Lost word

12/26【虚像】

朝の番組でクリスマスイルミネーションが話題になっていました。 クリスマスシーズンに公共の施設ではなく、個人の家の外装を派手な電飾などで飾ることが数年前から流行っているのだそうです。 もちろん私にだってこの時期には鉢植えのモミの木に星やらモコモコやらをデコレーションして飾ったり、 金銀の折り紙でワッカの飾り物を作って部屋を彩ったりした記憶はあるのですが、あくまで室内の話です。 室外を、それこそ公共の場のイルミネーションと比べても遜色無い程飾ってしまうような行為が、 ある程度当たり前の(行き過ぎていない)趣味として世間に認められているというのは軽いカルチャーショックでしたし、 なんだかんだ言ってもごく一般的な生活水準にもそれなりのゆとりが見え隠れしているなーと思いました(誤解されそうな言い様ですが特に悪意があるわけではないです)。 で、さらに面白いと思ったのは、この個人が作るイルミネーションは結構な見物人を呼ぶらしいのです。 映像を見た限り確かに綺麗ではあるのだけど、それまでに見たいという価値を抱けるかと言うと私には辛いものがあるのですが、 中には毎年、交通渋滞が発生する程の見物客が集まる住宅街もあるのだそうです。人が集まる所の例に漏れずトラブルも多いのだとか。

クリスマスイルミネーションの本来の目的が雰囲気作りや自己満足なら室内で完結しておけばいい筈で、 室外に手を出す理由の根源は注目されたいからであり、見栄であると思います。 ただし、その注目願望は精々ご近所さんレベルの狭い範囲を想定していて当然その程度の心構えしかしていないんだけど、 眺めに来るお客さん(と言っても金取ってるわけじゃないんだけど)には知った話ではないし、 感覚的には公共のサービスと変わらない意識で見物しに来るわけです。 で、たまたま何かの拍子で話題になり人気スポットになってしまって当事者はアタフタ。 まあ、互いに物好きなことではあるのだけど、両者間の認識の違いは色々なトラブルの元になるっと。何だか、とてもとてもどこか近い所でも聞いた話ですねぇ。

比較的、上手くいっている所は町内期間中は町内ぐるみで交通整理をしたり、イルミネーションの消灯時間を設定したりして 自主的な規制を設けた上で、見物人にはそれなりのマナーを期待するといった手法で運営しているそうです(24日も21時消灯ってのは本末転倒な気もしないでもないですが)。 個人だからと逃げることなく、見物人だからと奢ることなくというのは1つの理想ではありますよね。

12/19【ほにゃららのエンディングの考察】

物語はいつでも収まりの良い形に収まるわけではないです。 広げられた風呂敷には、話の中心として語られた人物や受け手に好印象に映っていた人物の不幸な末路をもって締める、俗にバットエンドと呼ばれる閉じ方があります。 主にホラーやサスペンスなど、スリリングな展開を期待されるジャンルに多く、 始めから最後まで救いの要素がない必然的な流れから悲劇で終わる内容から、 何とか災いを振り切り、話としては無難に解決したのに最後の数秒で(脈略無く) 災いの元の復活が描かれエピソード後の登場人物の安否を不安に思わせるような内容まで 、結構な幅が挙げられますが、効果として一致しているのは読後にモヤモヤとした嫌な気分を引きずることです。 特にホラー系の物語は「バットエンド」でなければホラーとは認めないなんて人もいますし、 逆に、その読後感故に「バットエンド」の物語自体を毛嫌いする人もいます。 つまりは好みの問題ではあるのですが、映画にしても小説にしても 最後まで進んでみないことにはその結末は判らないですから(表紙に「この物語はバットエンドです」なんて注意書きがあったら興醒めですものね)、 期せずして意に反した物語を手に取ってしまうことも少なくないでしょう。 で、気に入ったから最後まで進めてしまうわけで、それが余計に「好きだ」「嫌いだ」といった認識を強める要因になるのだと思います。

