ここでは、本年1月、読売新聞福島県版に紹介された「魂のバトンー古関裕而」を紹介しましょう。古関裕而さんの精神を受け継いで、古関さんの精神をひたすら継承していることが紹介されています。やや面はゆいのですが、古関研究の一助になればと思います。
魂のバトン 高校教諭 齋藤秀隆さん
「先生、また古関ですか?」――。「栄冠は君に輝く」などの作品で知られる作曲家・古関裕而の研究を続ける福島東稜高の国語教諭斎藤秀隆さん(62)は、授業で古関について触れた文章を紹介しようとして、生徒からあきれられたことがある。「好きなことを追求することのすばらしさを伝えたかったんだけど、しつこかったかな」
斎藤さんが古関の研究に本格的に取り組むようになったのは、母校の福島商業高(福商)で教べんをとり、同窓会事務局長も務めていた八年前。創立百周年記念誌の編集を任されたのがきっかけだった。「母校の大先輩のことにはページを割かなければ」と、唯一の資料である自伝をもとに、高校時代のエピソードを加えるつもりでいたが、「彼は国語の授業中にも音楽に関する質問をして、いつの間にか先生と音楽談義に花を咲かせていた」と、八十歳を超える元同級生が語る古関少年の姿に引きつけられていく。しだいに取材にのめり込み、自身にとってのライフワークになっていった。 (写真 古関の楽譜を手に、伝記執筆の過程を振り返る齋藤秀隆さん)
「古関君は二十歳の時、ロンドンの楽譜出版社が募集した国際作曲コンクールで二等に入選したんだよ」。自伝にも書かれていない話をしてくれたのは、東京に訪ねた元同級生だった。「事実なら大変なことだ。形に残っていないのか」。当時の資料を求め、取材対象をさらに広げた。福商時代の恩師の息子を探し当て、約六十点もの資料を借り受けると、自宅で一つ一つ点検。七十年近く前の地元新聞の記事や、恩師に入選を知らせる古関自筆の手紙を見つけたときには、思わず身震いしたという。
多くの人に会ううちに、ほかにも興味深い逸話に行き当たった。新聞報道を読んでファンレターを送り、後に妻となった女性との「行李(こうり)二箱分の」文通と、「駆け落ちに近い」結婚。「市内で音楽会があるたびに足を運び、聴いた曲の編曲に独学で挑戦していた」努力は、のちにコンクール入選につながった。音楽にしても、恋愛にしても好きなことを徹底することで道を切り開いていった古関。いつの間にか「その生き方すべてを知りたい」と思うようになり、家族に頼み込んで原稿用紙五、六十枚に及ぶ悼想録狽書いてもらったこともあった。
記念誌の一項目に過ぎなかったはずの古関研究は、三年がかりで一冊の本にまとめられ、「古関裕而物語」として出版された。その後、眼病に悩まされながら計五十時間のパソコン講習に通い続け、ホームページ(HP)「古関裕而―歌い継がれるメロディー」も開設。HPへの書き込みを通じて知り合った仲間と、古関の曲を歌い継ぐ児童合唱団が東京で開くコンサートに一緒に出かけたこともある。古関の生き方にほれ込み、とことん研究したことで、斎藤さんもまた、大きく道を広げた。(宍戸雄一郎)
■古関裕而■ 本名、古関勇治。一九〇九年、福島市大町生まれ。福島商業学校(現福島商業高校)卒業後、川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)勤務を経て、レコード会社日本コロムビア専属作曲家に。
銀行勤務時代の一九二九年、舞踊組曲「竹取物語」ほか四曲が、英国・チェスター楽譜出版社募集の国際作曲コンクールで二等に入選。その後、全国高校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」や歌謡曲「長崎の鐘」、ラジオドラマ「君の名は」の主題歌、東京五輪の行進曲「オリンピック・マーチ」など、幅広い分野で、歴史に残る名曲を残した。全国の学校の校歌や応援歌も多数手がけ、生涯作曲総数は五千曲に及ぶ。昨年優勝した阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」も作曲。
一九六九年に紫綬褒章、一九七九年には勲三等瑞宝章を受章。一九八九年、八十歳で死去。福島市名誉市民第一号。
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