古関メロディー名曲解説

(五十音順・改訂版

 

「阿武隈の歌」  作詞若山牧水 

 大正5年、若山牧水が福島に訪れたとき作った歌 、「つばくらめちちと飛びかひ阿武隈のきしの桃のはな今さかりなり」を叙情豊かに歌い上げた曲。昭和41年、有志によって福島市の板倉神社にある阿武隈川畔に歌碑が建立されている。

「雨のオランダ坂」 作詞菊田一夫 歌渡辺はま子

 昭和22年3月に封切りされた松竹映画「地獄の顔」主題歌は、珍しく二社競作となった。コロムビアが渡辺はま子にこの歌を、伊藤久男に「夜更けの街」を歌わせ、テイチクはディック・ミネに「夜霧のブルース」を、またディック・ミネと藤原千多歌に「長崎エレジー」を吹き込ませいずれもヒットした。

「栄冠は君に輝く」  作詞加賀大介 歌伊藤久男 昭和24年発売

  昭和23年新制高等学校が誕生した。朝日新聞社は戦前の全国中等学校野球選手権大会を復活させて、昭和23年より再び全国大会を開催させている。作詞は最初加賀の妻の名義で応募したが、後年大介名義に変更された。夏の高校野球大会の開・閉会式や行進には必ず歌われ演奏されている。甲子園ではグラウンド馴らしの5回にもこの音楽が流れる。 全国球児憧れの曲。歌詞の2番目にある「一球に一打をかけて」は「一球に一打にかけて」だという説もあり、後者の方がよいとする意見も多い。

「大阪タイガースの歌」

日本にプロ野球チームが結成されたのは昭和10年のことで、「日本職業野球連盟」といういかめしい名前のプロ野球連盟が発足した。大阪でも大阪野球倶楽部(大阪タイガース)が創設された。翌年、日本初のプロ野球の試合が行われた。その昭和11年、大阪タイガースからコロムビアが球団歌制作を依頼され、ここに「大阪タイガースの歌」が誕生したのである。作詞は佐藤惣之助、作曲古関裕而、歌手は中野忠晴であった。その後昭和36年に球団名が「阪神タイガース」となり、この歌がタイガース・ファンの歌うところとなり、次第に世間に広まり、今やカラオケでも歌われるようになった「六甲おろし」である。この歌は、巨人軍の人気の高い関東・東北地方ではなじみは薄いが、関西地方では熱狂的な支持を得ている曲である。昭和60年、阪神タイガースが21年ぶりに優勝し、このレコードは大ヒットとなり、40万枚売れたと言われている。

「オリンピック・マーチ」 昭和39年

昭和39年10月10日、アジア初の東京五輪が開催された。古関は長年にわたる作曲生活を高く評価され、オリンピック・マーチを大会本部から依頼され、ここに作曲家人生の最絶頂期を迎えた。

  「オリンピック・マーチを作曲して欲しいという話が、組織委員会とNHKからあったのは去年の2月でした。マーチは私には書き慣れたジャンルですが、日本的な感じを出すのに苦心しました。しかし日本的というと雅楽風、民謡風になりがちですが、それでは若い人の祭典向きでないので、それを捨て私の楽想のわくままに書いたのです」(「サンデー毎日」)

 古関はまた、「開会式に選手が入場する一番最初に演奏され、しかもアジアで初めての東京大会であるということから、勇壮な中に日本的な味を出そうと苦心しました。そこで曲の始めの方は、はつらつとしたものにし、終わりの部分で日本がオリンピックをやるのだということを象徴するために、君が代の一節を取り入れた。私の長い作曲生活の中で、ライフ・ワークと言うべきもので、一生一代の作として精魂込めて作曲しました。」 と述べている。

「柿」 

 この曲の楽譜には、「1928.9.5川俣にて作曲」とのメモ書きがある。作詞は古関の敬愛する竹久夢二 の童謡で、「柿の木の下で約束したのに/熟れた実はくれず/青柿渋柿嘘の柿/柿の木の下で/約束したのは今はもう昔/柿の実熟れれば思い出す」が採用されている。古関裕而記念音楽祭にて、ボニー・ジャックが、詩情豊かに歌い上げたのが本邦初演であろう。しかし合唱曲としては 平成15年の、古関裕而記念館での「桜ライブ・コンサート」で披露した福島ハミング・コールが最初となる。

「巨人軍の歌」

  昭和38年、巨人軍30周年を記念して読売新聞社と巨人軍が募集した歌詞(椿三平作詞・西條八十補作)の作曲を依頼された古関は、「巨人軍の歌〜闘魂込めて〜」を発表している。この歌は日本中の野球ファンに歌われた。巨人阪神の伝統の一戦においては、いずれも古関作曲の応援歌「闘魂込めて」と「六甲おろし」が交互に歌われ、戦いに花を添えている。