で、好みの問題ですし、手法の1つですから、作り手がどんな結末を用意するかは自由です。 …自由なのですが、ゲームにおいてはかなり困難な選択となります。 過程選択による複数のエンディングが用意された中の1つとしてのバットエンドならばそれほど問題とされませんが、 ゲーム中に用意された唯1つの結末がバットエンドとなると、途端にプレイヤーの中に不満が吹き上がるからです。 ゲームにはプレイヤーの介入(インタラクティブ)があります。 小説はページを捲る、映画は観続けるという労力を払わなければ話は進みませんが、 ゲームの場合、例えばアクションアドベンチャーなら(用意されているものとはいえ)謎を解き(調節されているとはいえ) 障害や敵を攻略しながら数時間を費やし、最後の山場となるラスボスを越えてエンディングに辿り着きます。 この過程がエンディングを物語の結末以上にご褒美感を期待するものに変化させていて、 バットエンド=労力の報われない結果と捉えてしまいがちになってしまうのです。 さらにここまで困難を克服してきた(無敵の)プレイヤーキャラがそこだけ強制的に 避けられない出来事に遭遇してしまうことにも違和感を覚えてしまうのだと思います。 まあ、無難な結末なら報われると思うのも勘違いで、どんな結末であろうとも結局、自分なりに受け取るモノがなければ 「楽しい時間」という名の浪費には変わり無いんですけども。

前述の通り、ホラーはバットエンドと相性良いし、 アクションアドベンチャーは謎解きや恐怖演出上ホラー系と相性が良いのですが、 この2つを合わせるのは必ずしも好意的に取られないという話です。やや、難しい。

12/12【居場所の選択】

それなりに親しかった友人が会社の命令で来年早々にもアメリカに行くそうで。 関わっているプロジェクトが継続する限りは帰ってこないらしいです。 もう本人が覚悟を決めた後に会ったので、葛藤が有ったのかは判りませんが 近く生まれて来る子供に永住権を取ってもらうんだとか話ていたから、 結構、乗り気だったのかもしれません。

「ニューヨークに行きたいかー!」
「おう」
と、即答できるのは、それが一時的なものでさらに娯楽と捉えているからに違いないと思います。 「ニューヨークに住みたいかー!」と煽られたなら、とても簡単に返事ができないでしょう。 や、もちろん初めから移住に憧れを持っていて心の片隅にでも夢の1つとして描いていたなら別でしょうし、 今にして思えば私も同種の憧れを持って北関東の小田舎から東京に出てきたのかもしれないけど、 裏を返せば同級生で仲の良かった連中の大半が田舎に根を張って過ごしているのも事実です。 例えばメジャーリーグとプロ野球のような関係に見慣れてしまうと、つい、海外で働くことが栄転、 海外に住むことが素晴らしいことだみたいな世論を錯覚してしまいそうになりますが、 実際には田舎から出ることも、海外に出ることも全ての人が憧れの対象として認識するわけではないのです。

いつだか酒の席で似たような話になった時に私は 「いや、俺は日本のメディア捨てられないから(海外に住むのは)無理だなー」 とか答えて、別の友人に「そりゃ、(お前のような人種は)そうだろうねー」と鼻で笑われたことがあるのですが、 実際そうなのだから仕方ありません。 好きなTVを見るにしても、定期購読してる雑誌を読むにしても、 ゲームにハマるのも、見知った町をウィンドショッピングするのも、 極端な話では人とコミュニケーションを取ることだって、 私の日常の中に溶け込んでいる、ささやかな楽しさや幸せを構成する要素はほとんどが日本であることを前提としています。 そういう部分を全部捨てて、新たな価値観を構築するのは(私的には)かなり難しいです。 なんだかんだの不満やら、外国に比べて劣る部分の指摘やらと 悪く言われることも多い日本だけど、こういう日常が破綻しない限りは、 「この国に生まれてよかったなー」と思い続けるだろうし、同じような状況に立ったらこの国に居ることを最優先にして選択肢を選ぶのだろうな。

