Lost word

10/31【自覚的に怠けるなら、それはそれで至福だよね】

働かない「働きアリ」も

記事を読んで「ああ、面白そうだ。ネタにしよう」と思ってから数日経ってしまい、 結構、各所で話題になっていたので目にされた人も多いかと思います。 自らを霊長類などと名乗っている人間様に比べ、 アリに意思のようなメカニズムが存在するのかは知りませんが、あると過程するとなかなか楽しい話ですよね。 尽くすことで所有欲を満たすような性格のアリや、権威を持って他者を威圧するアリ、 自分の魅力に自覚的でそれを最大に利用しつつヒモ生活を送るアリなど、 グリム童話にでも登場しそうな個性です。まあ、生き物だものなー。 少しづつでも常に状況に合わせて進化しているのだろうから、 中には(生き続けるという究極の目的を遂行する手段の1つとして) 他人に寄生するという方向に向かう奴がいたっておかしくないでしょう。

別側面からは集団にはダメな奴が必要だ、なんて理屈もあります。 何でも無難にこなす人間が集まった集団であっても、不自然なことを生業とする限り、 いつの間にかストレスが溜まってしまうもので、そのときに上を見上げても下を見下ろしても有能な奴ばかりだと 当たり所というか転嫁のしようがなくて内に篭ってしまうとか、 もしくは逆に自分以外の全てが敵に見えてしまうのだとか。 どちらにしても集団にとって喜ばしい状況にはなりません。 そこであからさまに不備がある適当なアナを設定して置けば、 そこに批判の目が向くことになり、適度にガス抜きになると。さらに本当の意味での責任転嫁や 真を得た批判を封じるような役割もあるのかもしれません。因果な話ですなー。 まあ、これも原因となるストレスをアリが感じるのかって時点で疑問符ではありますけど、少なくても人間様は嫌な生き物ですね、はい。

10/29【眠れない夜に】

ほとんどの男の子が物心が付いて初めに成りたいと思う職業は広義な意味で運転手だ、なんて話があります。いつの時代も男の子は車好きなのです。 小学校2年生の一時期、クラスの男の子の間ではチョロQ(ゼンマイ式ミニカー)が流行っていました(今ならクラッシュギアとかなのですかね?それももう古いか)。 普段学校ではオモチャの持ち込みが禁止されていましたが、雨の日に1000円以下の物なら可という例外があったのです(貧困の差を意識させないためだったとか…)。 雨が降ると廊下はレース場と化し、ゼンマイ音が響きました。 私が持っていたのは黄色いワーゲンです。軽量化のためシャーシを限界まで削り、強力ゼンマイを搭載、タイヤを4本とも前輪用のモノに変えた自信作で、ライバルとの数々の迷勝負を繰り広げました。 今の私の愛車はワゴンRがあることを考えると、丸っこくてコミカルな形の車を好む傾向は昔からあったみたいです。

で、そんな流行にも呆気なく終わりがやって来ます。梅雨のある日の学級会で禁止が決まってしまったのです。 議題は担任の先生の提案で「雨の日の遊び方」。その意図がまったく読めなくて、皆、自分の好きな思い思いの遊びを上げていきました。 そして、ある程度の数が揃った時、決を取ることが知らされたのです。 挙手により半数以上が賛成しなければ禁止だと。 シナリオはすでに決まっていて全ての女の子と一部の仲の悪い男の子に反対されチョロQは禁止となりました。 まさに出る杭は打たれるというモノで、初めから全て理解していたなら項目になど上げる気になりませんよね、推奨されることもなければ禁止されることもありませんから。 そもそも、何で遊び方を「決める」必要があったのか。遊んでいる側に不備や不注意があったとしても、警告も無く改善も求めないでいきなり禁止はないでしょう (ちなみに、ゼンマイで動くオモチャという構造と皆で集まってワイワイ騒ぐという状況が興味の無い人にとってうるさく不愉快なものだったのも事実だと思います)。

私と級友数人は必死に抗議しましたが、禁止は覆る筈もなく私はその時初めて大勢の知っている人の前で泣きました。 何故なら自身満々に手を上げてチョロQを項目に追加したのは私だったからです。 もう、墓穴を掘った自分の浅墓さと級友への申し訳なさと大人への理不尽さで一杯になってしまいましてね…。 今でも寝る前などに不意に思い出すことがありますし、それがえらく心に焼き付いちゃったお陰でこんなに立派な(捻くれた)大人になってしまったわけですにゃ。