「久遠(くおん)の希望に」 作詞坂内萬 昭和5年11月

 古関の母校福島商業学校(当時5年制)の野球部応援歌として作曲した。古関の母校に残した曲は4曲ある。古い時代 から列挙すると昭和3年の「福商剣道部歌」、昭和5年の「福商青春歌」と「久遠の希望に」、昭和32年の「福商新校歌若きこころ」である。この野球部応援歌は勇壮なメロディーをもち、後年の行進曲の面影がすでに芽生えている。

「高原列車は行く」

  日本コロムビアの専属作詩家となった丘は、年に数十曲のペースで作品を発表し、多くのヒット作を生み出していた。その一つに岡本敦郎(おかもとあつお)の歌った国民歌謡「高原列車は行く」(昭和27年、作曲古関裕而)がある。

「これじゃ、まるでスイスかオーストリアだ!自作の『高原列車は行く』につけられた曲を聴いて、丘は仰天した。郷里の大先輩で、敬愛する古関裕而らしく、実にハイカラで、センスに溢れ、テンポもいい。自分が描いたイメージとは全くかけ離れている。しかし、聴いているうちたまらない嬉しさがこみ上げてきた。やはり、この詞には、この曲以外にない。そう確信が持てた。

 2年前の『あこがれの郵便馬車』に続いて、同様の歌をという依頼を受け、即座に頭に浮かんだのが、幼少時懐かしい記憶のある福島県猪苗代町の沼尻鉄道だった。68年に廃止されるまで沼尻、中ノ沢などの温泉への足としても利用された。豊かな地方色に満ちたその列車に、湯治のために家族と何度も乗ったことだろう。」(読売新聞日曜版「うた物語」平成10年4月)

 「私の高原列車のイメージは、鉱山から鉱石を運び出すトロッコみたいな軽便鉄道で、近くには五色沼や白樺もあるというものでした。ところが作曲した古関さんは、スイスあたりの高原を走るハイカラなイメージがあったんでしょうね。だから非常に軽快なメロディーができて、最初に聴いた時はびっくりしました。詩を見て浮かぶ曲想は、人それぞれによって違うわけで、だから面白いといえますね」と丘はかたっている。

 丘の幼児の体験が歌詞となって、ヨーロッパの高原列車を思わせる曲想で完成したのは昭和27年のことで、以後この歌は国民歌謡として定着し、多くのファンを魅了した。

「紺碧の空」 昭和6年

 昭和初期の早慶戦は比較出来る様なスポーツが少なかったことから、 大学野球は全国的な人気を集めており、選手にも伊達、水原、三原、小川等野球殿堂入りの名選手が活躍していた。また早大の「都の西北」慶大の「若き血燃ゆる」等応援歌の応酬も全国ファンの血を湧かせていたが、早稲田の負けが多く、「若き血」の力強いリズムにどうしても遅れをとることから、新しい応援歌作成の機運が盛り上り、学内での歌詞募集に踏み切った。

 昭和6年4月に応募作品が集まり、選者は西條八十氏に依頼した。この花形作詞家は「これはいい詩だ。しかし作曲が難しいだろう。山田耕筰とか中山晋平といった大家に依頼しなくては駄目だよ」と応募原稿を部員達に手渡している。これが「紺碧の空」である。作者は当時の学生住治男で、彼もまた古関と同年であった。

 作詞者は決まったが問題は作曲者を誰にするかであった。ここで古関を強く推薦したのが歌手伊藤久男の従兄弟の伊藤戊(しげる)であった。伊藤は「兄貴の友達の古関君に賛成してくれよ。新人だから過去はないけど未来があるよ。国際コンクールの2位に入選したんだよ」と、熱心に説き廻り、難航の末作曲の依頼が決定した。

 早大は伊達投手の3日間の連投によって栄冠を獲得し、「紺碧の空」は全国に広まった。当時のこの歌は、第6応援歌であったが、今では第1応援歌に格上げされ、その前に作られた5つの応援歌はいつのまにか消えてしまったようである。

 古関はその後、早稲田の応援歌を5〜6曲作ったと述べているが、戦後は早稲田の「光る青雲」などが有名である。これらの功績をたたえて、昭和51年には、早稲田大学大隈庭園内に「紺碧の空」記念碑が建立されている。(写真 「紺碧の空」色紙)

「白鳥の歌」 作詞若山牧水 

  若山牧水の名歌「白鳥は悲しからずや空の青海の青にも染まずただよふ」を、古関が独特の感性で仕上げた名曲。古関生前の愛唱歌の一つ。古関は生前、家族に好きな曲はと聞かれたとき、この曲とオリンピック・マーチをあげている。古関自伝によると、短歌を歌曲にすることは難しいとされていたが、この曲の出来を批評家に高く評価されたという。2番の二重唱が聞き所である。

