Lost word


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9/30【銘柄】
 駅の時計をチラっと確認したときには10時50分過ぎくらいだったと思います。 それから(疲れた背中に哀愁を漂わせながら)トボトボと家路につき、 ふと、思いたって胸ポケットを探ったら目当ての物がない。 空の紙箱を手で軽く捻ると足を速めます。 はたして、約束の地へ辿りつくと、 それはすでに本来の役目を終え、 暗闇でボゥっと存在を誇示だけのネオンと化していました。 携帯電話を取り出し時間を確認すると11時ジャストです。 うえーん。煙草が買えないじゃんかよぅ。

 ところで、私は普段マイルドセブンを吸っているのですが、 今日気づいた限り、日本の煙草が売られている販売機は11時ジャストに売り切れランプが点灯するのに、 洋モクが売られている販売機は11時には販売中止にならないんですね。 2箇所で確認して同じ様子だったので多分そういう仕様なのでしょう。 さすがにいつ売り切れになるのかまでは確認しませんでしたけど。 日本の煙草は販売機で買えない、洋モクは買えるけど普段吸ってない、遠回りしてコンビニによれば両方買える。 なかなかに窮屈な選択です。 未成年者が好んで日本の煙草を吸うわけではないだろうし、何が根拠になって差別化できているのか知らないけど、 多分、誰かの思惑通り私は以前吸っていたラッキーストライクを買って帰ってきました。 久しぶりに火を着けてみると特に変わったでもなく、また、不味いわけでもないんだけど、何で銘柄替えたんだっけかな…。

9/29【右手に剣を、左手に花束を】
 スクエニ合併後一発目に買ったタイトルが コレ って如何にも私らしいなーと思う今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。 私の妹が託児関係の仕事についているのは何回か日記に書いていますが、 「子供に話を合わせるのが大変」という類の相談と言うか、グチを聞かされることがよくあります。 そんな時決まって私は「フフフ、兄には造作も無いことだがな」と胸を張り、 妹は、私の部屋に転がる対象年齢一桁前後の物体を一瞥した後、 ため息交じりに「そりゃ、兄はそうだろうねぇ」と同意します。 いやー、そんなに(じとーっとした)尊敬の眼差しを向けられたら照れちゃいますけどね。

 そんなわけで、対象年齢6歳以上の剣神ドラゴンクエストなのですが、予想に反して(?)かなり面白いです。 基本的には章を1面としたアクションゲームで 初代ドラクエの世界、アルフガレドを舞台にこのゲーム用にアレンジされたストーリーが進行します。 例えば中盤、初代のBGMをバックにマイラの村を南下、毒の沼地(ちゃんと歩いているとダメージ受ける!)を越えるとラダトームに抜ける洞窟が見えて来ます。 洞窟内をしばらく進むと左に分かれ道が存在し、その先には助けを待ち望む貴人がいて、そして奴が立ち塞がっているわけです。 直撃世代には堪らない内容ですよね?それが体感できるのですよ(残念ながらその後宿屋には泊まれませんが)。 システム的にもLv、Hp、Mpの概念から剣のパワーアップ、魔法(剣先からギラが発動!)、小さなメダル集めから町人との会話まであり、ヘタなコンシューマPRGよりRPGしてます。 肝心の剣を使ったアクションは縦切り、横切り、斜め切り、防御などが存在し、きちんと軸を判定してくるし、 それぞれに敵との相性や有効性があり、特定条件と組み合わせ入力によって発動する必殺技など、ただ振り回しているだけではクリアは難しいです。 うにゃ、どこが開発したのか知らないけど XaviX でよくもまあ、これだけ詰め込んだものだなーと。

 やっぱり基本は立ってやるものだろうから、TVの置き位置を調節したり、さらに剣を振り回せるだけの広さを確保したり、 光が乱反射しそうな鏡などを退けたり(部屋を暗くしても回避可能)、 またしても尊敬の眼差しを向けてきそうな同居人を追い出したりと、買ってからの準備もなかなか大変ですが、 少なくても興味があって迷っている人には買って損ないよとお勧めできます。 恥ずかしいならプレゼントと言い張って包んでもらっちゃえ(私は素で買って電車で帰って来ましたが)。 つか、正直、6歳当時の私では絶対クリアできなかったと思うような難易度です。 感覚的にはガンコンを使ったアクションゲームに近いのに何でこんなに対象年齢低いんだろう。 …とか考えてたら次の日思い当たることが。ハッスルしすぎて筋肉痛が発生し右肩が上がらないのです。 むぅ、私にロトの勇者は無理なのかっ。