10/27【日曜の朝から】

お子様ゴールデンタイムですっかりブルーになってしまう展開が続いていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。 アバレは比較的肩の力を抜いて見られる内容だったはずなのに、すれ違いから恋人同士が敵になり、女の人の方は 敵の大将の子供を孕ませられた挙句、恋人と同士討ちして両者とも行方不明だし、 555は主人公が敵と同じ怪物だったと解った途端、迫害されて居場所が無くなり自暴自棄になって敵の組織に寝返り、 代わりに555なった友人に「俺を殺してくれー」と叫んでいるし、ナージャは 親友に裏切られ、やっと手がかりを得た自分の家と生き別れの母親(と財産)を乗っ取られかけている状況です (例によってわざと誤読して書いている部分があります)。 いやー、どの番組も大挙したクレーマーが押し寄せて(全部東映ですが)公式ページの掲示板が凄いことになってそうだなー。 それでもアバレと555は番組内の騒動も収束に向かっているから安定してきたかもしれませんが、 ナージャは今週まさに親友が本性を曝け出し主人公に牙をむいた話だったのでリアルタイムで大変そうです。 「子供に見せられない」とかね。 大体、どの番組もハッピーエンドの布石が見え隠れしているしそんなに心配しなくても大丈夫だと思うんですけどね。 むしろ、ここで視聴を打ち切る方がもやもやしたモノが残りそうです。 確かに私も久しぶりに途中でテレビ消したい衝動と格闘していましたが、 今やっているナージャよりは子供の頃見たキャンディキャンディとか小公女セーラとかの方が主人公が追い詰められる描写がよっぽどきつかった気がします。 特に小公女セーラは俗に言うサザエさんシンドロームの時間帯以降に放映されていましたから余計です。 まあ、朝から欝になるのと夕食後欝になるのはどっちがマシかって話なだけかもしれませんが。

考えてみるとナージャで行われている争いは人徳対知略の構図なんですよね。 主人公のナージャは純粋に人に好かれる部分を持っていて純粋にそれを利用する術を知っている、 見ようによっては悪意の無い悪で、親友のローズマリーは意図的に人を利用し、陰謀を持って成り上がろうとする、 悪意の有る悪です。これは描き方によっては単純にどっちが悪いなんて言えなくなるような話になってしまいますが、 少なくても物語の展開上、主人公として描かれている者に敵対した時点でローズマリーの敗北は確定しているし、やったことが大きかっただけに それ相応のカタルシスを視聴者に与えるような敗北になることは必至だし、私は(作中の電波ぶりに楽しませてもらった部分も込みで)ちょびっと同情的です。

10/25【見るべき場所】

用事があって外に出ると駅前で選挙演説が行われていました。 そういえば市長選があったんだっけ。しかし何でこういう人達は闇雲に駅前で選挙演説したがるのだろう。 私の住んでいる所は典型的な住宅街ですから、そこにある駅も目的地へ出るためのアクセススポットに過ぎません。 と言うことは皆、基本的に目的を持って駅に来るので足早に通り過ぎて行きますし、 ここら辺の5分間隔で行き来する電車事情では、待ちぼうけを食らっている間に耳を傾けるなんてことも期待できません。 ようするに誰も足を止める状況にないわけです。そんな中での演説活動は自己満足以外の効果を生み出せるとは思えません。

で、そんなことを思いながら電車に乗って目的の市街地に着くと 今度はロータリーを囲むように年配者の群れができていて、しばらくすると選挙カーでさっきとは 別の候補者の人が凱旋して来ました。一瞬にして歓声が上がりどこで配られたのか沢山の旗が揺らめきだしました。 確かにここは繁華街だし、待ち合わせや特に目的を決めずにウィンドショッピングを楽しんでいる人もいるでしょうから 宣伝場所として効果的です。 でも、私はこの組織だった風景に違和感と拒否反応を感じずにはいられませんでした。 ロータリーを囲む人の群れとその外側を興味なさそうに歩く人達の間にある温度差を異様なモノとして受け取ってしまったからです。 きっと、ここで旗を振っている人達は次の選挙カーの進路にも先回りするのだと思います。とんだ茶番ですな。

どの立候補者達も当選を目指しているのだから、その公約には実現すれば素晴らしい生活が期待できるような内容が謳われていると思います。 そんな中から誰かを選ぶということは、つまり、当選後に実行に移せるかどうかを見極め、託すことが焦点になるわけです。 その意味ではうるさく傍迷惑な選挙活動も立派な指標のひとつにはなります。 うむ。私は、既存のレールに乗るだけで行動の有効性を考慮しない人や、力を誇示するだけで 無関心な層に対する影響を考えないような人の計画に乗る気にはなれませんねぇ。