「船頭可愛や」 作詞高橋掬太郎 歌音丸 昭和10年

 古関の事実上の初ヒット曲。「この曲をクラシック畑の歌手に歌ってもらいたかった」と古関は回想するが、新人で商家の主婦であった音丸の力量はそれ以上のものであり、大ヒットとなった。この曲の出現によって、古関の作曲家の地位はやっと安泰になったといえる。瀬戸内海の民謡を参考にした詞で、「大海の豪快な漁師を想う歌」となっている。

 音丸は本名永井満津子、東京生まれで芸妓ではなく、家庭の主婦だったがその美声が認められ民謡調流行歌歌手となった。この歌で有名になってから、ビクターの勝太郎や市丸を向こうに回して、続々とヒットを飛ばし、一時は音丸時代を築く。」(丘灯至夫著『歌暦五十年』より)

「とんがり帽子」 作詞菊田一夫 歌川田孝子と音羽ゆりかご会

 昭和22年7月から3年6ヶ月、790回の連続放送したNHKラジオ番組で、連続ラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」(25年12月まで)が放送された。この企画はCIE(連合軍総司令部の民間情報教育局)の指令で、戦災孤児や浮浪児救済キャンペーンの一環としてなされ、主題歌「とんがり帽子」を始め、音楽は古関が担当し大好評を博した。この番組での一方の主役はハモンド・オルガンで、古関が縦横にこれを使いこなし、菊田に「神業」と高く評価された。

「長崎の鐘」

  永井隆博士の子息永井誠一(まこと)氏はこの曲を次のように解説さている。

 古関裕而さんは この歌を「死者を弔う鎮魂歌として作曲した」とおっしゃられ、藤山一郎さんも「長崎の鐘を歌うと、賛美歌を歌ったように敬虔な気持ちになる」とも言われている。この詩は、サトウ・ハチローさんが『長崎の鐘』をお読みになり作詩されたもので、最初池真理子さんが歌ったのが印象的であった。この歌は女歌だが、2番目の歌詞の「召されて妻は」の部分を女が歌うのはおかしいと言われ、藤山さんが歌うことになったと言われている。

 「なぐさめ、はげまし」と言うところは、古関さんが子供に対して温かい目を向けてくれていたのだろう。古関さんは父と同年代で、子供もおられただろうからよく分かってもらえた。長崎の原爆資料館では今でも原爆が投下された11時2分になると、 このメロディーを流している。(写真 古関裕而記念音楽祭にて「長崎の鐘」を歌う)

「日米野球行進曲」

「紺碧の空」の作曲によって古関の名前は世間の注目することとなった昭和6年、読売新聞社から古関に「日米野球行進曲」の作曲依頼がなされた。この歌は、読売新聞社がアメリカのプロ野球選抜チームを招聘した時、試合を盛り上げようと作曲されたものである。

アメリカ野球選手たちは、フィラデルフィアのプロチームを主体とする当時の有名選手であったが、日本にはまだプロ野球チームが発足する前だったので、東京六大学の各チームと選抜混成チームが対戦した。コロムビアでは早速歓迎の曲を、久米政雄作詞、古関裕而作曲で作成し、ここに「日米野球行進曲」が 発表されたのである。古関は日本で一つしかない交響楽団シンフォーニー・オーケストラを指揮して、当時日本随一の音楽の殿堂といわれた日比谷公会堂でその歓迎会が開かれている。

古関は当時を回顧して「叔父から燕尾服を借用したこの歓迎会は、好評を得て終了したが、叔父のエナメル・シューズが合わず足が痛んで困った。その後この曲が当時の音楽雑誌の特別付録としてスコアが添付された」述懐している。

「荷物片手に」 作詞野口雨情 歌森繁久 昭和32年1月発売

 野口雨情に扮した森繁久が主演した「雨情物語」の主題歌。森繁の味のある小節が冴え渡る。東京映画製作で東宝配給。恋しいふるさとを捨てて、いずこへか旅立つ人を慕い、自分も一緒に旅をしたいと切々と告げるこの詩の主題は、放浪と郷愁であろうか。雨情の詩情と、古関のメロディーが森繁の歌によって一層胸に迫る。

「福島行進曲」 作詞野村俊夫 昭和6年

 作詞家野村俊夫は、古関の5歳年上の幼なじみで、家も近く、野村は近所のガキ大将であった。この曲以前にも、何曲か作曲をしている間柄である。古関自伝によれば、当時は地方ソングの流行していた時期で、初吹き込み曲として福島の中心地を歌ったこの曲が選ばれた。作品としては、B面の「福島小夜曲」の方が後年有名となっている。

