世紀のプリマドンナ
三浦環(たまき・1884〜1946)は、日本の生んだ最初の国際的オペラ歌手である。彼女は明治37年、東京音楽学校を卒業した後、アメリカやヨーロッパに留学し、プッチーニの「蝶々夫人」の主役を演じて、その公演は2千回を越え、プッチーニからも理想的な「蝶々夫人」と絶賛を受け、世界的に名を馳せていた。
三浦環は明治17年、公証人柴田孟甫の長女として東京で生まれた。父が芸事を好んだこともあり、3歳の時から日本舞踊を習い、これが後年の蝶々夫人の演技に役立っている。東京音楽学校ではピアノを滝廉太郎に学んだものの、声楽は本格的な教師がおらず、自分で工夫したと言われる。
環は音楽学校を卒業してから研究科に進み、山田耕筰などを教え、明治40年には助教授になったが、音楽に生きることを決心し、夫とともにドイツに留学し、オペラの才能を認められ、以後オペラ「蝶々夫人」とともに昭和5年までの16年間世界で活躍した。昭和6年、日本に帰国した環は、国内での演奏活動に従事し、多くの感動を与えたが、第2次世界大戦が始まるとその上演は禁止され昭和21年63歳で逝去している。
三浦の歌は、音程は確かではあったが、声量が少なかった。しかし、演技力と舞台での魅力があったという。
平間文寿と三浦環
藤原義江とともに創成期の日本オペラ界で活躍した、福島市置賜町出身の平間文寿は、初めて三浦の演奏会を聴いた時の感動を次のように述べている。
「環さんはベルカント(注)そのものであった。聴衆たちは、いまだかつて与えられたこともない、あの素晴らしい歌唱に接して、すっかり熱狂してしまい、会が果てた後も、皆我を忘れて、彼女の自動車を取り巻いて拍手を続け、動こうともしなかった。私も類もまれな彼女の芸術に接し、驚愕し、興奮し、うち砕かれて、呆然として、なす術さえも知らなかった。」(平間文寿著『歌の渚』以下同じ)と最大級の賛辞で褒め称えた。
その後直ちに平間は面会を求め、運良く環に会うことができ、彼女の前で歌唱を披露した。環は「始終微笑を湛えて、私の歌唱に満足な意を示しながら」すぐにイタリアへの紹介の手紙を書いてくれた。そして平間は環の印象を、「あれだけの成功を勝ち得ながら、少しの衒(てら)いや気取りのない、人なつっこいプリマドンナ」と表現し、すっかり魅了されていった。
私は思った。彼女ほど優れた技巧を把握し、曲の神髄に触れ得た歌手が、かつても今も、我が国にいただろうかと。」とまで言い切っている。
また平間は、環と3度ステージを共にしていた。そのうち2回は二重唱を歌うという「得難き好機と光栄を得て、私の感激はすくないものではなかった」と述懐している。三浦の死後、平間は次のような哀悼歌をつくり、三浦の死を悼んだ。(写真 三浦環『世界伝記大事典5』より転載)
聴くごとに新たなる泪とめあえぬ環の蝶々空しきかはや
滾(たぎ)り立ち求めてやまぬ君なれば臥してなほ譜は読み継ぎしといふ
(注) ベルカントとは、イタリア語で美しい歌(唱)の意で、劇的な表現やロマン的な抒情よりも声音そのものの美しさ、流麗な表現に主眼をおく。その発声の自然な美しさなどは、声楽技法の理想的な一つの典型とされている。(『万有百科大事典:音楽・演劇』)
古関と三浦
古関と三浦はどのような接点があったのであろうか。古関自伝『鐘よ 鳴り響け』では次のように回顧している。
『船頭可愛や』が大流行していた頃、ヨーロッパで「お蝶夫人」上演などで活躍していた三浦環女史が帰国された。(三浦さんは)コロムビア専属声楽家なので、コロムビア主催のレセプションが盛大に開催された。
たまたま、ビクターからコロムビアに入社して間もない西條条八十氏が出席し、三浦女史と盛んに話しておられた。やがて三浦女史のスピーチになった時、その終わり頃に彼女はこんなことを言った。
「実は私、今まで西條先生を女性の詩人で、西条ハナさんだとばかり思っていましたの!」
