の構成上、 何度もゲームオーバーになりながら脱出ルートの見極めや敵行動の把握を行い情報を集めるといった、 ある意味ではシューティングゲームのように失敗をバネに体(記憶)で覚えることで先に進むというようなプレースタイルを前提としているので、 何度もやっている内に怖さに慣れてしまうんですよねー。 視界が悪く、いかにも何か潜んでいそうな空間で生と死の境を意識してハラハラしながらも慎重に進んで行く。 その演出をしっかりとゲームとして反映したが故に、シナリオ攻略中は恐怖という感覚が薄れてしまうという微妙なジレンマが見え隠れします。 それでも薄れるというだけで、間に挟まれるデモシナリオ(ムービー)や進める都度に絶望感が増していく物語は(私的には)かなり恐怖物の醍醐味を味わえると思います。 特に物語は救いがない結末なので、尾を引く後味の悪さが好きな人はお勧めです。 こんなの(ネタバレ注意)とか用意していたり芸も細かいしな。

ちなみに恐怖物と書いているのはSIRENは日本の、忘れられたような村を舞台に閉鎖的な風習や伝承を背景として、 人であった人ならざる者を相手に足掻くという展開の中に、 ホラー物と表現するよりは恐怖物と表現した方がしっくりくるような 静的な要素、精神的な要素を多く含んでいるからです。 ゾンビというより屍人という呼び名がしっくりくるし、 グロさより生々しさだったり、襲われることの怖さより逃げられないことへの怖さだったり。

11/11【不定期感想2:今週のローズマリー様(とナージャさん)】

発作のように濃い題材扱っているわけですが、今年も残り僅かとなり4クール放送の番組もそろそろ佳境というか広げた風呂敷を畳もうとあくせくする時期になりました。 そんな状況を踏まえつつ観賞していると中々面白いエピソードや引っ掛かる部分もあって感想を書きたくなってしまうものなのです。 すみませんけどしばらくはお付き合い下さい(何で自分の日記に気を使っているのか良く解からないけど)。

で、ここ1ヶ月内に放送されたエピソードで孤児として育ったナージャさんは 実は貴族の娘であることが発覚したり、それを妬んだ親友ローズマリー様に先回りされて名前を語られてしまったり(ナージャさんの叔父の遺産目当ての暗躍もあり)と散々な自体に追い込まれています。 ナージャさんにはいくつか身元を証明する手がかりがあったのですが、 母親のドレスはローズマリー様の華麗な計略の末ビリビリに引き裂かれ、家紋の入った指輪が収められたブローチは奪われてしまいました。 運良くブローチは取り返すことができましたが、またもやローズマリー様の計略により、 公には真・ナージャ(ローズマリー様)の元から怪盗によって盗み出されたと報道されてしまいました。 つまり、奪われたブローチを持っている者こそ名前を語る偽ナージャであるという世論を作りだしたのです。 これに対して仲間の大人達はブローチを付けることをしばらく控えるよう説得しましたが、 「私が本物なんだから!」と聞く耳持たないナージャさんは単身敵地と化した実家に乗り込んで 期待通りの罠にはまりお尋ね者として実家のあるウィーンから逃げ出す羽目になるのでした。

と、言う事でこの、正に正直者がバカを見る展開は(たとえ最終的に逆転劇があるにせよ)、 世の中、時にはしたたかに頭を使って生きろという脚本家の意図が込められているんでしょうかね。 こう言うと語幣があるかもしれませんが、何時でも正直であることが美徳であるなんてとんだ勘違いで、 口でそう子供を諭す親がいたとしても、 いざそういう自体が降り掛かった時には(バカを見ない程度には)上手く立ち回ることを優先してほしいと考えると思います。 実際、今週のような話で善悪の基準を抜きにするなら、考慮して物事にあたるローズマリー様と現時点では証明できない正当性だけを持って無鉄砲に突っ込んでいくナージャさんを 比較すると、やはりローズマリー様を応援したい心境になってしまいます。 正直者の反対語は嘘つきですし、それは悪印象が付きまとうものでしょうが、しかし、正直者でない者は嘘つきに属するわけではないということですね。

11/10【不定期感想:今週の555】

澤田(:改心の兆しがある仇敵)が他の敵に追い詰められて必死の時に颯爽と現れ、「お前を倒すのはこの俺だ!」 と啖呵を切る草加たん(:主人公サイドの人間)。この言動は、実は素直に助けることへの照れ隠しの方便だったりして大概は実行されないか、 とりあえずは目下の共通の敵を撃退してからいつか…とかいう話に落ち着いて有耶無耶になり 90%実行されないものだと思っていましたが、草加たんはそう宣言した後、間髪入れずに変身。すでに弱りきった澤田に対して 怒涛のラッシュを展開し、後ろが詰まっているんだからと言わんばかりに普段より速いモーションで必殺蹴りを放つ猛者でした。 案の定、致命傷は食らわせたけどトドメは刺せない内に後続の敵にちょっかい出されて自らもピンチに陥っていたけど 個人的には最高に草加たんは輝いて見えました。アンタ素敵だよ。