「福島小夜曲(セレナーデ)」 作詞竹久夢二 歌阿部秀子 昭和6年

 古関のレコード初吹き込みの曲。竹久の福島12景の短歌の内、3首を選んで竹久の宿泊する福島ホテルに持参した曲。もともとは「福島小夜曲」であったが、晩年の古関は、「福島夜曲」と揮毫するようになった。竹久の詩情豊かな短歌が、古関のメロディーで長く記憶されることとなった。

「福島ブルース」 

  昭和23年5月30日、福島市第一小学校で「コロムビア音楽会」とNHK「二十の扉」が開催された。これは、古関の母校福島商業高等学校が火災に遭い、その義捐金募集のため、古関が援助して開催された企画であった。この曲は「コロムビア音楽会」の中のアトラクションとして、作詞家野村俊夫と古関がコンビを組んで即興で作り上げた曲で、原詩は1番の歌詞しか作成されていないが、福島ハミング・コール指揮者中島賢司が2番以下の歌詞を付して今の歌曲になった。

「福商青春歌」 作詞坂内萬 昭和5年9月作曲

  古関裕而が青雲の志を抱いて上京する直前に、即興で作った逍遙歌。恩師坂内萬の五七調の詩には、清少納言の「春は曙」のような、福島の四季折々の美しい自然が詠み込まれている。歌詞の5番目は後年付け加えられたもので、創作当時はなかった。昭和37年3月、NHK番組「歌は生きている」によって全国5校の1つとして紹介されている。

「平右エ門(へいねも)」  作詞北原白秋 歌藤山一郎 昭和6年 

 飄逸(ひょういつ)な民謡調の曲で、古関が福島の生家において、父親の購入した蓄音機で聞いていた浪曲や民謡などの伝統音楽が、原体験として彼の音楽の骨格をなしていたことがよくわかる曲である。なお藤山一郎との出会いはこの曲が縁である。

「三日月娘」 作詞藪田義雄 歌藤山一郎

 この歌はNHKラジオ歌謡で、古関の戦後復帰ヒット第1作で、広く若人に愛唱された。ラジオ歌謡としては「恋」という言葉を最初に歌詞の中に取り入れた斬新なものであった。「戦後軍歌追放で詩人も作曲家も何を作れば分からない有様であった時、NHKが力をれたのがラジオ歌謡であった。」 と丘灯至夫は『歌暦五十年』で述べている。ある人から「三日月娘」とは、どういう娘を指すかと質問があったが、詩の内容から「三日月」のようなほっそりした娘と答えたが、果たしてどうであろうか。

「夢淡き東京」 作詞サトウ・ハチロー 歌藤山一郎

 この歌は東宝映画「音楽五人衆」の主題歌で、敗戦で焦土と化した東京の復興は都民の手で着々と進められ、銀座の柳の息吹とともに「東京の夜」、「東京よさようなら」など、一連の東京歌謡がヒットした。それらの曲の中でも現在でも吹奏楽などで演奏されている名曲。                                     平成11年、高校野球神宮大会が開催され、古関の母校福島商業高校が晴れて東北 地区優勝の栄冠を獲得し、神宮大会に駒を進めた。第1回戦の兵庫育英高校には快勝し、第2回戦で東京都国士舘高校と対戦した時、国士舘高校の応援で吹奏されたのが印象的であった。

「露営の歌」 作詞藪内喜一郎 歌霧島昇・伊藤久男ら 昭和12年

 東京日々新聞社(現毎日新聞社)が時局歌を募集したとき、第2席に入選した歌詞を古関がコロムビアの委嘱を受けて作曲した曲。最初の売れ行きは芳しくはなかったが、次第に戦地の兵士たちの好むところとなり、爆発的に流行した。作詞をした藪内は奈良県出身で、後年古関の地元の福島民友新聞社編集局長まで勤めている。

「若鷲の歌」 作詞西條八十 歌霧島昇・波平暁男 昭和17年

 西條の作詞した詞に古関が長調の曲を付けたが、どうもしっくりこないので10数分で単調の曲を付けて、予科練生に手を挙げさせたところ大多数が単調の曲に賛同した戦時歌謡。映画「決戦の大空へ」の主題歌。土浦航空隊跡に予科練生の銅像が建立されている。

「我ぞ覇者」

  戦争が終わって中断していた東京六大学の野球リーグ戦が復活した昭和21年、慶応の応援団員が古関家を訪問し、「ぜひ応援歌を作ってほしい」と頼み込んできたという。そこで「作ってもいいが先に『紺碧の空』を作っているので、早稲田の了解を取ってほしい」と言ったところ、学生は「すでに早稲田の了解は取ってあります」というので、早速この曲ができあがった。先に曲が出来、後で慶応出身の藤浦洸が作詞をはめ込み、21年の秋のリーグ戦から大いに歌われている。


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