古関裕而とスポーツ歌

 

 


 

得意であった野球応援歌

古関裕而はスポーツに関する歌を多数作曲している。古関の作品一覧表を見ても、「紺碧の空」「我ぞ覇者」「光る青雲」「早慶賛歌」」「阪神タイガースの歌」「巨人軍の歌「栄冠は君に輝く」「スポーツ・ショー行進曲」「オリンピック・マーチ」「純白の大地」等々その数は多い。

古関はなぜこのようにスポーツ歌が多いのであろうか。彼は弱冠22歳の若さで、早稲田大学応援歌「紺碧の空」を作曲し、それが東京六大学のリーグ戦で歌い続けられ、しかもその応援歌の影響もあってか、早稲田が勝ち続けたことにあるようだ。

世間では、「紺碧の空」を手がけた男だからと、戦時歌謡や時局歌、ご当地ソング、スポーツ歌など、次々と依頼されたと古関は述懐している。

とにかく古関メロディーによる野球応援歌は数が多く、学生野球の他にも、「都市対抗野球の歌」は、戦前と戦後2回も作曲しており、また会社関係の社歌も「日本石油」「大昭和製紙」「日本新薬」「三重交通」などたくさん作り、これが夏の都市対抗野球大会で盛んに歌われている。敵味方同士で、古関メロディーを歌いあうという応援合戦が、各地で見られるとのことである。 (写真 古関メロディーの鳴り響く古関裕而記念館 福島民友新聞社提供)

 


 

「紺碧の空」

 ところで「紺碧の空」は、どのような経過を辿って作曲されたのであろうか。

 昭和初期の早慶戦は比較出来る様なスポーツが少なかったことから、全国的な人気を集めており、選手にも伊達、水原、三原、小川等野球殿堂入りの名選手が活躍していた。また早大の「都の西北」慶大の「若き血燃ゆる」等応援歌の応酬も全国ファンの血を湧かせていたが、早稲田の負けが多く、「若き血」の力強いリズムにどうしても遅れをとることから、新しい応援歌作成の機運が盛り上り、学内での歌詞募集に踏み切った。

 昭和6年4月に応募作品が集まり、選者は西條八十氏に依頼した。この花形作詞家は「これはいい詩だ。しかし作曲が難しいだろう。山田耕筰とか中山晋平といった大家に依頼しなくては駄目だよ」と応募原稿を部員達に手渡している。これが「紺碧の空」である。作者は当時の学生住治男で、彼もまた古関と同年であった。

 作詞者は決まったが問題は作曲者を誰にするかであった。ここで古関を強く推薦したのが歌手伊藤久男の従兄弟の伊藤戊(しげる)であった。伊藤は「兄貴の友達の古関君に賛成してくれよ。新人だから過去はないけど未来があるよ。国際コンクールの2位に入選したんだよ」と、熱心に説き廻り、難航の末作曲の依頼が決定した。

古関も「名誉な事です。ワセダの為にいい曲を作りましょう」と快諾したものの、応援歌の経験も浅く苦労したらしく、ピッタリしたリズムが仲々浮かばず、特に「覇者覇者ワセダ」の歌詞の旋律は何回も書き直したという。

 早大の発表会も目前に迫り、応援団幹部は連日古関宅を訪問し、発表会の3日前にやっと完成したが、「少し難し過ぎる」との批判もあったらしいが、歌っているうちに「これでいける」という事になり双方とも胸をなでおろしたとのこと。

 早大は伊達投手の3日間の連投によって栄冠を獲得し、「紺碧の空」は全国に広まった。当時のこの歌は、第6応援歌であったが、今では第1応援歌に格上げされ、その前に作られた5つの応援歌はいつのまにか消えてしまったようである。

 古関はその後、早稲田の応援歌を5〜6曲作ったと述べているが、戦後は早稲田の「光る青雲」などが有名である。これらの功績をたたえて、昭和51年には、早稲田大学大隈庭園内に「紺碧の空」記念碑が建立されている。(写真 「紺碧の空」歌碑)

 


 

「我ぞ覇者」

 この歌は慶応義塾大学の応援歌で、一人の作曲家に対決する両校の応援歌を頼むと言うことは奇妙なことではあるが、それだけ古関メロディーが優れているということの証でもあるようだ。