9/27【本質】
(昨日の続き)
 後、気付きずらい差異としては、例えば私のように日常的にPCに触れているような人間と、 ウチの妹のようにあまりPCに触れる機会が無い人間とはメールに対する定義が微妙に違うらしいです。 私はPCを媒介としたやり取りを主に「メールを送る」と認識していますし、 妹は携帯電話を媒介としたやり取りを「メールを送る」と認識しています。 で、大前提としてメールはインターネットを利用した技術なわけですが、 携帯でしかメールを使わない妹には、ネットを利用しているという感覚が皆無だったりします。 何というか、同じモノについて語っているつもりで実際に話も通じているんだけども、 思い描いている題材についての感触は別物であるような。

 メールが手紙の延長線にあるものだとするなら携帯のメール文化はかなり独自の体系が用いられ易い下地があります。 PCのメールソフトを使ったやり取りが比較的手紙のスタンスを思い描き、流用し易いのに対して、 携帯メールは入力端末の使い勝手や文字数制限などの制約に加え極めてローカルな範囲での運用で完結することが多いからです。 つまり、人によっては短い文章での友達間のやり取りしかメールをしたことがないという状況も少しも不思議ではないのです。

 サポート宛に送られてくるメールに目を通すと、「○○まだこないよー」とか「○○って○○なの?」のように口語体で用件のみという内容が少なからずあります。 これはメールを手紙の延長線と捉えていると結構な違和感で、 私などは、最低でも要求するサポートに対して自分が開示できる情報(申し込み番号とか) 、署名、お願いするという姿勢くらいはメールに書いておかないと不安になってしまいます。 ただ、用件のみのメールというのは非常に本質的であり、 メールアドレスという個人を特定できるものに乗って来て用件が伝わるように書いてあるならば、サポート処理に必要な条件は揃っているんですよね。 私が不安を感じないメールとの差は、申し込み番号から情報を引き出すか、メールアドレスから情報と引き出すかといった行程の違いでしかありません。 意外とそういう部分を感覚的に察しているのかなーとか、(手紙の延長線フォーマットの)返信案を書きながら思ったのでした。

9/26【対価】
 何やらここ最近はウェブサイト構築の仕事を任されることが多々あり、 その関係上、提供しているサービスに対するユーザの反応というか、ぶっちゃけサポートに送られてくるお客様のクレームメールを目にする機会が増えました。 プログラマが必要な、つまり、動的要素があるウェブサイトというと 大概がお金が絡むコンテンツ内容で、 固有のターゲットを対象にした課金(会員サイト)や、 時流が売上を左右するような商品を取り扱うサイト(物販サイト)などがあげられます。 やはり、お金が動くとそこに上下関係が発生すると錯覚してしまうのはネットでも不変な感覚で、 サポートに対価以上の期待を持つ人はかなり多いらしいです (らしいというのは、別に私が直接クレーム処理をしているわけではないので正当な労力の判断がつかないからです)。

 まあ、実際、私が知っていてネタにしても差障りのない範囲のクレーム内容だけでも、 自分から会社終業後や土日にメールしてきてこちらの返事が翌営業日になってしまっただけで 鬼の首を取ったように文句言ってくる24時間私の面倒見なさいよ派の人とか、 販売期限を過ぎてしまった商品を、 (それまで何のクレームも出ていなかった)購入までの操作が一般人に理解できる仕組みではないから買えなかったなどと ひたすら難癖を付けることで何とか購入しようとする人とか、 物凄い勢いで罵倒文が並んだメールを送信してきて、あたかもケンカを売っているようにしか見えないのに、それでも自ら要求が通ると思い込んでいる王様チックな人とか、 なかなかに強者(つわもの)ぞろいです。 んでも、そこはやはり客商売でしてウチに関して言えば余程、物理的に不可能でない限りは要求が通ります。 うっかり販売期限を過ぎてしまった物でも、赤の他人にキ○ガイだと思われるリスクと引き換えに手に入れることが できるのは考えようによっては有用かもしれません。 私の知っている限り世界の大半は個人の我侭が通らないようにできているけど、この場面で無理にそれを諭す必要は感じないし、 逆に数少ない我侭が通る場面なわけだし。

