舞踊組曲「竹取物語」の入選

 


 

 

世界的な作曲家誕生 

 古関裕而が、昭和4(1921)年7月にイギリスに送った舞踊組曲「竹取物語」入選は 、古関の全生涯を瞬時に決定したとも言える。ところがこの事情に関しては新聞資料以外皆無であり、古関自伝『 鐘よ 鳴り響け』の中でもいっさい触れられていない。しかし当時の新聞では、福島県の生んだ野口英世に次ぐ世界的な作曲家としてセンセーショナルに紹介され、伝統と学歴を重視する日本音楽界では驚天動地の出来事としてとらえられていた。後年、山田耕筰の知遇を得て日本コロムビアに入社できたのも、まさしく本組曲がもたらしたものであり、奥さんとなる内山金子との出会いと結婚は「竹取物語」の取り持つ恋であったと言えよう。

 次に、当時の資料を基に「竹取物語」入選のニュースとその内容を紹介してみよう。(写真 入選を伝える福島民報新聞)

 


 

丹治嘉市への手紙 

 古関は「竹取物語」入選の知らせを、母校福商の最も信頼していた教師丹治嘉市に最初に報告している。

 昭和4年12月8日の、古関から丹治にあてた一通の手紙の中で入選の喜びを次のように述べている。

  先生 本当に御無沙汰致しました。お謝し下さい。(中略)

 先生も御承知の通り、私もいよいよ今度、本当に音楽家になる為、明年二月末渡英致します。

 英、ロンドンの楽譜出版社J.W.CHESTER.LTDで発行してる音楽雑誌CHESTERIANを、昨年一月より買って読んで居ましたが、本年三月号に全世界より、管絃楽作品の懸賞募集がありましたので私も、作品中より、五曲程で応募致しました。幸に、二等に五曲共入賞致し、その五曲は、右出版社よりMiniature Scoreとして出版さるる事となり、なお、同出版社の経営になるINTERNATIONAL MUSICAL COMPOSERS ASSOCIATIONの会員に入る事が出来ました。

 作曲家協会の組織は、会員相互に教授し合う様になって居て、右協会のプレシデントは現代音楽の雄IGOR STRAWINSKYです。会員には独乙のシュトラウス、オーストリヤのシェーンベルヒ、仏のラヴエル、オスガー、ミロー、英のグーセンス、バッタス等、現代音楽の一流の作曲家が入って居ます。日本では、山田耕筰だけです。これ等の名作曲家に教えを願う事が出来る私は非常な幸福です。

 協会からは既に旅費、及びその他の費用として、£四〇〇の金が送金されて来ました。今は、私は行くばかりです。

 なお、英国に行く事に付いて便利な事に、私の従兄、大島俊一が、英大使館の秘書官補としてロンドンに居ます。

 それで遂いに行く事に決したのです。家の両親も喜んで、ゆるしてくれました。先生、お喜び下さい。

 なおうれしい事に、私の入選曲中、随一の舞踊音楽『竹取物語』が英国コロムビヤ・レコードに明年七月頃、グーセンス指揮で、ロンドン・フィル・ハルモニック・ソサィティが、入れてくれる契約になりました。十二吋両面四枚続き。

 今、私は非常に多忙です。仏語と、露語を勉強してます。渡英する時は、シベリヤ経由で行きます。

 今「第三ピアノ・コンッエルト」と音詩「仏」(ほとけ)を作曲中です。行く迄にはなお数曲作らねばなりません。

 今度の渡英は、他人に絶対秘密であることを、お承知下さい。先生も、何卒ぞ秘密をお守り下さる様。ごく親しい友達の外は何人も知りません。登っちやん(橘登)さえ知らないのですから。

 どうぞお願い致します。

 明年一月帰福致します。その節、御ゆっくり御じゃまに上ります。今迄の御無沙汰は、一重におゆるし下さい。

 川俣の方は誰も知ってません。銀行には毎日真面目くさって行ってます。夜は作曲と語学の勉強で……。

 ストラビンスキーから仏語で手紙が来てますが良くよめません。先生に翻訳をお願い致したいのですが?(タイプライターで打ってあります。)

 多忙な中を書いたので、こんな乱雑になりました。おゆるし下さい。何卒、秘密をお守り下さる様。校長先生、坂内先生、諸先生によろしく。

ではまた、その中に。乱筆多謝

 川俣町川俣銀行内                                    古関裕而より

 


 

世界的に認められた! 

 当時の福島民友新聞(昭和5年1月23日)では次のような大きな見出しで、古関の快挙を称えている。

 世界的に認められた!