12/09【スポットライトに注意】

今まで目立っていない、影が薄くセリフも無い、言うなれば背景の一部と化していたような人物にいきなりスポットライトが当たる展開があった時、その人物は死線が見えています。 それと私が初めて記憶したのは子供の頃見たマジンガーZで、 光子力研究所の名物博士という名の背景だった3博士の1人もりもり博士に唐突に冒頭からセリフや出番が与えられ 「ああ、こんな人なんだ」と理解が増えたその回の内に主人公のピンチを救って命を落としたのがすごく印象に残りました。 で、実はそれは有り触れたモノで「ありゃ、この人ヤバイんじゃないか?」という予感とは後にも頻繁に出会うことになりましたし、実際に高確率で該当していました。 この手法は、物語の序盤では結構な活躍をしていたのに主人公組の強さのインフレに乗れなかった者に珍しく活躍の機会が与えられた時や、 散々敵対してきた者が主人公の理念に一定の理解を示した時など、 バリネーションの幅を増やしつつ今も散り際の美学を追求しています。 最近では、ゲームに例えて「死亡フラグ」とか呼ばれることもありますね(フラグ:(イベントなどの)発生条件。特定の行動などによって確定することが多い)。

特に人が死ななければ、犠牲にならなければ物語は感動を作れないないわけではないし、それは否定したい処だけど、 じゃあ、最近自分がどんなタイミングで作り物に対して涙を流したかと思い出すと、やはり、人の生き死にが絡んだ場面が多くて、 ちょっと欝です。まあ、同じくらい受け入れる気のない相手に対して青臭い主張を展開する若者とかいう場面でも 目がウルウルしていることが多いので単に涙腺が緩くなっただけかもしれませんが(年取ったとか言うな)。

や、めっきり活躍の機会が無かった555の鶴さんが2週ばかりやけに話の中心にいるなーと思ったら今週は案の定の展開だったのです。 複線もある程度消化し、急増ではあったけどそれなりの盛り上がりにやっぱりジーンとは来たんだけども、 キャラとしては惜しい使い方だったなーと思わなくもないです。 穏健派のオルフェノク(元人間の怪物)の中では一番薄幸な設定で、一番人間に対して不信感を持っていたであろうキャラだっただけに、 包んでくれる暖かさを感じながら人間として最後を迎えられたのは綺麗で幸せな終わり方だったんだろうけど。 それだけにもう2、3エピソードを加えてさらに人物を掘り下げたり、唐突感を消せれば…ってのは、まあ、野暮な感想ですね。

12/05【印象】

わりと遅くまでやっている個人経営の本屋さんがあってよく利用します。 本屋というと結構、人によってポジションが変わってくる場所で、 少なくても用が無いときには丸で足が向がない、意識しないという「専門店」みたいな捉え方の人と、 用が無くても気が向けば寄ってしまう「コンビニ」みたいな捉え方をしている人がいると思います。 私は圧倒的に後者で、一時期は昼飯後の残り休憩時間の消費に毎日通っていたことがありますし、 今も平均すると3日に1回くらいはどこかの本屋の空気を吸っている感じです。 ようは日常的には私の場合、思わぬ出費を、そう予感しながらもしてしまう状況が本屋に一番多いわけです。 機会的にはネットやらゲームやらで情報収集や知的欲求の昇華するようになってから大分減った気がしますが、 それでもダラダラと店内を物色して「おお、これ面白そう」とかいう、ささやかな出会いには変わらぬ魅力(主に誘惑)を感じてしまいます。

