笑い薬

 <登場人物>
   ・八百屋の熊さん
   ・熊さんの女房
   ・薬屋



――(マクラ)

「火の車 つくる大工はなけれども 己がつくりて 己がのり行く」
昔の人はうまいことを申しました。

夫婦仲良く朗らかに働いているご家庭では、火の車より宝船の方がせわしいことでございましょうが、
かと言ってあんまり夫婦仲のよいのも考えもので、
隣近所の人たちがみんな神経衰弱になってしまう、なんかはいけません。
ご家庭によっては、年百年中、朝から晩までご夫婦でありながら、敵と味方に対峙して、
弁論戦から武力行使までに立ち到る、なんて騒ぎがございます。




「おまえは何か、亭主たる俺の言うことを、何度言ってもわからないのかい?」

女房「わからないことはありませんよ。おまえさんの言葉はやっぱり日本語なんでしょう?」

「おや、この野郎、日本人がエチオピアの言葉を使うか!
 ううーむ、夫に対して口答えをするのがよくないんだ。
 仮にも俺はおまえの亭主だぞ!」

女房「何も改めて亭主だ亭主だって宣伝しなくたって、おまえさんのことをおかみさんとは思いませんよ!」

「それがよくないんだよ!
 女のくせに、ハイという言葉がなぜ使えないんだ !?」

女房「へぇー、ハイでいいんならわけは無いわよ。
 ハイハイハイハイ! これでしょ?
 ハイハイハイハイ! ハイハイハイハイ! アラヨッ!」

「なんだいこの女、車屋さんじゃないやい! バカにしやがって!
 今に俺が働けなくなったら、おまえはどうするつもりなんだ?」

女房「どうするもこうするもないさ。
 立派にお弔いを出しますよ。どうぞご遠慮なくお先へ!」

「あれっ、俺を殺すのかい? どうもあきれた女だ…。
 俺は八百屋だぞ、それがおまえにはわからないのか?」

女房「わかってますよ、おまえさんは八百屋の熊さんじゃないか。
 ずっと昔から八百屋の熊さんですよ。
 誰か、魚屋の熊さんとか、ペンキ屋の熊さんとか、言ったんですかい?」

「よくしゃべるな…。
 毎日々々朝早く起きて、俺が市場からいろいろ仕入れて来て、
 お得意様へ売って歩いたり、店に並べたりして二人は暮らしていられるんだぞ。

 商売物を食うんじゃないとあれほど言ってあるのに、わからないのか!
 『のどが渇いた』と言ってはムシャムシャ、『腹が減った』と言ってはムシャムシャ…。
 今朝から俺が黙って見ていると、今日はもうリンゴを七つに、バナナを十二本、それからミカンを二十一、
 おまけにキュウリを五本もかじったりしているぞ。
 商売物を食べるんじゃないとあれほど言ってあるのに、亭主の命令がきけないのか !?」

女房「なんだねこの人は…二度目には商売物商売物って。
 他人が食べているんじゃないんだよ。自分の女房が食べてるんだよ。
 ケチケチしなくってもいいでしょ、こんなに売るほど沢山あるんじゃないか!」

「おや、売るほどあるとはなんという言葉だ。
 それはね、何も食うなじゃないが、良い品物を選んで食べるのがよくないよ。
 悪くなったのから先に食べろ、というんだよ」

女房「へーぇだ。
 それじゃあ、自分の女房に腐った物を食べさして、お客様に良いのを食べさせると、おまえさんは言うんだね。
 ヘヘンだ、自分の女房を病気にしてまでも、お客様が大事なんだね?
 えーえー、よくわかりましたよ。私はどうせ犠牲になって、腐った物を食べて病気になって死にますよ!
 私ゃ熊さんに殺されるなら本望だ!
 さー殺してもらいましょう! さーお殺しなすってお試しください!さーお試し…」

―― (女房、殴られる)

女房「痛いっ! …ぶったな熊公! さー殺せ! チクショー ! ! 」



―― (地の説明)

どういうものですか、ご婦人の唇は男のそれより薄くペラペラにできておりますから、
動き方もなかなか敏活で、男がひと言発言する間に十言ぐらいは発言をしてしまいます。

男は言論戦でかなわないとなると、いよいよ武力行使をいたします。
ご婦人もなかなか男性の武力に黙々としてはおりません。
勇敢にも武者ぶりつく、鼻の穴へ指を突っ込む、あごを食い取る…まるで犬の喧嘩です。

