出版物の紹介  

出版物の紹介

「古関裕而物語」紹介もくじ本文「古関裕而略年譜」紹介本文より抜粋作品名長崎の鐘


古関裕而物語   ▲トップへ
古関裕而物語

昭和音楽史上に燦然と輝く作曲家
古関裕而物語−こせきゆうじものがたり−

2000年7月7日初版発行
2000年11月11日第2刷発行
著 者−齋藤秀隆
発行者−阿部隆一
発行所−歴史春秋出版株式会社

四六判 272ページ
ISBN4-89757-408-0

定価:本体1,800円+税

購入につきましてはリンク集「出版社・本販売サイト」をご参照下さい。


もくじ   ▲トップへ
福島の呉服屋に生まれて
楽しかった福商時代
同級生から見た裕而
童話作家としてデビュー
『赤い鳥』と音楽ノート
福商卒業後は音楽浪人
福島ハーモニカ・ソサエティー
伯父の口利きで銀行員生活
川俣時代の裕而
舞踊組曲「竹取物語」の入選(ロンドン)
雅楽を取り入れた「竹取物語」
「竹取物語」が結ぶ恋
全国に紹介された「福商青春歌」
琴線に触れる歌を!
コロムビア入社と野球応援歌
「荷物片手に」
初のレコード「福島行進曲」「福島小夜曲」
ワセダの「紺碧の空」は二十二歳の作曲
古関メロディーに流れるヒューマニズム
処世訓話と「暁に祈る」
幻の楽譜と「若鷲の歌」
父母の逝去と報道派遣
修錬隊歌作曲と古関の兵役
飯坂町への疎開と温泉楽団
国民に夢を与えた古関メロディー
母校火災復興のために大きな尽力

「二十歳の扉」と「コロムビア音楽会」
永井隆博士との親交
東邦銀行行歌と素人歌手選手権
福島市茂庭と「さくらんぼ大将」
「君の名は」と菊田一夫
心に残る校歌・応援歌の作曲
一世一代のオリンピック・マーチ
「阿武隈の歌」と「わらじ音頭」
古関の音楽開眼と遠藤喜美治
歌碑と色紙と
古関ゆかりの二本松・白河・川俣
名誉市民推戴と「福島を想う」
古関金子との別れ
古関裕而記念館オープン
日本有数の古関裕而記念館
先輩と学友たち
音羽ゆりかご会と古関
「父を語る 母を語る」
優しかった父裕而
同窓生と古関メロディー
作曲家生活にピリオド
新たなる古関メロディーの創造
今に受け継ぐ
古関音楽の平和への祈り
古関裕而略年譜
『古関裕而物語』索引


古関裕而年譜   ▲トップへ
明治42年   8月11日 福島市大町に生まれる。生家は呉服屋「喜多三」。
大正3年 5歳 このころ父親が蓄音機を購入。レコードを聴く。
大正5年 7歳 福島県師範附属小学校入学。
大正7年 9歳 小学3年から6年まで担任遠藤喜美治先生に唱歌とつづり方を習う。
大正8年 10歳 卓上ピアノで作曲を始める。
大正11年 13歳 福島商業学校入学。このころ「喜多三」廃業。妹尾楽譜により本格的な作曲・編曲を始める。
大正12年 14歳 福島ハーモニカ・ソサエティーに入る。このころ関東大震災をテーマに「大地の反逆」作曲。
大正13年 15歳 福島市新町70番地に転居。
昭和2年 18歳 ペンネームを「裕而」とつける。
昭和3年 19歳 福島商業学校卒業後、川俣銀行に勤務。福島ハーモニカ・ソサエティーとともに仙台中央放送局記念番組に出演。
昭和4年 20歳 舞踏組曲「竹取物語」ほか4曲をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版者募集の作曲コンクールに応募し、二等に入選。
昭和5年 21歳 6月1日 内山金子と結婚。
昭和6年 22歳 最初のレコード「福島行進曲」と「福島小夜曲」発売。早大応援歌「紺碧の空」作曲。
昭和10年 26歳 「船頭可愛や」初のヒット作となる。
昭和12年 28歳 「露営の歌」作曲。この年、菊田一夫と出会う。
昭和13年 29歳 中支従軍。
昭和15年 31歳 「暁に祈る」作曲。
昭和17年 33歳 南方慰問団派遣員となる。
昭和20年 36歳 約1ヵ月間軍隊生活を送る。
10月 NHK連続ラジオドラマ「山から来た男」で、終戦後初めて菊田一夫とコンビを組む。
昭和22年 38歳 7月 NHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」放送開始。(25年12月まで放送)
昭和23年 39歳 「栄冠は君に輝く」作曲。
昭和24年 40歳 「長崎の鐘」作曲。
昭和27年 43歳 4月 NHK連続ラジオドラマ「君の名は」放送開始。(29年4月まで放送)
昭和28年 44歳 NHK放送文化賞受賞。
昭和31年 47歳 「忘却の花びら」がNHK連続ラジオドラマの最後となり、この後は菊田一夫とともに舞台活動へと転進する。
昭和32年 48歳 日曜名作座開始。福商新校歌「若きこころ」作曲。
昭和39年 55歳 東京五輪において行進曲「オリンピック・マーチ」作曲。
昭和44年 60歳 紫綬褒章受章。
昭和47年 63歳 札幌冬季五輪において「純白の大地」作曲。
昭和48年 64歳 菊田一夫死去。芸術座公演「道頓堀」が名コンビの遺作となる。
昭和54年 70歳 福島市名誉市民となる。勲三等瑞宝章受章。レコード大賞特別賞受賞。
昭和55年 71歳 日劇にて作曲生活50周年記念ショー。
5月 自伝『鐘よ 鳴り響け』を主婦の友社より刊行。
7月 妻金子死去。
昭和61年 77歳 30年間音楽を担当したNHKラジオ「日曜名作座」を健康上の理由で降り、作曲生活から引退。
昭和62年 78歳 森繁久彌、加藤道子とともに「日曜名作座」を3人で30年間続けた業績に対し、放送文化基金個人部門賞受賞。
昭和63年 79歳 9月 画集『風景の調べ』を自費出版。
11月 福島市古関裕而記念館開館。(福島市入江町1−1)
平成元年 80歳 8月18日逝去。
    (以上古関裕而著『鐘よ 鳴り響け』主婦の友社刊を参考に、一部加筆いたしました。)