9/25【555・雑感とか】
(昨日の(発作の)続き)
 で、555では一度死んだ人間が蘇ることで怪物=オルフェノクとして覚醒します。 オルフェノクを悪と印象付けるのは、その異形の外見や戦闘力以上に、やはり 人と相反する倫理観と嗜虐性と言えるでしょう。劇中では「オルフェノクの心」と表現されています。 しつこいようですが、嗜虐性はまだしも倫理観とそれに伴う行動が人と異なるのは種が違えた時点で正当化されます。 むしろ、人が、人の倫理に外れた行動を蔑むように、オルフェノクが、オルフェノクの倫理で行動しないのは不自然なのです。 しかし、人であった者が人で無くなるという経緯がその判断を躊躇させます。

 今週の放送ではついに主人公もオルフェノクであることが明かされました。 さらに、主人公には1話以前からその自覚があったのだそうです。 客観的な見方をすれば人間であることに執着し同族を排除する側に立つことで自己を含めたオルフェノクという存在を否定していたわけです。 この主人公の心理は、やはり1話から登場している、オルフェノクでありながら人で在りたいと考えている木場という青年と比べると興味深いです。 等しく人で在りたいと願っていながら、 主人公は(自らを含めた)オルフェノクの力を完全否定することで人であろうとし (同族排除、555という別の戦闘力の利用、生命の危機のような場面でもオルフェノクの力を使わないなど)、 木場はオルフェノクの力を活用しつつも人の心(倫理観)を捨てないことで人であろうとしています。 境遇と目的が近いもの同士で共闘は可能ように見えるけど、決定的な部分で相反した姿勢を持つ2人はこの先も交わることがないのだろうなー、とか。

 いや、あんまりにも展開が劇的で目が離せねーよ、来週が楽しみで待てねーよ、 という気持ちが、物語を内側からの視点で語るなんてことをやらせてしまっただけなので 2日もやったわりに大した内容はないのですが。うひゃー。

9/24【555・前提】
 ヒーロー物において誰にでも解かり易く認め易い価値観、そして親の誰もが子供に学んでほしいと思う価値観とは 正義とされる行動や悪とされる考え方だと思われますが、 しかし、両方ともはっきりとした根拠を持って描かれていることは意外と少ないです。 大概は、絶対的な悪と対立しているから正義であり、絶対的な正義と対立しているから悪であるといった基準が採用されています。 さらに言えば、実際には万人が認めるような正義は非常に定義しずらいものなので、 絶対的な悪を創造した上でそれに対抗する者を正義と呼ぶことで話を作る場合がほとんどでしょう。 そう、絶対的な悪は創造し易いのです。 私達が生活する世界は人を中心に置いた倫理観が一般的ですから、 人で無い人に害を与える存在は全て悪と仮定することができます。 手に止まった蚊をほとんど無感情に叩き殺すことができるのも、 存在自体が許せないから何とかして台所の黒い悪魔を根絶しようと行動するのも、 無意識の内に自分の倫理を正当化し、向けるべく対象を悪と認識するからできることでしょう。

 いや、別段それが悪いとは思いませんが、こう客観的に書かれると多少の後味の悪さがあるのではと思います。 つまりは、人は人の倫理でモノを見ているだけで、もっと大きな生存競争レベルでは善悪の判断は付かないし、まして相手にしてみれば人の側が悪なのです。 そこで物語では、人で無い人に害を与える存在に極端な嗜虐性と人を上回る殺傷能力を追加し、それを怪物と呼びます。 この態の良いディフォルメが印象としての善悪を視聴者に決定付けるキーになっているのは、今も昔も、そしてこの先も変わらないでしょう。 んで、折角用意されているのだから勧善懲悪をありがたがり子供に教えるべきことだとか考えている人はこの辺を大いに利用すれば良いと思うのです(子供の方が利口だとは思いますけどね)。

9/20【本場】
 今週の頭から我が開発部の部長がロサンゼルスに出張しています。 何でも海外に別会社を作ってそこにサーバを置き、スペースを貸し出すようなサービスを始めるのだとか。 うーむ、わざわざ海外にサーバを置く理由って私的にはひとつしか思いつかないのですけど。 まだ詳しい説明があったわけではないので、それまでは気づかなかったことにしておいた方が幸せってものでしょう。 どうか担当になりませんように…。