10/24【乗っ取り】

私の場合、およそ10年くらい前に友達から大量繁殖して困っていたハムスターを貰って、 そいつが2年くらいで死んでしまって以来ペットを飼ったことがありません。 元々不精でもあるし、プログラマなんて職業をやっていると自分の体調管理すら気に掛けることができないのですから、 私になぞ飼われたら不幸になるのは目に見えています。徹夜で餌が食えないとか徹夜で水が飲めないとか徹夜で寝藁が変えられないとかね。

そんなわけで私個人はペットを飼っていませんが、先日実家に帰ると新しい住人が居ました。 例のサラ金犬です。名前はジャッキー君とかいうらしいです。いやー、奴らは非常にあざといですね。 例えば、ジャッキー君は飯時になるとじゃれてこないように牢屋に入れられるのですが、 たまの実家でまともなオカズにありついている私に熱い視線を投げ掛ける来るのですよ。 こう、瞳と潤ませて今にも「くぅーん」とか泣きそうな雰囲気を醸し出すのです。 もちろん彼にもご飯はあります。が、 そうすることでリアクションに慣れていない人間から何とか分け前を掠め取ろうと虎視眈々と狙っているのでしょう。 つまり、彼らなりの処世術であり、可愛いとか可哀想と思ってしまったら人間側の敗北なのです。 現に一緒に帰った妹のオカズはまんまと一品減っていました。うーむ、これは危険だ。

案の定、もはや実家は皆が術中にはまっていて、特に母親なんかは 「まったく、ジャッキー君は私がいないとダメでちゅねー」とか言っていますが 明らかに困っているというよりは喜んでいるし、居なくなってダメになるのはむしろ母親の方でしょう。 私が最後の砦なのです。騙されるもんか!(と言いながら、何で仕事の帰りにホームセンターの犬の玩具コーナーに寄っているのだろう、私は)。

10/22【呪いといえば】

まあ、たまに1、2度聞こえてくる「あーあ、何かいい事ないかなー」というボヤキに対しては 「そうですねー」と適当に流せるのですが、これ以上の頻度となると勘弁してほしいです。 いや、上手く運びたい事があるけど上手くいかないから不満に思っていて、そこから来るボヤキであるなら何ら否定するものではないのですが、 しかし、この場合いったいアナタにとっての「いい事」って何なんだと。 (別に努力なんてしてなくても全然構わないけど、とりあえずは)「いい事」の明確なビジョンがあって、その出来事が来ることを望んでいる前提で口を開くべきでしょう。 でなければ、ずっとボヤキ続けることから脱出できないのだから。ああ、だからボヤキ続けているのか。

ちょっと引いて考えてみると「いい事」を望める状況ってのは、結構、可も無く不可も無く、 何か人並み以上の無理をしなくても生活できる環境だと思います。 そんな中では不満を抱くことも上を目指そうという意思を持つこともなかなか難しいです。 なら、幸せという観点からいけば無理に向上心を持つ必要もない気がします。 冷静に判断すれば「いい事」がなくてもさして問題は無く、受け入れてしまえばそれなりに快適かもしれません。

まあ、「いい事」でも「楽しい事」でも何でも良いんですけどね、 受身で待つにしても、自分がどういう時にそう感じるのかを知っていて待ち構えるなら、 目の前で展開した時に輪に入れる確率が全然変わってくるだろうし、 それすら出来ないのなら、聞いた人を道連れに不快な気分をばらまくよりは現状を受け入れて黙る事もそう悪くないですよ、と。 無意識に、闇雲に向上心を持たなければ生きられないというなら、それは呪われているようなものですね。

10/20【言葉の劣化】

18日後半部の補足。後で考えたらこれも挫折という言葉の意味が劣化してきているだけなのかもしれませんね。 つまり、16日に話題にした「奇跡」と同じように、 歌詞を書いた人の中では「失敗」の上級といった位置付けで「挫折」という表現を使ったのかもしれません。 確かに失敗や苦労の全てを〜なら意味が通るし、凡庸な表現を嫌って歌詞に重みを付けるために失敗→挫折という変換を 行ったのかなーと。

私の解釈では、挫折って文字通り膝を折って地面に頭を垂れてしまうようなイメージで、 成すために費やした行動が完全に無効化し、もはや立ち直りの利かない状況という認識です。 それでも、いつかは頭を上げなければならないわけですが、もう決して同じ方向は見ないようにするような、 時々気になってチラチラ見てしまっては溜息なんかついてしまうけど、もうその方向に足を向けることは しない(できない)ような、そんな呪縛を挫折と表すのではないかと。 吹っ切ったり、挫折という経験をバネにすることはもちろん可能だろうけど、生かすのは別の何かに対してであって、挫折したそのものに対してではない。 だから「挫折した夢を幸せと呼べってのは無茶」だと書きました。