これには参会者一同大爆笑。さすが高名な西條先生も苦笑しておられた。飾らぬ率直な三浦女史の一面が感じられた。
三浦の歌った古関メロディー
その後女史は、偶然「船頭可愛や」を聞いて、「これは素晴らしい。ぜひ私も歌ってレコードに入れたい」との申し込みがあり、私は驚くと同時に欣喜雀躍。さっそくその吹き込みに立ち合った。
美声の上に、エキスプレッションの巧妙なことは、さすがに世界的歌手だと思った。
これは、勿論青盤レコードになった。当時コロムビアでは、外国の著名な芸術家のレコードのみ青いラベルを貼り、青盤レコードと呼んでいた。日本人の青盤芸術家は、ごくわずかであった。
その後私は、三浦女史に「月のバルカローラ」という、コロラチュラ・ソプラノにふさわしい歌を作曲して献呈したところ、これも女史が吹き込んでレコードになった。
私の青盤レコードは二枚のみだが、その頃コロムピア芸術家としては最高の名誉であった。(写真 品川の妙国寺にある「船頭可愛や」歌碑 歌手音丸直筆)
相撲観戦
三浦環さんと言えばこんな思い出がある。ある日、エドワード氏が、
「古関さん、国技館の相撲の切符が二枚あります。奥様とどうぞ。三浦環さんもいらっしゃいます」と枡席の切符を二枚くれた。妻は少女時代から環さんのファンで、彼女自身声楽の勉強もしていたので大喜びであった。
さて当日行ってみると、環女史が巨体の上、弟子のEさんも肥っているので大変であった。遅れて、当時のバスの歌手下八川圭祐氏が来られたので、私は仕方なく妻を自分のひざの上に乗せて観戦していた。すると環女史はしきりに振り返って、チラリチラリ私たち夫婦を気にして見る。妻はその視線を気にしていたが、私は夢中で取り組みを観ていた。
妻は今でもその時のことを思い出して言う。
「あの時の環さんの表情、羨望とも嫉妬ともつかぬ妙な顔でチラリチラリ、いつまでも心が若いのね。やはり大芸術家は違うわねェ。あの時、環さんはみんなにお寿司をご馳走してくださったわ。今は環さんも亡くなられたし、Eさんは緑内障で盲人になり、草津の療養所にいらっしゃるんですもの。少しずつ時は移り変わっているんですね」(以上古関自伝『鐘よ 鳴り響け』主婦の友社刊)
「月のバルカロール」のこと
三浦の歌った「月のバルカロール」とはどのような歌曲であろうか。コロムビアの古関裕而全集等で紹介しよう。
月のバルカロール 服部竜太郎作詩/奥山貞吉浦曲
月影青い 海の夜
渚のほとりに 佇(たたず)めば
袂(たもと)を払う 南風
寄せては返す 波の音
汐のかおりに 衣さえぬれて
喜びにいざ 讃うるは海の歌
風に寄する歌声は
歌声はひろがりて はてしもなく
時雨(しぐれ)たあとの 月影は
光もひときわ 冴えわたり
小波(さざなみ)砕けて 光る岩
たまさか躍る 白い魚
彼の楫音(かじおと)に 遠音にひびく
喜びにいざ 讃うるは夜の歌
夜空わたる歌声は
歌声はひろがりて はてしもなく (3分34秒)
「月のバルカロール」解説
「船頭可愛いや」を三浦環が吹込んでくれたのに感激、作曲者は三浦女史にコロラチュラ・ソプラノにふさわしい「月のバルカロール」を作曲、献呈した。古関裕而の2枚日の青盤として昭和14年9月8日吹込み、12月15日発売された。その後タイトルが「月のバルカローラ」と改められている。昭和55年、作曲者の作曲家生活50周年記念のLP3枚組の全集が編まれたが、そこでこの曲を斉藤昌子が見事に復唱した。バルカローラはイタリア語で「船唄」の意で、もとはベェネツィアのゴンドラを漕ぐ船頭が漕ぎながら歌う船歌から出たことば。曲はゆっくりしたテンポの六拍子や十二拍子が使われ、舟が波にゆられる感じを表している。また伴奏部には、単調なリズムの分散和音がよく使われている。(日本コロムビア株式会社 「コンパクト・ディスク・古関裕而全集」)
参考文献
古関自伝『鐘よ 鳴り響け』主婦の友社刊
日本コロムビア株式会社 「コンパクト・ディスク・古関裕而全集」
平間文寿著『歌の渚』