 ところで、出張先から社内のチャットに入って来た部長と社長の間でこんなやりとりがありました。
社「今、ロサンゼルスのどの辺なの?」
部「南の方」
社「ああ、南の方ね」
社「その辺はストリートの両側にメキシコ料理の店が並んでいます」
社「本場のタコスを味わってきてください」
部「はあ」
何かねー、見栄張ってアメリカ通であることをアピールしたいのでしょうけど、たった数行のチャットでこれほどボロが出るのも珍しいと思いました。 例えば「今どこ?」「東京の南の方」なんて会話があったとしても具体的な場所を特定するのは不可能じゃないですか。 想像できるとすれば、せいぜい町内規模です。 方向を示したくらいで場所が特定できるなんて、行ったことないから知らなかったけどロサンゼルスはよほど規模の小さい田舎町なんでしょうね。 さらに極めつけは「本場のタコス」です。 確かに日本でだって専門店に行けば各国の本場料理が食べられます。 ただしここで使われている「本場の」は「せっかく現地に行ったのだから」 という意味が込められていると考えるのが妥当です。 つまり、日本茶の本場は日本だし、メキシカンタコスの本場はメキシコでしょう。 いや、もしかしたら、私が知らないだけで「ロサンゼルスタコス」なる物が存在するのかにゃ。

9/19【人騒がせな系譜】
 皆さんは「BBR」をご存知でしょうか? 初めのBはボンボンのB、これは講談社が発行している少年向けコミック雑誌の名称です。 次のBはボーイズのB、少年団的な意味合いでしょうな。 最後のRはリサーチのR、調査です。 続けて読むと「ボンボンボーイズリサーチ」。ここまでで勘の良い人は気づいたと思います。 講談社が出してるマンガ雑誌所属の調査団。あれ?どこかで似た設定を聞いたことがあります。 20世紀末期、謎ある所常に現れ珍妙な大胆な仮説で私達を笑い恐怖のズンドコに叩き落とした、 しかし、ノストラダムスの予言と共に飽きられ惜しまれつつ活動を終了した頭脳派集団が存在しました。 その名をMMR。そうBBRはMMRの流れを汲んだ正当な後継者達なのです(見た限り、少なくても主人公が何かを力説するときの右手が継承されています)。 今度はいたいけな子供達を煽って疑心と不安の嵐に陥れようという魂胆なのでしょう。 いや、子供のころ見た恐怖系マンガって結構トラウマになっちゃうもんなんですよ。 私も名前も忘れてしまったようなマンガの内容に感じた恐怖心が今だに忘れられません (遺跡か何かで発掘してしまった怪物に人間が憑依されて次々殺されていく話です。知ってる人いますか?)。

 そんなわけで、今月からコミックボンボンで連載が始まったらしいです。 「何だってー」部隊のイケダさんがボンボン編集部に異動になっていたり、 第1話から地球の滅亡を煽っていたりと見所満載です。 さすがにこの歳でボンボンを買うのは躊躇われますが、単行本は出たら買っちゃうかもなー。 知っての通りナワヤさんは新生MMRに登場しています。 そして今回イケダさんの処遇が明らかになりました。 しかしメガネの似合うクールガイ、我らがキバヤシさんの行方が不明です。 私の予想では、結構BBRのラスボス的存在だったりして、とか思っています。 ヤバイ謎を解きすぎて国家に追われる内に悪の道に落ちたとか、ありがちな展開で。

9/17【効果範囲】
(ブルブルブルッ)
「はい」
「ああ、failsafeかい、お母さんだよ」
「何?」
「それがね、聞いておくれよ」
 …5分ほど経過、そろそろ周りの視線が痛くなってきた。
「それでね、言ってやったわけよ」
「母さん」
(話を遮られて不満そうに)「うん?」
「この話、長いの?」
「何で?」
「オレ、今、帰りの電車なんだよね」
「ああ、そうなの。遅くまで大変ね、それでさー
「……」

 その後、こちらから掛け直す約束をしてようやく開放してもらえました。 いや、電車に乗っているという状況を持ち出せば大体の人が遠慮してくれると錯覚していたのは事実で、 それが身内に通用しなかった辺り私もまだまだ甘いです。 そりゃ、1時間に1本しか電車が来ない、ピーク時でも 十分余裕があるようなローカル線しか走っていない田舎街で、しかも車を移動手段に生活している 母親が東京の満員電車を想像するのは無理があるし、 「電車内通話禁止」を常識と察せ(受け取れ)なくても不思議では無いよなー。