 戦争が終わって中断していた東京六大学の野球リーグ戦が復活した昭和21年、慶応の応援団員が古関家を訪問し、「ぜひ応援歌を作ってほしい」と頼み込んできたという。そこで「作ってもいいが先に『紺碧の空』を作っているので、早稲田の了解を取ってほしい」と言ったところ、学生は「すでに早稲田の了解は取ってあります」というので、早速この曲ができあがった。

 先に曲が出来、後で慶応出身の藤浦洸が作詞をはめ込み、21年の秋のリーグ戦から大いに歌われている。

 


 

「日米野球行進曲」

「紺碧の空」の作曲によって古関の名前は世間の注目することとなった昭和6年、読売新聞社から古関に「日米野球行進曲」の作曲依頼がなされた。この歌は、読売新聞社がアメリカのプロ野球選抜チームを招聘した時、試合を盛り上げようと作曲されたものである。

アメリカ野球選手たちは、フィラデルフィアのプロチームを主体とする当時の有名選手であったが、日本にはまだプロ野球チームが発足する前だったので、東京六大学の各チームと選抜混成チームが対戦した。

コロムビアでは早速歓迎の曲を、久米政雄作詞、古関裕而作曲で作成し、ここに「日米野球行進曲」が完成したのである。古関は日本で一つしかない交響楽団シンフォーニー・オーケストラを指揮して、当時日本随一の音楽の殿堂といわれた日比谷公会堂でその歓迎会が開かれている。

古関は当時を回顧して「叔父から燕尾服を借用したこの歓迎会は、好評を得て終了したが、叔父のエナメル・シューズが合わず足が痛んで困った。その後この曲が当時の音楽雑誌の特別付録としてスコアが添付された」述懐している。

 


 

「六甲おろし」と「闘魂こめて」

古関のプロ野球応援歌はどうであろうか。古関は「紺碧の空」を作曲して以来、これといったヒット曲もでず、鳴かず飛ばず状態であったが、昭和10年になってようやく「船頭可愛や」が大ヒットし、ようやく古関の名前は全国に知れ渡るようになった。

日本にプロ野球チームが結成されたのは昭和10年のことで、「日本職業野球連盟」といういかめしい名前のプロ野球連盟が発足した。大阪でも大阪野球倶楽部(大阪タイガース)が創設された。翌年、日本初のプロ野球の試合が行われた。

その昭和11年、大阪タイガースからコロムビアが球団歌制作を依頼され、ここに「大阪タイガースの歌」が誕生したのである。作詞は佐藤惣之助、作曲古関裕而、歌手は中野忠晴であった。その後昭和36年に球団名が「阪神タイガース」となり、この歌がタイガース・ファンの歌うところとなり、次第に世間に広まり、今やカラオケでも歌われるようになった「六甲おろし」である。この歌は、巨人軍の人気の高い関東・東北地方ではなじみは薄いが、関西地方では熱狂的な支持を得ている曲である。

昭和60年、阪神タイガースが21年ぶりに優勝し、このレコードは大ヒットとなり、40万枚売れたと言われている。

古関はまた昭和38年になって、巨人軍30周年を記念して読売新聞社と巨人軍が募集した歌詞(椿三平作詞・西條八十補作)の作曲を依頼され、「巨人軍の歌〜闘魂込めて〜」を発表している。この歌は日本中の野球ファンに歌われた。巨人阪神の伝統の一戦においては、いずれも古関作曲の応援歌「闘魂込めて」と「六甲おろし」が交互に歌われ、戦いに花を添えている。

 


 

「栄冠は君に輝く」

終戦まもなくの昭和23年、戦後の学制改革があり、戦前の「中等学校野球」は「高等学校野球」と名称変更となり、大会歌歌詞が公募された。加賀大介の歌詞に古関が曲をつけ、翌年から大会歌として制定され、以後50年以上もこの歌は高校野球大会の開会式、閉会式、試合の合間に必ず歌われている。

古関と私の母校である福島商業高等学校が、平成12年、春夏連続甲子園出場を果たし、夏の大会でこの「栄冠は君に輝く」と、昭和32年に古関によって作曲された校歌「若きこころ」を歌った時、感激のあまり胸が詰まった。

古関の子息正裕が、「父は母校をこよなく愛していましたので、母校野球部が甲子園に出場し、自分の作った校歌を歌われることを心待ちにしておりました」と述べていることもあり、古関もさぞかし大喜びであったろうと推測された。