なんでそんなことを気にしているかと言えば「挫折」という言葉は劣化されると困るからです。 同じでも、起こり得ないことを表す「奇跡」はある意味で使い所がない言葉だからその内容がいくら変化しようと問題ありませんが、 生きていれば2、3度は経験するであろう「挫折」が軽い意味になってしまうと代わりがありません。 代わりが無いからといっても、適正とか才能とか向上心がある限り挫折もまた無くなりませんからね。

10/18【グランセイザー】

今日を含めて3話まで放送されたわけですけど、見てみた感触としては 「どうなんだろうなー」といった感じです。 映像の個々に目をやると惹かれる部分も結構あるんですけどね。 砂地を駆け抜けるヒーロー、背後がドッカンドッカン爆発といったような 一昔前のお約束にして最近の特撮ではとんと見かけなくなった 「採掘場を舞台に爆薬を使った戦闘シーン」は返って新鮮に見えるし、 ミニチュアを巧みに使った巨大兵器同士の戦闘やその被害の描写などはさすが東宝だなーと 思ったりするのですが、どうにも ストーリーが掴みづらい上に、今のところあまり面白くないし、 この先、面白くなるのではないかと期待を抱くようなところも見当たらないのです。

ひとつには登場人物の多さがマイナスになっていると思われます。 グランセイザーのセイザーの部分は「星座」を文字りで、主軸となるキャラクターは 12星座をモチーフにした戦士です。それらがさらに3人づつ土水風火のグループに属しているといった複雑な構図になっています。 で、3話までですでに6人も登場しているのです。 基本的に戦闘重視な時間配分のため、 その人数に反して彼らの人物描写に当てられている時間が極めて少ない上に 変身後の造詣に個性が浅く、しかも名前が「タリアス」とか「リオン」といった星の名前なので、 話を引っ張らなければならないキャラクタ達のわりに印象として残りずらいです。 今のところ私には、
■主人公側
・切れやすく目的意識の薄い男
・切れやすく理不尽な女
・シスコン男
■敵側
・話合うといっておきながらいきなり銃をぶっ放つ行動にでる自分が思っている程利口でも冷静でもない男
・思い込みの激しいマトリックス女
・尻軽男
くらいな印象しかありません。現在、こいつらが視聴者置いてきぼりのまま(何故か) 同士討ちをやっています。次回予告では7人目が登場することも確定していましたので、 ますます混沌としていきそうな気配です。 もう少し登場ペースを抑えてその分を個々の印象付けに使えば全然良くなる気がするんだけどなー。

後、個人的にはEDに流れる安倍麻美の歌の破綻ぶりがすさまじく気になります。 いや、安倍麻美自体が悪いわけではなくて聞き覚えの良いフレーズ繋ぎ合わせた結果全体的になんだかチンプンカンプンな歌詞が微妙すぎるのです。 特にサビの「夢をかなえるためにする、挫折や苦労の全てを、僕は平気な顔をして幸せと呼ぶんだ」 は挫折という言葉の解釈か使い方が間違っていると思います。でなければ挫折した夢を幸せと呼べというのは無茶だろうと。 何かを成そうとする場合に結果だけではなく過程と過程の中にある苦労の部分を含めて幸せと呼ぶって考えには非常に共感できるので、 よけいにもったいないなーとか思ってしまいます。

10/17【改蔵フォーマット】

日々の生活においては背景に重要な意味があります。 皆さんは多分、その時の気分で意識せず背景を選び背負っていらっしゃるとお見受けしますが、 意識的に理由を持って選択するように心がけるなら背景は有効な武器になるのです。 簡単な例を紹介しますと、私と同世代なら一度はその人気を目の当たりにしたことがあるであろう、 そして近年にはOVA化もしたけど話題になったかも話題にならない「聖闘士星矢」が上げられます。 基本的には少年誌にありがちなバトルを中心に話がまわるマンガなのですが、 その単純さ故に主人公達が放つカッコ良い必殺技に魅力を感じたものでした。 ところが、今にしてよく考えてみると本当にカッコ良い技だったかはかなり疑問なのです。 主人公の必殺技はただのジャブの連射だったし、仲間の技にしてもそれ自体は何の捻りもない アッパーだったりストレートでした。ならばカッコ良く見えたのは何故か? それこそが実は背景力(ちから)なのです。 流星きらめく大宇宙を背後に背負えばペガサス最強の技、流星拳(連続ジャブ)、 龍が天を仰ぐ背景では昇竜波(アッパー)、吹き荒れるブリザードを背負えばダイアモンドダスト(ストレート) ともっともらしい強さとその印象は背景に集約されているのです。 また背景力(ちから)は、同時期に全国のサッカー小僧に多大な影響を与えたと思われる「キャプテン翼」でも実用されています。 翼くん最大のライバルである日向くんは「タイガーショット」と呼ばれる、キーパーを吹き飛ばしゴールネットを圧切してしまうほどの強力な必殺シュートを持っていましたが、 その威力は背景がもたらしたものといえます。 もし日向くんがかわいい物好きで獰猛な虎ではなく愛くるしい猫の背景を好んでいたなら、 そのシュートは森崎くんでも止めることが可能だったでしょう。