9/16【ネガティブ思考推進キャンペーン】
 どうにも一般的には「ネガティブ思考はマイナスだ」というイメージが幅を利かせていますが、 物心付いた時からネガティブ思考と共に歩んできた私としては、 「そうでもないよ、むしろ、お勧めだよ」とか言ってみようと思います。

 例えば、子供時代は今でこそくだらないと一蹴できるけど当時の心境としてはのっぴきならぬピンチというものがありました。 何かを壊した、誰かを泣かしたなど近い未来、親や先生に確実に怒られるといったことが予定されている状況です。 少なくても私にとっては説教やそれに伴う罰が立派に恐怖の対象でしたので、 もはや逃げられない場面でそれを待つというのはとてもストレスを感じる一時でした。 そして、そんな時の精神的な逃げ道としてネガティブ思考は有効だったのです。 見せしめに自分の大事にしている物を壊されてしまうとか、一晩家に入れてもらえないとか、 自分が一番イヤだと思う怒られ方を次々と予想していきます。 もちろん、所詮は子供の浅知恵ですからほとんどの結果と現実は予想と反することになってしまうのですが、しかし、ここがポイントです。 一番イヤだと思う怒られ方があり、現実はそれと違う怒られ方をしたということは、 まんまと精神的負担が軽減しているのです。また、 万が一重なってしまった時も、予想はしているのですからある程度心構えが違うと思います。

 つまりネガティブ思考の醍醐味とは、予想内で備えられ予想外の幸運を感じられることであると。 これは大人にも応用が利きます。 長引く不況で冬ボーナスが出るか微妙なんて人もいるかもしれません。 そこでは自身の心構えを「そうは言っても出るだろう」「いや、出ないな」のどちらか選択しなければなりません。 ネガティブ思考な人はもちろん「出ない」を選ぶと思いますけど、 いざその時が来て「出ない」となった時にダメージがデカイのはどちらか、 「出る」となった時により嬉しいのはどちらか、なんてことを考えると選択は決して間違いでないと思うのです。

9/12【奉仕の精神】
 歴史小説などを読んでみると昔は忠誠心とか忠義心といった感情が美徳とされていた時期があったらしいですが今はどうなんでしょうね? まず絶対的な条件として主従関係が無くては忠誠心は発生しないわけですが、 天は人の上に人を作らないという思想が普通に声に出せるようになって以来、 (建前上では)人の上下に人は無くただ同列に並んでいるのみの筈ですから その状態で忠誠心が芽生えることはありえないです。 少なくても私は、生まれて此の方、人に対しても組織に対しても忠誠心が沸いて来たことがないですが 別段おかしいと思ったこともありません。 素晴らしいと思える人に会ったことがないわけでもないけど、 そういう人に抱く感情は尊敬というカテゴリであって、 忠誠のような全ての決定権を相手に委ねて、しかもそのことに不安を感じないといった心境とは明らかに違います。

 んで、私的には現代では忠誠心なんてむしろ悪徳でしかないと思っています。 もしこの時代に忠誠心を試されるような場面が発生したのであれば、 前述の通りかなりナンセンスな話ですし試されることなど論外でしょう(特殊な嗜好の人を除いて)。 ふとした話の流れで、時代劇や演歌が「日本の心だ」などと主張されると反論する気は起きないけど 苦い顔になって口元が緩んでしまうのはその辺りが大本なんだろうなー。 生まれの違いでほぼ無根拠に尽くす者と尽くされる者が決められていて、 しかもそれが美徳であるという世界観が私にとって気持ち悪くて違和感バリバリなのだろう。

 いや、それでもやっぱり実際には忠誠心を試されるような場面は発生するんだけどさ、しかも結構無理難題を要求されるような展開で。 でも、あくまで発生するだけで付き合う義理はありませんよね。すでに私らの中では「徳」の価値観が反転しているのですから「ほぼ無根拠に」っていう条件が通用しなくなっています。 利害と許容できるキャパシティを(ここを多少、忠誠心と置き換えられるかも)越えれば壊れる関係があることは全然不思議じゃない。 だから、最早そんな迷信めいた感情を盾にできる人の自信って本当に解からないです。解かりたくもないですけど。

