風来や

 <登場人物>
   ・風来や
   ・与太郎
   ・八つぁん・熊さん
   ・大家
   ・
与太郎の母



――(春の日。往来で立ち話をする男二人)

「春だなぁ」

(鼻声、以下同様)「春だだぁ」

「いい陽気だなぁ」

「いい陽気だだぁ」

「こう陽気がいいと、気持ちがいいなぁ」

「オデはそうでもだいよ」

「そうでもないって、なんでだよ。
 冬が明けて日差しが緩やかになって、空気がポカポカしてきて、吹いてくる風も気持ちがいいじゃないか?」

「オベェ、さっきからオデとしゃべっていて、気がつがでぇどかよ?」

「ああ、そういえばなんだか、鼻が詰まっているようだな。風邪でもひいたか?」

「風邪じゃでえんだ。おととしあたりからかな、この時期になると鼻水が出てシガダねえんだよ。
 ちり紙持ってでえか?」

「そうなのか。ちり紙ぐらい持って歩かねえか」

「持って歩いでだんだが、残らず使っちばっだんだお」

「しょうがねぇな。ほら」

「すばねぇ…(と、鼻をかむ)
 あー、すっきりした。なんか今のちり紙、少し湿っていたようだな?」

「そうかもしれねえ。さっき、そこの共同便所の地べたで拾ったやつだ」

「汚えモンよこすなよ!」

「おめえが欲しがってたからやったんじゃねえか、ゼイタク言うなィ」

「ところで、頼みがあるんだがな」

「なんだい」

「ちり紙くででえか? ハダが出で…」

「またかよ。もう今のでおしまいだ」

「あー、ハダが、ハダが…」

――(遠くから物売りらしき声)
 ちり紙や〜 ちり紙〜  春のハナかみ ちりの紙〜
  ちり紙や〜 ちり紙〜

「聞いたか、ちり紙を売って歩いている商人とは珍しいや。
 どこにいるんだ。 おーい、ちり紙やー!」

――(と、そこへ、風に乗って飛んできたちり紙が熊の顔にあたる)

「うぷっ! なんだこりゃ? あっ、ちり紙じゃねえか!
 ありがてえ、ちょうどいいから使っちまおう…(と、鼻をかむ)
 あーすっきりした」

――(物売りの声)
 ちり紙や〜 ちり紙〜 春のハナかみ ちりの紙〜
  ちり紙や〜…
 (声、遠ざかる)

「ちり紙や、行っちまったようだな」

「今のはもしかして、ちり紙やがくれたのかな?」



――(夏の日。長屋の井戸端近くを歩く大家)

大家「いやぁ…暑いねぇまったく…。
 この間まで梅雨でジトジトしていたかと思ったら、ここへ来て一気に暑くなったよ。
 風なんざ湿っぽくて、顔にまとわりつくようだ。
 さすがにお天道様がこう照らすと、いつも井戸端にいるおかみさん連中も誰一人…
 いや、一人いた。与太郎だ。
 あんな井戸端の陰で這いつくばって、何やってるんだ?
 おーい、与太!」

与太郎「あー? 大家さんか」

大家「おまえ、こんな暑いさなか、井戸端の陰でうずくまって何やってるんだ」

与太郎「大家さん、アタイ、蟻見てるの」

大家「蟻?」

与太郎「そう、蟻。 蟻ってこんなにちっちゃいだろ。
 だから、お天道様がカーッて照らしてきても、体に日が当たる幅が狭いから、いいなーと思って。
 アタイなんかこれだけの背丈でこれだけの体だから、無闇に日に当たっちゃって暑いのなんの…。
 あんまり暑くてボンヤリしちゃった」

大家「プッ。おまえはいつだってボンヤリしているだろう」

与太郎「そいでね、せめて蟻の背丈に近くなったらいいんじゃねーかと思ってね、
 地べたに這いつくばっていたら、井戸端の日陰ってけっこう地べたがヒンヤリして、心持ちが良くてさ。
 そのまま寝ちまったら、アタイの体の上に蟻がゾロゾロ登って来て、さっきからかゆくてかゆくて……。
 大家さん、こりゃぁやっぱり、蟻が『オレんちから出てけ!』っていう、たな立ての合図か?」

大家「何を言ってるんだい。
 しかし、確かにここいらは日の光が当たらなくて、心地がいいな。
 ちょっと腰掛けさせてもらうよ……どっこらしょ」

与太郎「ああー大家さん、そんなとこに座ると蟻がたな立てに来るぞ!」

大家「いいよ、ちょっと休むだけだから。
 ふぅー。いい心持ちだ。
 これで風が吹いて来て、かすかに風鈴の音でも聞こえてくりゃ、申し分無いがな」

――(と、そこへ、複数の風鈴の音)