さて、示したようにちょっと注意すれば背景は劇的な効果を発揮します。そして、だからこそ私は問わずにはいられないのです。 「アナタはダメ背景背負ってませんか?」と。人気者の背景には集中線が見えるでしょう。アナタの背景は黒ベタではありませんか? 利発者の背景にはマメ電球が描かれているでしょう。アナタの背景は「ざわ…ざわ…」という書き文字で埋められていませんか? かくいう私も所属する開発部が男臭いのは、どうも「どよどよ」とした背景のせいなのではないかと 気が付き、帰り際にこっそり「後光差すバラの園」に差し替えてきました。 これで月曜日からは女子っ気溢れる職場に変化してるはずです! …と、その時は意気揚々と帰って来たのですが、後で考えるとかなり選択を誤ったかもしれません。中身が変わらないまま女子っ気が溢れてたらどうしよう。

10/16【奇跡について】

フラフラとネットの海を巡っていたら興味深いトピックスが目に付きました。

NHKの世論調査で「宗教や信仰に関することで何を信じているか」質問したところ、10代後半の2人に1人が「奇跡を信じている」と答えました。若い人達の間で「奇跡を信じる」人がこの30年で2倍近くに増えています。

これは内容の短さに反して色々と想像できて面白いです。 まず大前提として、何を信じているか聞くためには 宗教に入り信仰を行っている必要がありますから、 世論と謳っておきながら、信仰心がある10代後半の若者という今の世の中ではかなり珍しいような、狭い条件の調査であるといえます。 けど、そういう条件を満たす人を探すのはなかなか困難だろうし、 「特に信じていません」という答えが無いことから、この調査に答えた人は 「宗教や信仰をやっているとしたら」もしくは「宗教や信仰に期待するなら」といった 「もしも」の仮定を語ったのだろうと想像できます。 次に「信じている」という部分が曲者で、「何を感じるか」とか「どんな印象を持っているか」 と問われればいくらでも別の意見が出てきそうですが、「何を信じるか」と限定されてしまえば、元々仮定の話であることも手伝って 神とか奇跡とか、漠然とした答えしか出てこないのは不思議ではありません。 そして、その中で10代後半の半分の人間が、自分にとって何の利益になるか想像しずらい神や仏よりも、 自分にとって他力本願でも有益に働く可能性がある奇跡を選択する心理も理解できます。 しかし、このような誘導めいた下地の中「最近の若者に奇跡を信じる人が増えている」という結論に持っていくのは 強引すぎるのではないでしょうかね。 いや、まさかとは思いますが、結論に「宗教や信仰に関することで」の部分が 省略されている のは、 「ああ、最近の若者は他力本願なんだなー、けしからん!」なんて感想を引き出すために意図的に誤読を誘っているなんてことはありませんよねぇ? あくまで(調査対象にはさして興味も無いであろう) 宗教や信仰に対して奇跡があったら信じてみてもいいかなーというような感想が多かったというだけの話なのですから。 いやいや、そもそも、NHKが奇跡を信じることについてそんな風潮なわけないんですけどね。 プロジェクトXの作りとか自ら否定しちゃいますので。

んでも、「奇跡を信じる若者が増えている」と言いたいだけなら、ストレートに「奇跡を信じるか?」と設問したとしても大して結果は変わらないだろうなーとは思うんですけどね。 やはり回答者に自発的に奇跡を連想させ発言させることが重要な部分ではあるのでしょう。 後、「信じる」というニュアンスも微妙なんだよなー。 つまり、「そういう事もあるんじゃないの」みたいな容認の「信じる」と、 自分に起こることを切望している「信じる」では意味合いが違ってきます。 私自身が奇跡を信じるならもう圧倒的に前者で、有り得ない確率で起こる出来事をそう呼び、しかも幸福に属するか不幸に属するかもわからない (奇跡的に助かるという言い方が正しいなら、奇跡的に死ぬという言い方も正しい)という 代物に期待を抱き、自分に起こることを望むほどには無邪気にはなれません。 ただし、奇跡という言葉が幸運の最高型という意味合いで使われることが 常用になりつつあるなら、風呂に入って「天国だー」と呟いたり、休日出勤を地獄だと形容する 私だから、奇跡だって簡単に巡り会えそうですけどね。