 古関は特に甲子園に関しては強い思い入れがあるようだ。古関は次のように回顧する。

 「母校福島商業高校が今夏の全国高校野球大会に福島県代表として出場した。6回目である。ちょうど朝日新聞から、大会歌「栄冠は君に輝く」が作られて今年で30周年、それを記念して作詞者と作曲者である私が開会式に招待されたので当日甲子園に行った。定刻午前9時に選手の入場行進がはじまり、次ぎから次ぎと入場する各校選手団、やがて福島代表の母校の選手が私の前を通過するとき、思わず大きな拍手を送った。若々しい、はつらつとした後輩諸君の規律正しい堂々たる行進に嬉しくなった。入場が終わり、国旗が掲揚され、続いて大会旗が上ると大会歌の大合唱が起こった。一緒に見ていた作詞者と共に感激した。8月10日第2回戦に見事相手の九州産業を1対0の接戦で破り、はじめて母校の校歌が甲子園に響いた。テレビを見ていた私は唯々嬉しかった。20年前に私が作曲した校歌であり、また今まで度々の出場にも第1回戦で敗退していて一度も校歌を聞くことがなかったからである。」(昭和52年10月、日本教育新聞「わが師わが母校」)(写真 甲子園児憧れの「栄冠は君に輝く」。ジャケットより)

 


 

「スポーツ・ショー行進曲」

この曲は太平洋戦争が終わった後、NHKのスポーツ放送のテーマ音楽として作曲依頼されたものである。戦後になってNHKに「スポーツ・ショー」という番組が登場した。藤倉修一や志村正順などのスポーツアナウンサーが、実況放送やスポーツ解説を国民に放送したもので、そのオープニング・テーマ曲として藤倉から依頼された曲である。

古関裕而は「頼まれたのは昭和22年頃でした。藤倉君とは戦争中に福島の放送局で一緒になり親しくなりました。最初の放送の時、NHK交響楽団を使って演奏したのですが、番組のテーマ音楽にNHK交響楽団を使ったのは、これが初めてでした。誰の作曲か?スーザーの曲ではないか?などの問い合わせが、たくさんきたそうです。」と述懐している。

この歌は行進曲でもあり、各地の運動会でも数多く利用され、秋になると各地の運動会でしばしば聞かれた曲である。

 


 

「オリンピック・マーチ」

昭和3910月、東京でアジア最初のオリンピックが開催された。オリンピック組織委員会とNHKが共同でいくつかの曲を作ったが、そのメインとなったのが、古関作曲の「オリンピック・マーチ」である。

古関は「アジアで最初に開かれるオリンピックであり、日本的な旋律によるマーチを考えて、色々考えてみました。けれども雅楽、邦楽、民謡などどれをとってみても、日本的なメロディーはマーチに向かないのです。そこですべて白紙に戻しました。私自身のイメージで作りましたが、最後に君が代の一節を入れることで、日本で開催されるということをシンボライズさせようとしました。」と語っている。

古関のこの曲は、オリンピックの選手入場の時に初めて演奏され、そのあとまた日本選手団入場の時に、繰り返し演奏され、深い感動を与えた曲だと言われている。また閉会式でも演奏され、東京オリンピックは、この曲に始まってこの曲で終わっている。

その後このマーチは誰が作曲したのかとの問い合わせが世界各国から殺到し、古関の名前は一挙に知れ渡っている。またオリンピック以後このマーチは、全国各地の運動会等でも流され、この曲を知らない人は恐らくいないであろうと推測される。

この曲の曲想には、昭和4年にイギリスの楽譜出版社に応募した組曲「竹取物語」の構想がイメージされているとの思いが私には強い。その共通点は古関が「竹取物語」で解説していた、撥ねる音の多用である。

 


 

世紀を越えて

以上のように古関メロディーには、我々の知っているスポーツ歌が数多くある。これは古関音楽が、単なる流行歌の作曲家ではなく、何時までも歌い継がれる音楽の品位と格調の高さを保持していることを意味するものであろう。これらのスポーツ歌を取り上げても、古関音楽は、今後も世紀を越えて歌い継がれることであろうことが推察される。

 


参考文献

古関裕而著『鐘よ 鳴り響け』(主婦の友社)

コンパクト・ディスク「古関裕而全集」(日本コロムビア)

齋藤秀隆著『古関裕而物語』歴史春秋社


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