自死の肖像
2011年7月8日(金曜日)
1●亡き妻の人生 背負い 被災地で活動「失った悲しみ同じ」


 「お母さんがうちで死んでる…」。受話器から中学生の長男のすすり泣きが聞こえた。浜松市の男性(47)は職場を飛び出し、夕闇の街でタクシーを拾った。「何かの間違いであってくれ」。心の中で何度も祈り続けた。
 だが、自宅の衣装部屋で目にしたのは妻=当時(45)=の変わり果てた姿だった。2009年3月10日。最愛の人は自ら命を絶った。4月から浜松市の臨時職員として働くことが決まっていた。
 妻は大学の音楽サークルで1年上の先輩。関西の素封家の娘だった。父親が職を転々とする貧しい家庭に育った男性は、妻の才気と教養にほれ込み、大学を卒業してすぐに結婚した。
 その後、妻が人知れず抱える負の側面を知った。小学生のころ、いじめに遭ってから「目立ってはいけない」という思いを抱き続けていること。経済学の研究者になりたかったが母親の反対で断念したこと。祖父の遺産をめぐり両親と親族がいがみ合っていること―。男性は「妻の人生は『失っていく人生』だった」と振り返る。
 妻は死の数年前から重度の不眠に悩まされるようになっていた。C型肝炎を患った母親が、20年におよぶ闘病生活の末に死去し、遺産をめぐる訴訟が結審して父親が敗訴、思い出が詰まった実家の庭を失ったからだった。
 「苦しい、助けて」。08年11月群馬県嬬恋村で家族旅行中、妻は過呼吸の症状に襲われた。心の痛みが体の痛みに転化する「身体表現性障害」と診断された。5人の精神科医のもとを転々としたが、「妻の気持ちに寄り添ってくれる医師に出会えなかった」。男性は今も悔やむ。


左手に結婚指輪をはめたまま。男性は「はずす理由がありませんから」=浜松市内で

 「生きるのはもう十分」。妻は包丁を抱えて寝るようになった。医師から、患者の会合に出るよう言われたが、妻は気持ちが沈んでいて参加できなかった。怒った医師が、これまで処方しなかった向精神薬を押しつけてきた2日後、妻は自らの人生に終止符を打った。
 妻の「自殺」。男性は当初、この二文字の重みを受け止めきれなかった。そんな時、検死に立ち会った医師が長男に語りかけた。「お母さんは、心のがんで亡くなったんだよ」。男性は気持ちのわだかまりが解けていった。この医師の勧めで、自殺者の遺族の自助グループ「浜松わかちあいの会」に入会した。
 5月初め、東日本大震災で被災した宮城県気仙沼に入り、泥水に漬かった写真を洗って持ち主に返すボランティアに取り組んだ。「震災でも自死でも、家族を失った者の悲しみは同じ」。妻も、東北の犠牲者も、神様になって残された家族を見守ってくれる―そう信じている。

浜松わかちあいの会
2008年9月に設立された県内の自殺者の遺族らでつくるグループ。浜松市精神保険福祉センターで2カ月に1回開く会合には、市内や愛知県東部から遺族が集まり、互いの体験や思いを話し合う。会合の司会はNPO法人「全国自死遺族総合支援センター」(東京都)の職員。会合はこれまで計17回開かれ、延べ100人以上が参加している。問い合わせは同会事務局=電053(457)2709=へ。

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