10/14【発する】

例えばここには自分と明確に異なる誰かの意見に触れたことを端にした反発から自己の論を書くことがありますが、 それが意味のある行動なのかと問われれば、かなり疑問ではあります。 そもそもが誰に対して異論を持っているのかぼかしてここに書くという時点で、 異なる意見を持つ相手に自己の意見を伝えようという前提がないに等しいわけですけど、 しかし、直接、間接に関わらず意見のやり取りができるような状況があったとしても、 立ち位置の異なる思想を持つ相手に自分の意見が影響を与えることは殆ど無いと思います。 少なくても私は「思慮深い素晴らしい意見を解かり易い論旨で語ることができれば全ての人に共感してもらえる」 なんて発想を幼く愚かしいと感じますが、自説を貫けばいつか他人をも変えられると信じている人は、突き詰めればそんな自信が根本にある人なのでしょう。

とか、「結局は自己満足なのよねー」で終わってしまうとあまりの身も蓋もなさに日記を閉じてしまいそうなので、 とりあえず何か故事付けてしまうなら、 立ち位置によって正しさが変わってしまうものを「それでも現在、私はこちらに偏っているよ」 と意思表示することはそれなりに意味が有ることなのではないかと。 日和ることのない、そういう選択こそ価値のあるものだろうと。そんな気がします。

10/12【ネット人格】

いくら妄想チャンピオンな私でも、火の無い所に煙を立てるのは難しいわけで、 たまに見られる具体的事例を示さないような思考日記のときにも、 ちゃんと(?)元となる出来事が存在します。なら、「これこれこういう出来事があって、 それについてこう考えこんな感想を持つに到りました」と書く方が圧倒的に人に伝わり易いだろうという感触はあるのですが、 何故にそうしない(ように意識しだした)かというと、その出来事以後も私と接点が継続している人に具体例からサイトバレすると面倒だと思いはじめたからです (ようするに会社とかに)。 まあ、ここは細々とやっているからほとんど杞憂というものではあるでしょうけど。

私の場合、悪意を感じているモノについてはある程度明確に悪意を示していると自分では思っていて、 故に、それ以外は悪意とは区別して受け取って貰えるだろうと甘えている部分があるのですが、しかし実際には、 基点となる出来事を記すという行為と見えない所で相手を殴るという行為は傍から見て大して違って見えないのだろうなーと。 いや、そういう意味では、今の会社より前の会社に在籍していた時の方が余程、悪口と読まれそうなことを書いていたのですが別段サイトバレは意識していませんでした。 多分、以前の環境の方が相手が認識しているであろう(と私が感じている)私の印象と、内在する人格に差が無かったということなのでしょう。

個人サイトは人格を配信します。んで、それはおそらく無意識にその場での理想と考えている姿だったりします。 素で運営しているつもりでも完全な作り物のキャラでも基本は同じで、個人サイトに現れるのは 自分にとって適切な、扱いたい内容に合わせて調整された人格でしょうから(実際に適切かは別)、 リアルにのみ接点を持っていてネット人格に触れた場合、ネット人格のみ知っていてリアルに触れた場合共に、 そのつもりはなくても「騙された」と感じる人がいるだろうなーと想像するのは容易です。 「アナタらしくない」と言われたときの「アナタ」がどこにいる存在を指しているのかって話に近いかもしれない。

10/10【えらく古典的な話なのですが】

もうすぐ最寄駅といったタイミングの帰りの電車の中で携帯電話の使用を注意して回るおじさんに遭遇してしまいました。 それだけだと一見、良い事のようにも聞こえますが電話として使用していない状況(多分、メールやゲーム)を使用者から引ったくってでも辞めさせようとしていたのです。 曰く「人生は忙しいんだ。もっと他にやることがいっぱいあるだろう!」と。 確かに人生はやることがいっぱいありますが、残念ながら発言場所は電車の中なのですから、 おのずとやれることは制限されてしまいます。 そこでの時間の使い方は自分なりの対価を考えた結果であり、他人がどうこう言う筋合いがあるとしたら、 その対価に関して責任転嫁があったときだけだと思います。 満足していて迷惑になっていないなら問題とされるべきことは何も無いです。 私は「おじさんは具体例を挙げてないけど、例えば何をしていれば満足なの?」と聞いてみたくて 自分の番をワクワクしながら待っていたのですが、その場では小説を手にしていたので、おじさんの目には 止まらなかったらしいです。ああ、残念。