八百屋の熊さんの店の前は、この夫婦喧嘩の見物人で黒山のようです。
交通整理の警官が出張する、空にはこの群衆をめがけて、飛行機で広告を始めるという、大変な騒ぎ。

そのうちに、見物人の中から、この夫婦喧嘩を見るに見かねた者が一人、店から中へ飛び込みました。
ガタンドタン、パリパリメリメリ、バタンキュー、キャアー、という大騒ぎで…



薬屋「あっ危ない、まあ待ってくださいよ親方。さーさー、おかみさん、逃げなさい逃げなさい」

「さーもう勘弁できねぇ! なんで俺のカカアを逃がすんだ !? この女はおまえのカカアか !?
 この野郎、貴様が相手だ! さー表へ出ろ! 尋常の勝負をしろ!」

薬屋「まあ親方、心を落ち着けてくださいよ。
 私は通りがかりの者ですよ。仲裁に入ったわけなんですよ。
 落ち着いてくださいよ、私の顔を見てくださいよ」

「うーん、そう言えば見たことのない人だ。
 まぁよかった、もう少しで、この差し上げてる漬物の大石を、おまえさんの頭に投げつけるところだった」

薬屋「大石じゃないよ、親方が差し上げてるのは空気枕ですよ」

「どうも石にしては軽いと思った」

薬屋「笑わしてはいけないよ…。どうして夫婦喧嘩なんかをするんですよ?
 『夫婦相和し』と言って、夫婦は和さなければダメですよ」

「それがね、このカカアの奴とは、なかなか和さないことになってるんでね。
 店にある物は商売物だから食べるんじゃないよと、あれほど言ってあるのにムシャムシャ食べるから、
 私が文句を言うと、『しみったれ』だの『ケチンボ』だって言うんです」

薬屋「それはおかみさんがよくありませんよ。
 亭主関白の位と言って、亭主は立てなくてはいけないよ、たとえバカでも亭主だから…」

「おや、変なことを言うね。すると私は何ですかい、バカですかい?」

薬屋「いえさ、怒っちゃ困るな。たとえばという話ですよ。おかみさんにしてる話だよ。
 そうでしょう、おかみさん? どうです? 私の言う言葉がわかりますか?」

女房「そりゃ私だって、バカでも何でも、亭主は亭主と立てますよ」

「何を ! ?」

女房「話ですよ、怒ることはないよ。
 何か言うのは私が悪いけど、ゲンコを出すのは熊さんが悪いよ」

薬屋「それは親方がよくないなー。
 ゲンコなんてものは、ちょいちょい出すもんじゃないよ。日本ゲンコー(銀行)ならまだしも…。
 強い男が手を出すには、親方が絶対によくない。
 女は弱いものと昔から相場が決まってるんだから…。ゲンコを出した親方は悪い悪い」

「おや、この野郎! 変な仲裁をするない! ベラボウめ!」

薬屋「まぁまぁ親方親方、怒っては困るなー。
 我慢をしなくてはいけませんよ。人間、怒るのが一番出世の妨げになる。怒りは敵と思え。
 徳川家康公は何とおっしゃった? 人の一生は重荷を…」

「おい、おまえさん、どこの人だか困るなー。
 二人が仲良く夫婦喧嘩をしてるんだから、他人は表へ出ておくんなさい」

薬屋「そうはいきませんよ。『仲裁は時の氏神』と言ってね。
 この喧嘩の仲を直さないうちは、私は一歩も後へは引きませんよ。

 世の中、面白くないことばかりなんだから、
 それをひとつひとつ腹を立てていては、腹を寝かせる時が無い。そうでしょう?
 一人が怒ったら、相手の一人が笑ってしまえば、喧嘩にならない。そうでしょう?
 親方、ひとつ私の顔を立てて、笑ってください。
 さー、早く笑ってください。早く笑った笑った!」

「よせよ、怒って喧嘩してるのに、笑え笑えったって、笑えるかい!」

薬屋「そのできないところを、我慢して笑うんですよ! そうでしょう?
 親方が笑えば、おかみさんも笑うことになる。
 さー、笑ってください! さー、笑った笑った!」

「おいよせよー、人間なんて者は、可笑しくもないのに笑えるかい…馬鹿馬鹿しいや」

薬屋「それがよくない! 今や世界はどうなっておりますか?
 イタリー、およびドイツは今、何をしているか。日本の近所のロシアでは今、何をしようとしているか。
 人類のためにと思えば、心配なことばかりではありませんか?
 今や世界は笑いに飢えておる。どうして笑いに飢えているか、それは諸君…」

「おいおい! いい加減にしろぃ!
 俺の喧嘩はどうなるんだい! そんな所で演説なんかして困るよ!」

薬屋「まぁお聞きください。表に立っている見物人の諸君も、どうかお聞きください。

 現代の社会は、至る所に衝突あり、戦争あり、面白くないことが充満しています。
 全世界のため、人類のため、じつに憂慮すべき現象と言わなければなりません。
 この好もしからぬ世の中を救うには、諸君!
 笑いである!
 腹を立てず、堪忍であることをご承知ください!