本文より抜粋 ここでは「古関裕而物語」の一部を紹介させていただきます。  
本文より作品名抜粋   ▲トップへ
【あ】
「愛国の花」
「会津高校校歌」
「暁に祈る」
「新しき朝の」
「阿武隈に立ちて」
「飯坂小学校校歌」
「イヨマンテの夜」
「栄冠は君に輝く」
「大阪タイガースの歌」(六甲おろし)
「オリンピック・マーチ」
【か】
「要田小学校校歌」
「鐘のなる丘」
「君の名は」
「巨人軍の歌」
「久遠の希望に」
「郡商青春歌」
「紺碧の空」

【さ】
「さくらんぼ大将」
「幸子の子守唄」
「白鳥の歌」
「船頭可愛や」

【た】
「竹取物語」
「タンゴ阿武隈の月」
「利根の舟唄」
「ドラゴンズの歌」
「とんがり帽子」
【な】
「長崎の鐘」
「日米野球行進曲」
「荷物片手に」

【は】
「福島音頭」
「福島高商校歌」
「福島行進曲」
「福島小唄」
「福島子供盆踊り」
「福島小夜曲」
「福島ブルース」
福商校歌「若きこころ」
「福商修錬隊歌」
「福商青春歌」
「平右エ門」

【ら】
「露営の歌」
【わ】
「若鷲の歌」
「わらじ音頭」
「我ぞ覇者」
 

本文より「長崎の鐘」の項抜粋   ▲トップへ

●なぐさめ はげまし
 昭和24年4月、歌謡曲「長崎の鐘」がコロムビアから発売された。作詩はサトウハチローで、当時ベストセラーとなった、永井隆著『長崎の鐘』や『この子を残して』などに感動してできた詩であった。この曲に感動した永井は、古関に手作りのロザリオとともに感謝の手紙を寄せた。
 「唯今、藤山さんの歌う、長崎の鐘の放送を聞きました。私たち浦上原子野の住人の心に ぴったりした曲であり、ほんとうになぐさめ、はげまし明るい希望を与えていただけました。作曲については、さぞご苦心がありましたでしょう。この曲によって全国の戦災荒野に生きよう伸びようと頑張っている同胞が、新しい元気をもって立ち上がりますよう祈ります」

●短歌「新しき朝の」作曲
 「長崎の鐘」発表後、古関と永井の親交は深まり手紙の往復が続く。古関自伝では『終戦記念日に、(博士は)マリア像を描き、短歌「新しき朝の光のさしそむるあれ野にひびけ長崎の鐘」他を添えた奉書の墨絵を送ってくれた』とある。
 古関は直ちにこの短歌に美しい曲をつけ、手紙とともに永井に送り届けた。その時の様子は、永井の古関宛の手紙によって書き残されている。
 『「新しき朝の」の作曲まことにありがとうございました。式場博士と池真理子さまたちの御一行は淡い月の光の中を大きな菊の花束をかかえて、バナナの茂る如己堂をお見舞い下さいました。あなたのお手紙と美しい楽譜とをお渡し下さいました。私はびっくりし恐縮いたしました。拙い歌にこんな美しい曲をつけて頂いたことは何というありがたいことでしよう。(略)私と同じ境遇の人々にきっと美しい慰めと励ましを与えるでしょう』

●天使の音楽を作曲
 『長崎の鐘』は昭和24年9月、松竹によって映画化された。グレゴリアン・チャントを数カ所用いたこの映画は、あふれるばかりの盛況を続け、永井は古関に心からの称賛を贈った。
 「すばらしい音楽で、涙をさそいました。録音機の傍らには目にこそ見えね、あの天使歌隊が勢ぞろいして歌っていたのではありますまいか?どうも人間の歌ばかりではない」
 かように古関音楽は、神に帰依する永井を深く感動させ、心を和ませ、生きる勇気を与えていた。古関はまさに天使の音楽を作ったと言えよう。

(永井博士の書簡は古関裕而記念館に展示中です)


Copyright (C) 2001 Hidetaka.Saito All Rights Reserved.