このおじさんの致命的な誤りは顔を真っ赤にして息巻きながら「怒っていた」という事実です。 せめて冷静さを装って行動しているならばまだ見方も違ってきますが、これでは文字通り話になりません。 と、いうのは怒っている理由とそれを誘発した出来事が必ずしも一致するとは限らないからです。 まず、自分が何について怒っているのか考えてみて納得がいかないなら、 次に集団の中の出来事なのに何故自分と周りの反応が違うのか、何故周囲に同じく怒っている人がいないのか 考えてみる、つまりは周りを疑うより先に自分の常識や行動や正当性を疑ってみる、 その上でもう一度、自分が何について怒っているのか考えてみれば大概答えが出る筈です。 このプロセスを経由して尚、何かくすぶるようなら今夜は私と価値観について語り明かしましょうか? …なんて考えに共感してくれるようなら、初めからそんな醜態さらさないとは思いますけどね。

10/09【つりあう】

よく思うのですが、対等の人間関係を作るのはなかなか難しいです。 いや、対等の関係とか立派なお題目を書いてますが、要するに「友達できねーよ」って話です。 特に学校という枠組と縁遠くなってしまってからは、前提として上下関係が存在する環境の方が多く尚のこと難しくなってきます。 ちょっと周りを見渡しても、年齢による上下、年功による上下、地位や立場による上下など、様々な概念があり、 いくら片方が対等な関係を築こうと考えていたところで、もう片方がその中の1つの概念でも信奉していたらどうにもなりません。 これだけでも結構なハードルなのに、更には、折角しがらみの部分は突破できたのに、 片方が極端に惚れ込んでしまうという、色恋沙汰であれば片思いの一言になってしまうような、 けれども「友達関係」の話だから明確に区切られるものでもなく、余計に性質が悪くなってしまうような、 本人に言わせると友達関係なんだけど、主従関係といった方が適切であるというような状況も存在します。 事の始まりは、何かしらの魅力を感じるから友達になりたいと思うのに、それをあまりの眩しさを感じてしまうと尊敬と軽蔑のつりあいが崩れてしまう結果になると。

私はたまに「偉い人は可哀想だ」というようなことを主張しますが、実は結構本気だったりします。 対等でない関係は、本音や本質を伝える手段を制限してしまいますが、本音はまだしも、 本質を論ずる機会を虚栄心と引き換えにするのはかなりの損失だと思うからです。 また、そうやって満たされた虚栄心だって自己満足にしかすぎません。 誰かに大事に扱われるということは、大事に扱っておけば安心だ、得だと安く勘定されているわけですからね。 少なくても私は何らか間違ったり失敗したりしながら日々生活しているから、 片方の指摘がパッタリ止んでしまったら、それはそれで生き辛いだろうなーと(いや、他人の目を気にしないならそうでもないかなー)。

まあ、結局のところ、対等でない関係には害は有っても利が薄く、そのくせ 対等な関係は非常に作り辛いと私は思っているわけですが、 こればかりは相互の歩み寄りの産物なので、どうにも上手くいかないです。 んでも、そんな困難なハードルを乗り越えて、尚且つ私の友達なんかやってるような、 ささやかな奇蹟に遭遇してしまった連中は大事にしたいものです。 多少の尊敬と多少の軽蔑の気持ちを持って。

10/06【わたしと一緒におしおきしましょ】

秋も酣、番組改変の季節ということで私としては土曜日(一昨日)から始まった、 実写版美少女戦士セーラームーン (TBS 7:30)と 超星神グランセイザー (テレビ東京 9:00)に注目です。 日曜日の朝の爆竜戦隊アバレンジャー、仮面ライダー555と合わせると 週に4本もの特撮が放送されるわけで特オタ属性としては嬉しい限りなのです。 内容的にも、女の子萌え、昔ながらの王道ヒーロー路線、子供受けの良さそうな何でもありの戦隊モノ、 玩具の宣伝以外は子供を完全に置いていくストーリー、と微妙に被らないところが揃っていて、なかなか豪華な感じです。 とは言え、私は「大人のお友達」であり、残念ながら今週の土日は休日出勤でしたので放送時間が遅かったグランセイザーは見逃してしまいました。 仕方ないのでセーラームーンの感想でも書こうかと思ったのですが、 何かこの作品、実際に見てみると 陰謀めいたものを感じてしまうのです。 2ch特撮板 なども参考にとりあえず検証してみようかと。

<ポイント>
・土曜朝7:30
→ライブを重視するオタにとって徹夜にはちと辛く、早起きするしかない健康的な時間
・主人公サイドには10代女の子向け雑誌のグラビアを飾るような美少女人材を抜擢
→でも変身すると7色のカツラ
→でも変身するとイメクラの衣装みたいなセーラー服
→でも変身するとJoJo立ち
・主人公のパートナーになる猫が、UFOキャッチャーの景品みたいなヌイグルミ
→巨大なフェルトの目がファンタジー色を出してます
・主人公の憧れの存在、タキシード仮面がどう見ても変態仮面にしか見えない
→現実との対面その1
・数十回にわたるパンチラを意識したカメラワーク
→でもパンチラがあるようなアクションは吹き替え
・実写でもメガネっ娘は萌えるらしい
→現実との対面その2
・変身シーンや必殺技シーンはCGを背景に体操する
→アニメ版を意識したリハビリ
・主人公の太ももに対する厳しい意見が殺到
→現実との対面その3
→つか、アニメキャラの足の細さが異常

