歌手 霧島昇の生涯

 

 


 

 

 

霧島はいわき市出身(文中敬称略)

福島県人会全員によって歌い継がれている「ああ誰か故郷を想わざる」は、霧島昇(本名坂本栄吾)のヒット曲である。霧島は大正三(一九一三)年六月二十七日、双葉郡大久村(現いわき市大久町)の農業坂本栄三郎、ツル夫妻の三男として生まれ、十一才で父を亡くしながらも苦労して大歌手となった人物である。

「いわきの人物誌」によると、霧島は小学校を卒業すると間もなく上京、家からの仕送りは望むべくもなく、苦学生として安田保善学校に入学した。しかし彼は体格も良く、腕力にも自信があったので、プロボクサーを目指した時代もあったという。しかし歌手への夢を捨てきれず、東洋音楽学校(現東京音楽大学)に入学。新聞配達やタクシーの助手などをしながら、ひたすら勉強に打ち込んでいた。

その時代の彼に一つのエピソードがある。当時、電車賃も思うようにならなかったので、下宿していた下谷から雑司ケ谷の学校まで約七キロの道を歩いて通学、しかし大切な靴が通学で傷むので、学校近くの雑司ケ谷墓地に隠しておき、途中は下駄で通い、そこで履き代えたという。(写真 霧島昇)

 

 


 

 

コロムビア専属へ

 霧島はふとした縁で、浅草の軽演劇などを上演していた帝京座の幕間に歌をうたい、その日その日を暮らすという貧しい生活を続ける。またこれもアルバイトのエジソン・レコードに吹き込んだ「僕の思い出」がきっかけとなり、その曲を耳にした、当時のコロムビア文芸部長村松武重の誘いで、コロムビアレコードに入社し憧れの専属歌手となったのが昭和十一年である。翌年、「赤城しぐれ」でその甘いソフトな歌声で世間の注目を浴び、このレコードが大ヒットとなった。

 


 

 

五百万枚の大ヒット

昭和十三年は霧島の運命を変えた年である。松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、上野音楽学校(現東京芸術大学)出身の当時既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操・小樽市出身)とコンビで発表。これが大人気となり、「愛染夜曲」「愛染草紙」の三部作で、レコード売り上げ五百万枚を突破するという、レコード史上最高の売り上げを記録した。このようにして霧島は、あっという間にスターの階段を上り詰めた。さらに幸運なことに、この歌の縁でミス・コロムビアと結婚、作曲家の大御所山田耕作の媒酌で新しい生活に入った。

この結婚について、郡山市在住の詩人内海久二は面白いエピソードを披露した。

《霧島さんがある時、音大で教授をしている息子さんに「ボクとお母さんとの結婚式の時、君もいたんだヨ」と言ったら、息子さんは大変喜んでいたといっていました。また「誰か故郷を想わざる」を歌っていた時、西條八十先生が霧島さんに、「君にはふる里があっていいネ」といったそうです。東京出身の方には故郷はないのですから。

霧島さんはボクシングの四回戦ボーイでして、アゴを引いて直立不動の姿勢で歌うのは、その時代の癖が影響しているのではないでしょうか。》

その後も霧島はたて続けにヒットを重ね、コロムビアのドル箱と異名をとるに至った。

 

 


 

 

「若鷲の歌」のことー古関裕而

 霧島とコンビを組んで名曲を発表していた古関裕而は、次のように回顧する。

 霧島君には数多くの歌を作曲したが、その中で一番ヒットしたのは、なんといっても「若鷲の歌」ではないだろうか。昭和十八年に、西條八十先生の詩に曲をつけたわけだが、霞ヶ浦にあった土浦の海軍航空隊より委嘱を受け、東宝映画の主題歌になり、全国に歌われた。

当時霧島君は海軍に入っており、吹き込みの仕事がある度に、特に海軍省から外出の許可を貰って東京に出てきた。この曲を作る前に、西條先生と二人して土浦に行き、総員起こしから、深夜の就寝まで見て企画を練った。西條先生の作詩はすぐ出来たが、作曲はなかなかまとまらず、ついに土浦に行く前まで出来上がらなかった。土浦の行く汽車の中で出来上がったわけだか、その中の一曲を全隊のほとんどが気に入ってくれ「よかれん」の愛称を得、ものすごいヒットで全国の人々に歌われた。(この部分、コロムビア・レコード・ジャケットより転載)

 

 


 

 

戦後の活躍

戦後は「胸の振子」や「サムサンデーモーニング」など新しい分野の曲も歌い、さらに外国の曲を原語で歌うことにも挑戦した。霧島は「自分は不器用だから人の何倍もの努力が必要です。」が持論で、常にレッスンを怠ることなく、舞台のない日でも朝起きてから深夜にいたるまで練習に励んだという。

 また小学校しか基礎学習の期間がなかったことから、時間を見つけては家庭教師を依頼し、国語、英語、一般社会など、五十才を過ぎてから勉強を続けていた。ピアノもバイエルからはじめて、晩年はオーケストラのスコアの編曲や作曲もしていたという。

 仕事のある日は、夜九時ごろ帰宅し、ひと眠りしてから、体力をつけるためにジョギングに出かけ、その後深夜のレッスンにかかり、自分の持ち歌を毎日何十回となく練習し、それを一日も欠かすことがなかった。華やかな舞台でトップの座を守り続けたそのかげには、血の滲むような努力があったのである。

 

 


 

 

操の引退

 霧島夫妻は芸能界では珍しいおしどり夫婦として評判であった。しかし息子坂本紀夫によると「母は、私が落とした食べ物を泥の付いたまま食べてしまったとの話を聞いて、キッパリと芸能界引退を決意」(「両親の思い出」)、子供の教育のため「三百六十五夜」のヒットを最後にマイクを置いた。その後四人の子供を育てあげ、子供はいずれも音楽の世界で活躍している。

 霧島がレコーデングした数は三千曲を超えるといわれ、その功績により昭和四十五年(一九七九)には紫綬褒章を受章。昭和五十九(一九八四)年四月二十四日、享年六十九才で逝去。勲四等旭日小綬章を受章している。

 

 

 


 

 

故郷を大事にした霧島

内海はまた霧島は故郷を大事にしていたと語る。

《火事になる前の磐光パラダイスの社長が私の所に来て、今度のど自慢大会をやるので、ゲストを一人呼んでくれないかというので、霧島さんに連絡したら「当日は四国での出演があるけれど、それをキャンセルして、地元の方に出演したい」と出演して頂きました。ギャラは福島の方が遥かに少なかったのですが、故郷に対する思い入れがあったのでしょう。》

 故郷いわき市久ノ浜大久に「誰か故郷を想わざる」の歌碑が建立されている。

 


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