09/11【罠】
 人生は気が抜けません。 日常にも、どこにどんな巧妙で狡猾な罠がしかけられているか判らないからです。 私のように(何も無い所で転ぶような) 隙の無い人間ですら回避不能の場面が多いのですから皆さんも注意するべきでしょう (近づくと巻き込まれます)。

・本当はやるじゃんD○C○M○の料金
(客がバカだから高く作ってことか?)
    〜週間少年サンデー41号「かってに改造」より

 もちろん私はD○C○M○の料金が罠だと主張したいわけではありませんよ。 同じくCMに突っ込みを入れることを業(セコイ生き甲斐)とする者としては、帰り電車内で読んでいて不意打ちをくらって周りの目も気にせず噴出してしまったことを罠だと言っています。 この作者は良いパンチ持ってますね。身を削って危ない橋を渡るという意味ではカウンター系でしょう。

09/09【焼きそば屋さん】
 インスタントの焼きそばは焼きそばを名乗っているけど、その実、全然焼きそばの味がしません。 インスタント物は元来、それぞれの元となる味を模倣していて ラーメンなどは結構それっぽい味がするものが多いです。 そんな中、インスタント焼きそばを本物に近づけようなんて話は聞かないですから、開き直っているというか我が道を行っているというか、 非常に男らしい(現代的には女らしい)スタンスだと思います。 もはや、あの味自体にも固定ファンがいそうですしね。

 そもそも「これが本家本元焼きそばの味だ!」と定義できるものが存在しないことに気が付いてしまいました。 本格的な焼きそばが食べたいとなったらどこの店に行けばいいんだろ?とか。 縁日の屋台がそれに当たる気もしますが、私が食べたい時に都合良くお祭りをやっているとも限りません。 同種カテゴリはお好み焼き屋なんでしょうけど、あくまでサブメニューか具でしょうし、それを本来としてしまうのは無理がありそうです。

 とか言ってすっかり忘れてたけど、実は私の田舎には普通に「焼きそば屋」がありました。  この辺では見かけないし、他には北海道出身の友人が存在を主張していたことがあるのですが、 基本的にはローカルな存在なのでしょうね。 店に入るといつも焦げたソースの匂いがしていて、 屋台を一回り大きくしたような設備の中、おっちゃん(という形容が似合う人)が一人で切り盛りしていました。 テイクアウトもできたので、中学校の部活動帰り、ソーダ水片手によく買い食いしたものです。 他には焼き饅頭が売られていました(これも存在を見かけないからローカルくさいです)。 子供の小遣いで気軽に手が出せる値段だったことを考えると駄菓子屋の亜種だったのかもしれません。 継ぐ人もいなそうだったし、もう無くなっちゃっただろうな。

09/08【詭弁ですが、何か】
 今の会社も前の会社も親と同居している人が多いです。 平均年齢が低いことも手伝っていて半分くらい居るんじゃないかな。 この事実に対し私はそれなりに批判的でした。 特に前の会社に在籍していた頃は誰もが、普通に独り暮らしをするには キツイ給料だったにも関わらず、抗議しようにも一緒に声を上げようとしてくれない状況に苛立っていたのです。 何だよ、お前ら生活できるのか?と思っていたら、家賃無しで共同負担している部分も少ないとなると 生活できていたのでした。不満は感じるかもしれないけど不自由を感じないから身を挺してまで叫ぼうとは思わないわけね。

 批判的でした、と過去形なのは最近はそうも思っていないからです。 所謂、パラサイトシングルの弊害は色々あるとは思うけど、 そのほとんどは依存部がご破算になった時に依存者自身に降り掛かる試練で基本的に他人事です。 大変なのは、突然に親なり共同生活者なりに頼っていた部分が自動的に解決しなくなることや、 突然に金銭的負担が増えることですが、それにしたって本人に備える気があればどうにでもなります (まあ、頼っていると備えられるものでもないから「親が居なくなって初めて親のありがたみが解かる」とかいうんでしょうけど)。 私が批判的だったのは、「自分は大変なのに」といった類の持たざる者の僻みでしかないでしょう。

 つか、仮に自立とか親離れとかいう言葉に煽られて皆が皆、 成人したら独立せねばならんという風潮になったら、 日本都市部の住宅事情を考えるとあんまり良いことはなさそうです。 受け入れるだけのキャパシティが無いんだから、 部屋を借りるにも倍率、家賃共に跳ね上がっちゃうだろうなーと。 持たざる私にも、さらにしわ寄せが来てしまいそうです。 なら、変な僻み根性出してないで、都市部で生まれた幸運者にはそのままヌクヌクしてもらっていた方がお互い幸せってものでしょうな。