<結論>
・少子化などの問題を解決するため、10年前セーラームーンに嵌った若者をターゲットにした2D(アニメ)萌えから3Dに意識をシフトさせる(Zバッファの必要性を気づかせる)ために政府が暗躍、陰謀した矯正プログラムに違いあるまい。

10/03【礼の必要性】

日本人には礼を尊いとする観念があります。 特に要人と接する場合でなくても、基本は、出会ったときの挨拶から始まり、 なるたけ相手が不愉快にならないように振舞うことを気持ちの片隅に置き、 やはり挨拶で別れるのが人付き合いにおいてベストとされるものでしょう。 まあ、半ば条件反射とか、ある種の形式のようなものだとしても、私はそれなりに良い事だとは思っているのですが、 一方で世界から礼という概念が消えてしまったとしてもそれはそれなりに 大した問題でもないだろうなーとも思っています。

もしも、礼が無くなったら世界はギスギスしたものになると考えますか? 確かに礼を欠いた行動は人を不愉快にするものです。 その日初めて顔を合わせたのに「おはようございます」がないと何となく無視された気分になったりします。 でも、礼を欠かれると何故不愉快になるかを突き詰めると、結局は礼を欠かれたからなんですよね。 具体的に言うなら(無意識にでも)礼を要求しているから、それを貰えなかった時に不愉快になるのであって 概念自体が元々存在しなければ不愉快になる理由も存在しないことになります。 「近頃の若者は礼に欠けているから云々」といった類の説教はいつの時代も共通ですが、 では何故「近頃の若者」が困らないかと言えば「近頃の若者」と称されたコミニュティの範囲では、 発言者が思い描いているような礼を必要とする人がいないからなのでしょう。 礼が無い世界は礼が無い故に礼を問題にしてギスギスすることがありえないのです。

で、結局、礼は必要だと思っている人には必要だし、必要だと思っていない人には必要ないという、 さして突飛でもない結論にたどり着いたところで、 私が気になるのは、礼を要求してくるのに礼を返さない人です。 例えば「挨拶がなってない」と怒るから、てっきり「礼が必要だと思っている人」なんだと認識して こちら側から挨拶しても、当然のように無視する(返事を返さない)といった具合の人です。 対応に困るから、偉らそうにする前にどっちかに寄ってほいしなーと。

10/02【特にもう育たない】

いくら(表向き)真面目な(フリを装っている)私でも昼間、会社で眠いときがあります。 納期に真剣に追い詰められて1〜2時間しか寝ていないなどという状況なら興奮のあまり脳内(さらに体外)で色々な液が分泌して 眠るなんて選択肢は頭から綺麗に消えるので大した問題になりませんが問題は適度な忙しさで気が抜けているときです。 今の時期の昼食後の一時なんか微妙に拷問ですね。お腹は満足だし、陽気はポカポカだし、 ふっと窓の外の青空なんか眺めてしまった日には公園に芝生を求めてフェードアウトしたい心境でいっぱいになります。 まあ、実行したならそのまま人生もフェードアウトしてしまいそうですけど。 いや、眠いものは眠いのだから仕事中だろうが仕方ないのです。寝るしか解決方法はないのです。

そんなわけであまりの甘美な誘惑に人生と日向ぼっこの天秤の傾きを人工補正してしまう前に誰にも悟られずに机で仮眠、平たく言うと居眠りする必要が出てきます。 しかし、居眠りについて、私にはひとつだけ長年解決できていない大きな問題があるのです。 目をつぶっていることは目蓋に目玉をペイントすれば問題無いです。 鏡に向かっている内に調子に乗って「肉」とか「米」とかペイントする愚行を犯さなければ誤魔化せます(断言)。 体の縦方向の揺らぎには背中にホウキを仕込むことで対処できます。 いずれも先人の知恵による尊い教えですが、問題は横方向です。 有史以来(未確認)首が横方向にカクンとなる現象に立ち向かい解決策を見出せた人を私は知りません。 私自身も無い知恵を絞りましたが、せいぜい背中に挿したホウキに別の顔を書いおき、バレたときに「アシュラ面、怒り!」と口走って場を凍らせるような対処療法しか思いつきません。 ああ、どなたか良い知恵はありませんでしょうか?