で、行き着けの本屋さんに最近アルバイトの女の子が入りました。 それまでは店長のおじさんが1人で店を遣り繰りしていたので、それなりに華やいだ雰囲気です。 華やいだといっても私のような一般人を被ったオタク種(と本人が思っているだけで背中のファスナーが空いている)は 当然「それどーなのよ?」というような本を手にしてレジに向かうこともあるわけですが、 はっきり言って開き直ってますので、例えエロ本を買おうとしていたとしても、 女の子がレジ打ちしているくらいでは怯みません(大威張り)。 ただ、そこのアルバイトさんは、もちろん日本人なのですが目の覚めるような赤い髪なのです。 これはもしや、私らの属性の対極に位置する(休日の原宿を闊歩しているような)ビジュアル系の人なのではないだろうか?と ちょっと気圧されてしまいました。しかも日常でも赤い髪のまま生活しているのだから、かなり気合の入った人に違いありません。 1度意識してしまうとなんとなく蔑まれる気がして「レジがおじさんの日に買えばいいや」なんてお茶を濁したりして。

とか、勝手にイメージが先行していたのですが、先日、いつものように立ち読みしていたら、次のような会話が聞こえてきました。
店「そういえば、アレの開催って今月だっけ?」
ア「ああ、コミケですか。そうです」
ア「ここら辺て競合しているようなお店もないし、カタログ置けば絶対売れますよ!」
店「年に何回あるんだっけ?」
ア「大きいのは夏と冬の2回です。後は…」
その後もアルバイトさんは嬉々として説明を続けていました。うーむ、えらい誤解でした。つまりその赤い髪はビジュアル系はビジュアル系でもレイヤーの証だったのね。 むしろ親近感を抱くべき所なのかもしれない。そうして何気なく、しかし、初めて彼女の全体を視界に捉えてみると、髪以外はなんてことない普通の印象を与える女の子だったのでした。

12/02【犠牲と戦果】

何らかの敵対行動があった時に抗う術を持たない者が、真っ先に前線に立ち活動して犠牲になってしまった悲劇がある反面、 抗う術を持っていて活動できる集団は完全な安全を確保されるまで派遣できないとかいう議論がはびこる現状は、 なかなかに飽きれたシナリオだと思いました。残念ながら現実のものであるから性質が悪いのだけど。 普通に思い描くのは逆な気がします。抗う術を持つ者が安全を確保した後、抗う術を持たぬ者が その安全を恒久にするべく努力するってのが正道ではないかと。

や、非戦闘員なら安全、戦闘員なら危険なんて妄想も近年には崩壊していて、 さらに言えば、地区、国、大陸の全てを越えて結局は戦線の前方か後方かの違いしかなく、 「戦死」の危険とは単に確率の問題だとしても、それでも、命に関わるリスクは限りなくゼロに近い方が望ましいわけです。 個人的には「不安を抱えながらでないと外を歩けない」なんて状況の国なんて、リスクが低下するまで遠巻きにしていればいいのになーとか。 命を掛けて復興に、世界に貢献しようとする姿勢には頭が下がるけど、代わりたいとは思えません。

何と言うか、感情を廃した物凄く客観的な話をするなら、私達の代表者がある程度の支持率を犠牲にしてまで戦争に賛成した時点で理想的な選択肢は1つしか残ってないんですよね。 即ち、速やかに法を整備し不備の無い状態の軍隊を自国主導で(という見方ができるほどの積極性を持って)送り戦後処理に貢献、世界に向けて存在をアピールするといった国益最優先の選択しか。 今の状態は、外側には肩透かしを食らって苛ついている同盟者と、それに対立していて「敵の味方は敵」と牙を剥いて来る敵対者、 内側には同胞の犠牲を心配し、また、戦争そのモノに嫌悪する世論、士気を削がれた軍隊と、四方塞がりで完全にタイミングを外してしまった感があります。 決定的な決断をしたわりには初動に続くアクションがグダグダでどこに落ち着きたいのかサッパリ見えませんし、 ますます不安や疑心を煽り、抑えられなくなり、結果、自分らの首を絞めることになるんではないだろうか。

ちなみに賛成以前で感情論OKなら、私だったら(どんな理由であれ)ずーっと戦争否定を掲げていると思います。 国際的な立場はかなり悪くなるかもしれないけど、それでも、やりたければ勝手にやってろと。 自分だけ良ければ他人はどうなってもいいとは言わないけど(程度問題)、アカの他人のために自分がどうなってもいいとは絶対思いませんから。