09/06【原因】
特区で子役の出演時間延長なるか 担当相と厚労省が激論
子役の出演午後9時まで 「モーニング娘。特区」で決着

 久しぶりにニュースネタです。んーと、この担当相の鴻池氏って 長崎事件では「親は市中引き回し」、渋谷、赤坂の事件では「小6の4人も加害者か被害者か分からない」 と失言した人ですよね(本人が認めているからあえて失言と書いてます)。 失言自体は建前を気にするような立場の者には叩かれたけど、 ネットに上がった反応の中には意外と「よく言った!」と支持する人が多かったと記憶しています。 単純に抜き出された部分に賛成した人もいたでしょうが、 発言の前後の省略された内容も吟味した上で事件を受けて率直に感じた自分の本音と近く、それ故に支持したって人も多いでしょう。

 で、「ゲーム脳」と同じくらい懐疑的な少年犯罪の原因の1つとしてタレントやアイドルの低年齢化なんて話があります。 子供については自分と同年代のアイドルが持てはやされ、綺麗に着飾っているのを見て憧れを抱くことが、 自分の(家の事情より)許される以上の欲求を持ち、それを安易な方法で解決しようとする温床になっているという指摘で、 大人については商品とそのターゲットとして扱う年齢の対象がどんどん下がってしまっているのではないかと。 件の失言が単なる人気取りではなく、子供を取り巻く現状を思った憂いから来たものであるなら、 もちろん鴻池氏は、この辺も考慮しつつ「そんな影響まるで無し」と判断し規制緩和という判断をしたんでしょうけど。…したんですよね? もしくは、少年犯罪の原因と推されることのほとんどが、 そこを通過しても問題無く生活している人がいる現状を踏まえ、あえて我慢を教えるための試練を作っているのかもしれん。 当たり前だけど、我慢する対象が無ければ忍耐は鍛えられないでしょうから。

 ちなみに私には「芸術を志す子供のために」なんて完全な建前で、子供の出演を今までの時間外まで延長する真の意味は商業的な理由にしか思えません。 むしろ、芸術を志す子供のために現状の8時までに収まるよう商業利益を犠牲にするのが、大人の判断として正しいのではないでしょうか。 時間とかずらせるわけですからね、客入りなどを優先しなければ。 まあ、資本主義の中では資本主義を貫くことこそ絶対だ、というのであれば間違っているのでしょうが。

09/05【日陰】
 引き続きオタク話。それでも少し前からのオタク文化の扱われ方には微妙な違和感を感じます。 日陰趣味は日陰で楽しむのが妥当だというか、 他人(一般人)には理解できないことに価値を見出す特殊性に酔い、 独占欲を満たすことがサブカルチャーのある種の醍醐味だと思うのですが、 そういう根暗な部分が減ってきている気がします。 具体的にはTV深夜枠やBSに放送されるアニメに見られる現象で、 最近は1シーズン中、原作付きの中に必ず2、3つギャルゲーやエロゲーのタイトルが混じっているんですよね。 いくらオタク自体が一般化してきたといっても、どちらもリアルでは まだまだ公言するのに抵抗のある趣味です。特にエロゲーの方は日陰趣味だと断言しても反論する人はいないでしょう。 その辺の商品(作品)を取り巻く展開(CDやら関連グッズなどのメディアミックス込み)について、 夜の住人であるドラキュラが無理やり日向に晒されてアタフタしているかの如く、 場違いな雰囲気を感じて、ともすれば「アニメ化なんて実は(想定されているターゲットの)誰も望んでいないんじゃないか?」なんて思うことがあるのです。 日陰が居心地良い場合だってあるでしょうに。

 まあ、完全に個人の願望を語るなら、 私は少なからず作り手の良心って奴を信じているのです。本来は媒体には媒体なりの、ジャンルにはジャンルなりの必然性がある筈なんですよね。 映画ならではの醍醐味、小説だからこそできる描写などといった切り口と同じように、エロでゲームであるからこそ面白いといったような必然が。 アニメになるってことはエロが無くなっても作品が成立してしまうことを意味しているし、当然ゲームでもない。 となるとエロゲーであった必然性はもはや商業的理由以外に無くなってしまうわけで、 そのあまり身も蓋もない現実にハイルエロスキーでハイルゲームスキーなお兄さんとしては激しく萎えてしまうのです。 いや、「仕事だから作ってるんだ」よりは「エロゲーでしか表現できないものを追及してるんだ」 って姿勢の方がカッコ良いじゃないですか(口に出してみたら案外カッコ良くありませんでした)