  一無名青年の曲

 一流音楽家に互して二等当選

  福島市の古関裕而君   

    埋もれていた世界的作曲家が福島市から現れ出で郷党人を驚かした。

 右は喜多三呉服店主古関三郎治氏長男裕而君(二十二歳)という目下川俣銀行に勤務している一介の青年で、同君は昨年十月英国ロンドン市のチェスター楽譜出版社で募集した作曲に「竹取物語」外三曲を応募したところ、世界中の一流作曲家を凌いで美事第二等に当選し、大作曲家連を顔色なからしめ賞金四千円を目下ロンドンにいる日本大使館書記官で同君に従兄に当たる大島俊一郎氏の手を経て渡されたが同君はこの栄誉を何故か今日まで厳秘にしていたものである (以下略)

 


 

日本中に報道された「竹取物語」入選

 昭和5(1930)年1月23日の福島民友新聞は、前回紹介した懸賞作品入選報道に続いて、古関の父三郎治と福商の国語科教師坂内萬にインタビューをしている。父は「初耳です」と語り、坂内は「口止めされていたのですが」と前置きしてそれぞれ次のように述べている。

 

ーへヽーそれは全く初耳ですー

  「勇治は大の変わり者で学校にいた頃からハーモニカばかり吹いていたので私もたびたび意見しましたがとうとう止めませんでした。勇治の作曲がロンドンで当選したということは初耳で、応募したことさえ知りませんでした。勇治からなんの話もありません。時々勇治宛に外国から書簡が来ましたが、横文字のことですから何が何やら判りませんでした」(三郎治談)

 

ー固く口どめされていたー

  「作曲は福商三年ごろからやっていたと聞きました。四年の時に音楽家評伝を書いたので私は窃かに、その音楽的才能を認めたわけです。昭和三年の本校創立記念日に、同君が作曲した御大典行進曲を、福島ハーモニカソサイティーを指揮して発表し好評を拍しました。この話も今迄かくしていた位です。何しろ世界的作曲家を出したのですから本校としても誇りを感じるわけです」(坂内談)

 


 

心を重ねた独学

 ところで当時の古関はどのような音楽修行をしていたのだろうか。古関本人による「作曲者自伝」(「ビクター」1930年7月号)では、音楽理論をはじめとするもろもろの独学の状況が次のように語られている。

 

 《古関裕而(本名・勇治)、今年二十二才(数え)。福島商業一年生の終わりの頃からハーモニカ合奏曲の編曲を始めて、和声学と対位法の練習を行った。この合奏編曲が今どれだけオーケストラ作曲に役立っているか解らない。自分の勉強は殆ど独習なので随分苦しんだ。音楽理論と和声学の本は山田耕筰氏の『音楽理論』(講義録)『近世和声学講話』が一番役立った。今はシェーンベルヒの『和声学』で勉強しております。

 オーケストラの知識は本とビクターのレコードに依った。レコードの紙袋にカルーソーやファラー等の絵が書いてあったのを切抜いて、部屋に張付けたものだ。器楽法及び編成法は大部分ベルリオーズのA Treatise on Modern Instrumentation and Orchestrationの英訳本、翻訳者はMary Cowden Clarkeに拠る。その後伊庭孝氏の『管絃楽法』及び瀬戸口藤吉氏の『管絃楽器の取扱法』で語学上の不備を補った。最初にオーケストラを作曲始めたのは商業学校三年頃で、現在に到る迄のオーケストラ作品は第一から第三迄の交響楽、ヴイオロンーセロのコンツェルト、五台のピアノの為のピアノ・コンツェルト、一茶の句に依る小品童曲八曲、和歌を主題とせる交響楽短詩、舞踊詩「線香花火」舞踊組曲「竹取物語」。「一九三〇年行進曲」交響楽詩「ダイナミック・モーター」「寂光院」「漁村の秋」等。オーケストラ伴奏の歌曲は、関屋敏子嬢に捧ぐる北原白秋氏作詩の「狂念」(未完成)及び荻野綾子氏に捧げた本田青華氏歌の「夕立雲」その他がある。絃楽物では、二つ程四重奏。器楽物ではカンディンスキーの絵に依る「抒情的なる物」。小学唱歌「故郷の空」変奏曲、其他。

 前記作品の過半は川俣町で作曲したものです》(写真「ビクター」1930年7月号)

 

 


 

 

竹取物語作曲の動機と構成

 ところで「竹取物語」の内容構成は、資料不明で今まで全くわからなかったが、前記「ビクター」でその概略が把握できた。

 《福島商業学校五年生の時より始めて昨年五月完成。

 作曲の動機。五年程前レコードでストラビンスキーの『火の鳥』の組曲を聞いて、それからヒントを得、我国に存在する古代物語中最古の、有名な『竹取物語』(かぐや姫)に取材した。昨年英国の音楽雑誌で、協会の募集広告を見て、丁度完成して居たこの曲を応募した処、幸にもこの曲が当選したとの通知に接したのです。

 この舞踊組曲は一つの前奏曲と八つ舞曲より成立ってます。

(一)生立ち(二)つまどひ(三)仏の御石の鉢(四)蓬莱の玉の枝(五)火鼠の裘(かわごろも)(六)龍の首の珠(七)つばくらめの子安貝(八)天の羽衣

 オーケストラ編成は各舞踊ごとにその編成を異にして、その各部分の持つ気分を特に表わそうとしました。殊に、六番目の「龍の首の珠」のシーンは、全部打楽器と、弾(はじ)いて発音する楽器とで編成しました。一つも音を長く引く楽器を用いませんでした。曲は主として、我国の雅楽に似せて作り平安朝時代の美しさを出した。 》


 

 

渡英断念と楽譜の行方

 以上が「竹取物語」の本人解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子(きんこ)との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕談)留学を断念した。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、イギリス留学を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化する。

 後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜は現在のところ不明となっている。今後の調査を待ちたい。

 


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