 どんなに面白くないこと、残念なこと、悔しいこと、我慢のできにくいことでも、
 ニコニコと笑みをもって迎えることのできるという、
 笑い薬、笑いの素を、今度私どもで発売いたしました!

 そうら、この薬ですよ。この笑いの素を朝一回飲む時は、その日一日は絶対に怒ることが無い!
 一週間続けて飲む時は、一生を通じて怒りを忘れてしまうという、
 効力百パーセントの秘薬、笑いの素であります!

 この私の手にありますビンは一週間分。
 宣伝中は特別の三円をもってお分かちいたします。
 後々は、薬屋さんでお買い求めの時は一週間分が五円の定価になっております。
 何とぞ一度お試しくださいまして…」

「おいおい! 冗談じゃないよ!
 なんだい、俺が喧嘩している所へ飛び込んで来て、薬を売ろうなんて、ふざけるなぃ!」

薬屋「さーさー怒ってはいけない! この薬で笑ってください!
 怒る人はこの薬を一週間分お飲みになる。
 することなすこと嬉しくなって、年中ニコニコ夫婦仲良く家庭円満、商売繁盛いたしまして、
 わずか一週間分の笑いの素を飲んで、ニコニコニコニコ、
 笑う門には福来る、たちまちにして家庭に春は訪れる!
 わずかの間に金満家になれる!

 夫婦相和するは家庭の幸福大にして、国家のため!
 何とぞ何とぞ、この笑いの素をひとビンお買い求めのほど、ひとえに願い上げ奉りまぁーす!」

「驚いたなこりゃ…、うっかり夫婦喧嘩もできないや。
 その、何かい? 笑いの素ってのは、いくらだい?」

薬屋「ありがとうございます!
 只今、後々薬屋さんでお求めのせつは、一週間分が五円でございますが、
 宣伝中は特別をもちまして、わずか三円ということになっております」

「えっ、三円?
 冗談じゃねえや、五銭や十銭ならともかく、三円なんて馬鹿馬鹿しい。
 第一、なんだかわからない薬を笑いの素だなんて、
 笑うのに薬の世話にならなくたって、ちょっとカカアに脇の下をくすぐってもらえば、すぐ笑い出さぁ!
 なぁ? そうだろおまえ?」

女房「そうですともさぁ、毒が入ってるか何だか知れないよ。
 そんなものを飲んで病気にでもなっちゃ、つまらないよ」

薬屋「(突如)やいっ! この野郎!」

「おっ、ビックリした…なんだ薬屋?」

薬屋「よくも俺の商売物の薬にケチをつけたなー !?
 何も買わなきゃー買わないでいいんだ!
 毒が入ってるとは、なんという言い草だ !?
 もう勘弁はできねー! 下から出りゃーつけあがりやがって!
 なんだい、夫婦喧嘩の仲裁をして、商売物を貶されてたまるか!
 さー、表へ出ろ!」

女房「まぁまぁ…、困ったな…そんなつもりで言ったんじゃないんですよ…つい、その…」

薬屋「ツイ(杖)もステッキもあるか、バカにしやがって!
 もうこうなったら、どんなことがあっても我慢ができねぇ! 表へ出ろ!」

女房「弱ったねーこりゃ…、薬屋さん、大変怒っちゃったが…?
 どんなことがあっても絶対に怒らない薬を売ってるんだろう?」

薬屋「当たり前よ! だからさっきから、笑う薬で笑いの素って言ってるんだ!
 それがテメエにはわからないのか、デコ助!」

女房「だからおかしいんだよ。どんなことがあっても絶対に怒らない薬を売っている薬屋さんが、
 大変怒っているのが変だよ?」

「うーむ、なるほど…それは変だ?」

女房「いやだよ薬屋さん、それじゃその怒らないという笑いの素は、効かないのだろう?」

薬屋「そんなことはない!
 どんな面白くない残念な悔しいこと、我慢のできないことがあっても、
 この笑い薬、笑いの素を飲む時は、たちまちにしてニコニコとなり、心は平和、家庭には春が訪れ…」

「おいおい冗談じゃないよ、笑いの素を売って歩く薬屋さんが怒っちゃ、困るじゃないか?」

薬屋「うん、だからおまえさんたちの夫婦喧嘩と同じだ。商売物だから私は飲まない」





  <完>



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