 チリン チリン  チリンチリンチリンチリン

大家「おお、風鈴やさんかい?」

 チリン チリン  チリンチリンチリンチリン

大家「おかしいな、確かに風鈴の音は聞こえるんだが…」

 チリン チリン チリン…(音、遠ざかる)

大家「聞こえなくなっちまった」

与太郎「大家さん、アタイ、今のが何だか知ってるぞ」

大家「ん、与太、おまえ今の音の正体が何だかわかるのか?」

与太郎「うん、まにまに」

大家「まにまに? 何だ、まにまにってのは。誰かの名前か?」

与太郎「何だかわかんないんだけど、この間からよく長屋に来るんだよ。
 あっちで知らない物売りの声がするなー、と思って見に行ったらいなくて、
 別の日にはこっちで違う売り声がしたなーと思って、見に行ったらやっぱりいなくて。
 でね、そのくせ、いつの間にか長屋のみんなの手助けをして、いなくなってんの。
 うちのおっかさんがそう言ってた。
 『ありゃぁ、風のまにまに風吹きガラスだねぇ』って…だから、まにまに」

大家「ああ、その『まにまに』かい。何のことかと思ったよ。
 それにしても、そういう不思議なことがあったんだねぇ。
 私も自分の家で声だけは聞こえていたから、『最近は長屋によく物売りが来るな』とは思っていたんだ。
 そういうことなら、ちょっと調べてみるとしようか」



――(ト書き)
 そう言って大家さん、長屋の住人にこの謎の物売りのことを聞いて回る。
 ある者は、晩飯のおかずのブリの骨がノドにひっかかって苦しんでいたら、

  象牙の箸や〜 象牙の箸〜 ノドの魚の骨取りましょう〜 箸や箸〜

…なんて声がして、表に出ると、紙包みに象牙の箸がくるまって置いてあったという。

 またある者は、旦那が浮気をしたのしないのってんで、夫婦同士でもめていたら、
 頭の上にどこからともなくナマズの子が落ちてきて、途端に地べたがグラグラグラッ!
 「キャーッ」てんでおかみさんが旦那にしがみつくと、また元通り何事も無い。
 そのあと遠くの方から、

  夫婦喧嘩は〜 犬も食わん〜
   ナマズに食わせて〜 揺り戻し(ヨリ戻し)ましょう〜


…という売り声が聞こえてきたという。

 またある者は、道具屋で買ったへっついから毎夜幽霊が出て眠れないで困っていたら、

  浮かばれない幽霊には〜 盆のご供養〜 盆のご供養〜

…なんて声がして、どこからともなく緋牡丹のお竜さんがやって来る……って、これは時代が違いますが。

すっかり町内で知らない者はいなくなりまして、
いつしか付いた名前が、風来坊の物売りだから「風来や」。
これには長屋の与太郎が最後まで「まにまにや」にしようと主張しましたが、受け容れられませんで。



――(秋の日。長屋一同、慌ただしく立ち話をしている)

大家「どうだい、八つぁんに熊さん、与太郎は見つかったかい?」

「それが見当たらないんですよ。
 まったく、こんな大嵐の中、どこに行っちまったんだろう…」

大家「そうか…。まったく与太郎の奴、心配かけやがって…。
 ああ、おっ母さん、大丈夫だ。長屋の男手で手分けして探してやるから、安心をし。
 しかし、いつ時分から姿が見えなくなったんだい?」

与太郎の母「そうですねぇ…今日の昼前あたりでしょうか…」

大家「なんだい、風が強くなってきてからじゃないかね。駄目だよ、表に出させちゃ」

「いいえ大家さん、私も『危ないから今日は表へ出ちゃいけないよ』とは言ったんですが…。
 本当に、風のまにまに風吹きガラスなんだからねぇ…。
 あっ、大家さん、思い出しました!」

大家「どうしたおっ母さん、何を思い出したんだい?」

「昨日の晩方、大雨がひどく降りだしましたでしょう。
 その雨音を聞きながら家の中で親子二人ジッとしていましたら、与太がこう言うんですよ。
 『おっかさん、こりゃ明日は隣り町の川は大水になって、ゴォォッ!ってんで、ものすごい流れになってるぞ〜。
 面白そうだから見に行ってみよう〜』って。
 私は『危ないからおよし』って言ったんですけど、ひょっとしたら隣り町の川に行ってるかも…」