全体を見れば、この回は今だ自分を信じることのできない巧(:主人公)が立ち直る切欠を掴む話に位置付けられると思うんだけど、 んで、その切欠のひとつが自分の代わりに戦いに出て行って絶命寸前の澤田を発見して 発せらた懺悔の言葉と死に際を看取ったことにあるのは確実で、その後の草加たんのピンチに駆けつけ「俺は戦う。人間として、555として!」 の決意に続いていきます。この場面では立ち直った巧555、(割愛したけど色々あった)三原デルタ、そして草加913と 劇中初めての3人同時の変身シーンも描かれ、前述のセリフも含めかなり燃えるものがあったのですが、 決意を即した澤田の死の原因が対立する敵ではなく実は隣で変身している草加たんだった辺り非常に滑稽に映り、主人公も報われないなーと思いました。

とは言え、草加たんがDQNなのかと言えば多少疑問で、物語を神視点で見ると澤田は数十人規模で殺人を犯しているし、 その中には草加たんと澤田共通の同級生や(生き返ったけど)ヒロインも含まれています。 「お前だけは許せないんじゃー。俺がドドメ刺したる!」って気持ちも解からなくはないです。 ただ、ほんの数瞬待てば(もしくは駆けつけるのが遅れれば)ほっといても 澤田はやられていた状況でしたから、(その後の主人公とのからみの部分込みで)お前一応ヒーローなんだからもう少し空気読めと、察しろと突っ込まずにはいられませんでした。 (…と視聴者に思わせた時点で草加たんのキャラ的には大正解なんでしょうけど)

11/06【2日連続して、つまらない話するなんて社会派みたいだ】

さてさて、今週末は衆議院選挙なわけですが、この時期になると必ず「投票しない奴は政治に関して文句言う資格はない」という論調が聞こえてきます。 さらに特に誰かを選べないなら白票を投じることでも意味があると。 私はこの辺が結構、疑問なんですよね。 まず、文句にどの程度の効力があるのか考えるなら、不満を持った大勢が集まって理知的で統一性のある批判を展開するとかいう状況でもないと、大した有効性があるとは思えません。 せいぜい個人が酒の肴して場の空気を悪くする程度の話です。 それに例えば、誰だって自分が託した税金が有効に使われなければ不満くらいは胸に抱くと思いますが、もし託す者を選択することを放棄したから文句を言ってはいけないとなるなら、選択の結果、選ばれなかった人に票を投じた人も文句を言う資格がないことになってしまいます。 「お前は誰も選ばなかったろう」も「お前は俺を選ばなかったろう」も「だから俺に文句を言う資格はない」と続けられると何気に納得してしまいそうになります。 でも実際は、税金を払っている限りは、常に(大した効力のない)文句を言う資格くらいはあるのはないでしょうか。 資格がないと言い切ることは考えることを止めろと言っているのと一緒です。 そうすることで得がない私達が、何も自分達で自分達の権利の幅を狭めなくてもいいんじゃないかなー。

後は、白票の方なんですけど、あれも何%以上白票があったら選挙自体が無効になり、その時に立候補していた人は次回立候補できないとかいう仕組みでもなければ誰の腹も痛まないわけで、「無言の圧力」なんて酔ってみた処で集団責任は拡散する傾向がありますから、圧力が掛かったと自覚する人など存在しないでしょう。 実益という意味では、選挙に行かないこととなんら変わりがないと思います。 だから私的には白票入れるくらいなら家で寛いでいた方がいくらかはマシだと思いますし、どうしても参加したいなら誰かに投票するべきだと思います。 確かに情報を集め、分析し、自分の理想を誰かに託そうと思えば、かなり大変で、それでいて見返りの少ない行動だと思いますが、そこはほら、考え方次第かなーと。私なんかは性質の悪い人間なので、人の良い部分を見つけようとするよりは人の悪い部分を見つける方が得意なのです(大威張り)。 支持したい立候補者が見当たらないなら、こいつだけは支持したくないという立候補者を探してそいつ以外の奴に1票投じることにしています。