09/04【イメージ】
 最近どこというでもなく「きもいオタク」なる表現を目にする機会が多く苦笑を誘われます。 オタクという生態系の定義が世間に初めて登場したのは私が小学校高学年の頃だったと思いましたが、その頃と比べればオタクの社会的地位は随分と向上したものです。 どの辺が?と問われれば、昔は「きもいオタク」なんてわざわざ断らなくても 「オタク」という言葉の中には十分に気持ち悪いというニュアンスが含まれていたのです。 人が歩み寄った結果なのか、文化(サブカル)が歩み寄って来た結果なのか、あるいはその両方なのか、 今でこそオタクという言葉の意味はある物事に対して深くハマっている人程度で、マニアやらフェチやらと 明確な使い分けもなく、ともすれば人が誰でも持っている一部分だと開き直ることも容易ですが、 当時は特に大人に成長する段階で捨てるべきだとされていた嗜好を 捨てられない人間に対する風当たりが強く、 また世間が抱いていたそういう人間の抽象的な像が 今でいう所謂「きもいオタク」の典型、つまり完全に変態扱いでしたので、 属するコミュニティ内でそれと公言することは相当リスキーなことでした。 ちなみにオタクの語源は、タレントの名前から取ったものでも 「お宅=インドア」な趣味を持っているからという意味でもなく、 単に会話相手を「おたくは〜」とか「おたくって」などと呼びそうだ、ということから だったと記憶しています。根本からして偏見だったのです。

 でも結局、単純な話なんですよね。 共通した要素を持ち合わせた集合体となれば、共通項目以外は様々な個性があって当然で、 しかし(故意であるかは知りませんが)偏狭な視点でその中の際立って目立った例を持って集合体全体をレッテル貼りしたのが 語源的なオタクであり、ある程度の時間がそれを風化させたと。 まあ、とはいえ私などは今だに自虐プレー以外で自らオタクと名乗る気は起きませんけどね。

09/01【弱い者達が夕暮れさらに弱い者を叩く】
 うーみゅ。8/29の日記は友人で集まった飲み会の席で久しぶりに口論になった挙句、ひとり帰りの電車に揺られていたら 「もしかして、私は誰にも通じないような宇宙人思考と宇宙人言語で喋っているのかもしれない」 と不安に駆らて、居た堪れなくなって「誰か私を肯定してー」っと相手の反論できない場所でぶちかました卑怯とも言える内容なので、そういう背景上、見直すと とてつもなく恥ずかしい思いがするのですが、まあ、上げちゃったものは仕方無いので残しておきます。 何せその場では、自分なりの根拠を持って正しい意見を述べたつもりだったけど 気が付けば日頃から胸に蓄積されていた何かがスッとして消えてしまったのも事実なので激しく自己嫌悪です。 とにかく今後、酒の席での口論と説教は極力止めようと思います。思うだけですが。

 そもそも私は悲観主義なのです。以前も書きましたが、全ての人間と話せば解かり合えるとは思っていません。 つか、話せば解かるだろうと予測できる人間にしか伝えようという努力をしません。 明日地球が滅びるとして、それを告知することはどれ程有用でしょう? もしくは、ずーっと斜めに傾いた家に住んでいるんだけど基本的には不自由を感じていない者に、 「その家おかしいですよ」と指摘することはどれ程有用でしょうか? 知ってもどうしようもないことと、知ってもどうもする気がないことを、 自分の認識から考えると正しいと思われるという理由だけで、いたずらに指摘することは (形だけでも)平穏に暮らしている者を混乱させるだけでメリットが無いと思うんですよね、何せ事体は転がらないわけですから。 今回、私が無粋なことをしてしまったなーと感じているのは、おかしいと指摘すれば何らか考え行動する相手だと勘違いしていたことで、 その状況を変える気はなくて、ただ「僕ってこんなに苦労してるんです」みたいな主張がしたかっただけだと初めから気付いていれば 適当にネタにして弄くって「はい、楽しい飲み会でしたね、終ー了ー」でよかったんです。 それがサービス精神ってもんでしょう。空気読めなくてゴメンなさい。


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