大家「それだ! なんてこったい!
 こんな大風の中、水のあふれた川の土手なんぞ歩いていてご覧な。うっかりすると…
 おいおい、八つぁんに熊さん、あと手の空いている男連中、隣り町の川だ!
 みんなで手分けして土手をくまなく探すんだ。
 足元が滑らないよう、十分に気をつけてな。私も今からすぐ支度して行くから!
 ん? どうした? なに? 与太郎が戻ってきた?」

――(与太郎、べそをかいている)

大家「与太郎―! 心配したじゃないか!」

「与太! まったくおまえときたら…」

与太郎「おっ母さん…まにまに死んじまったよ」

「まにまに?」

大家「おい与太郎、おまえ、まにまにに…いや、風来やに会ったのか?
 ひとまず家の中に入って、話を聞こうじゃないか。

 どうだ与太郎、落ち着いたか。
 落ち着いたら、さっきの話の続きを聞かせておくれ」

与太郎「あの…なんだ… 昨日から大雨だっただろ。
 『こりゃ明日は隣り町の川は大水で、ゴォォッ!ってものすごい流れになってるだろうなー』と思って、
 楽しみにして寝たんだよ」

大家「ああ、それはおっかさんから聞いたよ。それで?」

与太郎「それでね、今朝起きたら、昨日はそうでもなかったけど、生暖かい強い風がピューピュー吹いてただろ。
 でも、大水は見てみたいから、おっかさんの目を盗んで、こっそり隣り町の川っぺりまで出かけたの。
 もう風はどんどん強くなるし、体は持って行かれちゃいそうになるし、だから体をこう低くナナメにしてね。
 狛犬が首かしげてるみたいな形になりながら、ようやく川の土手まで着いた頃には、ヘトヘトになっちゃった」

大家「そうだろうな。それで?」

与太郎「そしたら案の定、川の水がものすごくいっぱいになってたんだ。
 『すげぇー、こりゃ土手を下りてったら水にさわれるんじゃねえかな?』と思ってね」

大家「馬鹿野郎! 危ないことするんじゃない!」

与太郎「いや、違うの。話を聞いてよ。 『下りようかな』と思っただけ。
 そしたら、遠くの方から売り声がしたの」

大家「おお、風来やが来たのか! 売り声は何て言ってた?」

与太郎「それがね、わからねぇ」

大家「わからねぇ?」

与太郎「なにしろ風が強くって、土手のあたりは余計に風が渦を巻いちゃって、
 耳元じゃピューピューどころじゃない、ゴーゴー言うんだ。遠くの声なんざ聞こえやしない。
 それで、また『下りようかな』と思って土手に足をかけたら、また遠くの方でなんか聞こえるんだけど、
 やっぱり耳元でゴーゴーって風の音ばっかりして、よく聞こえねぇの」

大家「うん、それで?」

与太郎「それで、片足を土手にかけた所で、ズルッ!て滑って尻餅をついちまって。
 『痛ぇー』ってしゃがんで尻をおさえていたら、川上の方で『ドブーン!』って大きな音が、今度ははっきり聞こえたの」

大家「それは何か川に落ちた音か?」

与太郎「アタイもそう思ってね。
 それで、音のした方をヒョイと見ると、なんか流れてきてさ。川の流れが早ぇだろ、またたく間に川下に消えちまった」

大家「わからなかったか…」

与太郎「でもね大家さん、そいつがアタイの目の前を流れていく時、ちょっとの間だけ声が聞こえたんだよ。

  あぶらがえる〜 あぶらがえる〜

 ……って。
 『ああ、今の声はまにまにだ!』って、その時気がついて。
 助けてあげなきゃと思った頃にはもう見えなくなってて…(と、べそをかく)
 大家さん、あぶらがえるって何だ?  蟇の油のことか?」

大家「いや、そいつはきっと『危ない帰れ』と言ってたのが、そう聞こえたのだろう。

 いやぁ、風来や……いや、まにまにの奴は気の毒なことをしたなぁ。
 せっかく顔を拝めたと思ったら、それっきりとはな」

「そうですねぇ大家さん、
 春には春の風に乗って、夏には夏の風に乗って、秋には秋の風に乗ってやってきて…
 それで町内の者に何がしか売って、心地良くさせて消えていく…
 おおかた、季節の神様、風の神様だったのかもしれませんねぇ…」

与太郎「神様? それなら、死なないでまた冬にも来るんじゃないか?
 きっと冬にも来てくれて、何か売り声を聞かせてくれるよね?
 ね、大家さん?」

大家「そうだな。季節の神様は死なないさ。安心をし。
 ただな与太郎、まにまには冬には何も売っちゃくれない」

与太郎「冬は何も売ってくれないのか?」

大家「ああ、手ぶらで来るんだ。からっ風だ」



  <完>



←展示場トビラへもどる