11/05【先読み】

何気にTVを付けていたら、江住マキ子が出演している国民年金のキャンペーンCMが目に入りました。 年金制度の崩壊に対する不安を口にする若者に江角が「どうしてそう思うの?」と詰め寄り、 「何となく」という回答を引き出して満足するといった内容です(誤認有り)。 最後に数秒、細かい文字で10行ほどの文章が画面に表示されていましたが、 多分あそこに大丈夫な理由が述べられていたのでしょう。んにゃ、あれだけの短時間で確かめるのは構えていないと無理だわ。 で、「果たして自分達が年老いた頃、国民年金が現制度のまま機能しているのかなー?」って疑問や不安は、 実際に身を切ってそれを払う過程で、誰しもが1度くらいは感じたことがあるのではないかと思います。 そしてそれは残念ながら「何となく」なんて有耶無耶な、根拠の無い理由では無いので、 どうにも、このCM自体が逆効果なんじゃないかなーなんて思わなくもないです。

そもそも、掛け金が貯蓄ではなく現在の受給者に流れる仕組みだから常にストックは空っぽいけど、 私らが年老いた時にはさらに少子化が進んでいるだろうから供給源の確保は困難になることが予測できますし、受給資格は後2、3回は高齢化するだろうけど、 しかし若者ですら職に困っている今の延長線にある未来に定年退職からの空洞期間が短期化するはずもないし、 江角に「大丈夫だ」と言われたって拭えない不安が溢れています。 崩壊まで行かなくても、デスクワークで過ごしていた会社を放り出され年老いた身に慣れない肉体労働で体を壊し受給資格を得る前にくたばってしまうとか、 やっとこ資格を得ても蓋を開けば今の半分以下の給付金だった、なんてオチが容易に想像できます。 …いや、だからと言って私は年金を払うことに反対ってわけじゃないんですけど。 給料から自動で引かれてしまうものでもあるし、 両親共の祖父母はすでにその恩恵に与っているわけだし、母もそろそろ受給資格に届こうかという年齢だし、まあ、 集団責任として仕方ないかなっと。自分は貰えると思ってませんが。

そういや、身近な所でも母の弟は自営業で年金払っていなかったのでした。 叔父さんは私が子供の頃から口癖のように「年金なんていつ破綻するかもしれないようなモノを信用するつもりはない」 とか言ってました。ウチの母がそういう年齢になったということは遠からず叔父さんもその年齢になるということで、 ちょっと先見の明が利き過ぎたといった感じです。 所詮、どんなに核心を持って断言しようと、どんなに隙の無い計画を立てようと未来に属することは全て確定事項ではないんだよな。 それは、個人だろうと組織だろうと同じ話で。 雨天決行を謳うイベントだってとんでもない豪雨に見舞われれば(防水は平気でも出足の面で)中止になるでしょう。

11/04【やばい】

最近やたらと上司に連れられて外に打ち合わせに行く機会が増えてきました。 それ自体は、まあ、今の会社に転職して1年が過ぎ、ようやく外部と接しても 問題無さそうな奴だ程度には認められたのだろうとか喜んでいいことなのでしょうけど、 しかし、私はめっぽう打ち合わせとか会議の席とかが苦手なのです。 精神衛生上、普段は見ないようにしている商売の汚い部分にどうしても直面してしまうので。

大概において、打ち合わせ先と私の関係はクライアント(依頼者)とデベロッパー(開発者)で、 売る人と作る人、両者の間には商品に対する考え方の違いに微妙な開きがあります。 例えば1000円の商品があるとするなら、デベロッパーは1000円分の価値を込めようとし、 クライアントは1000円分の価値を作り出そうとします。 うーむ。抽象的に書くとそんなに違いが見えなそうなので、ぶっちゃけてしまうと、 作る人は、日々、どうすれば1000円の対価に見合うだけの満足を得てもらえるかという「事後」の部分に頭を悩ませ、睡眠時間を削っているのに対し、 売る人は、どうすれば1000円の対価を錯覚させられるかという「事前」の部分に懸命になるわけです。 で、力関係的にはクライアントの方が強いから、その前提で打ち合わせに出席していると、 どうも「中身はさて置いておいても、何とか甘い汁を匂わせて商品を手に取ってもらおうぜ」みたいな話が中心になり異論も挟みずらい空気ができます。 その内「ああ、サギ紛いの片棒を担いているなー」とか鬱な気分がこみ上げてきますし、まして 終業時間も大幅に過ぎるような長丁場ともなると「私、何やってるんだろう」とアイデンティティも崩壊寸前です。

いやさ、雑把にプログラム組む仕事って言っても何を担当するかは選り好みできないから、 時には(私的にはスパムメール送信級の)やりたくない仕事を担当することもあるんだけど、そういう時に限って両者の距離は離れているもので。 買ってもらえなくては価値は解からないし、売れないと生活できなくなっちゃうし、 または所詮、価値なんて受け手の感じ方の問題だから私らはどちらもおこがましいことを考えているのかもしれないけど、 んでも、私はそういう自負の部分がないと作り手をやってられないんですよね、お子様だから。