人間苦悩論
諸富 祥彦 もろとみ・よしひこ 2014年4月18日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
悩みぬく意味
自身と対話し深く成長 [上]

 私は、心理カウンセラー(心理療法家)である。この仕事をしていると、当然のことながら、実にさまざまな悩みを抱えている方とお会いする。
 仕事の悩み、職場の人間関係の悩み、家族の悩み、夫婦関係の悩み、結婚の悩み、恋愛の悩み、子育ての悩み…。生きている限り私たちの人生から悩みがなくなることはありえない。「生きていくことは、悩みゆくことである」—そう言いたくもなってくる。
 実際、私のカウンセリングに来ておられたあるクライアントの方は、こう言った。
 「私の人生、どうしてこう悩みが尽きないのでしょう。これではまるで、悩むことが、私の仕事のようです」
 「悩むことが自分の人生の仕事」とは、言われてみれば、たしかにそんな側面がある。私自身も、青年期に7年ほど悩み続けたり、失恋でひどく傷ついたりして、これまで数度、自死の寸前まで追い込まれたこともある。


 そんなことから、私は、この5年ほどかけて、カウンセリング心理学の見地からの「人間苦悩論」を五冊にわたって展開してきた。今は、その最終作となる著書を「孤独とさみしさ」をテーマに執筆中である。
 もちろん私の「人間苦悩論」の基盤をなすのは、カウンセリングの臨床体験である。カウンセリングをしていると、人間には、一口に「悩む」といっても、実にさまざまな悩み方をする人がいることが、わかってきた。
 典型的な二つのタイプをあげると、一つのタイプの人は、ぐるぐる、ぐるぐると、毎回、同じような話をくり返す。同じ悩みの同じところを何度も何度も回りながら堂々めぐりをしている。
 その逆に、もう一つのタイプの人は、数回、数十回とカウンセリングを続けてお話をうかがっているうちに、その人の「悩みが深まっていく」様子がありありと手に取るように伝わってくる。自分の内側に深く触れながら、時折、胸のあたりや、おなかのあたりに手を当てながら、「うーん、そうか、んー。(沈黙)なるほど…」と、自分の内側に深く触れ、自分と深く向き合いながら、自分の存在の奥のほうから言葉を絞り出すようにして語っていく。沈黙がちに、ゆっくり、ゆっくりと話をしていく。
 そして、そんな面接を何回か続けていくうちに、ふと、「あ、そうか…」と、自分の内側の奥から(いわば魂から)届けられてくる声を聞いて、大切な「気づき」を得る瞬間が訪れる。その瞬間からクライアントの方の人生は、たしかに変わる。たとえすぐに外から見えてわかるような明確な変化はなくとも、その人の人生は、その瞬間から確実に変わりはじめるのである。
 カウンセリング(対面による対話式の心理療法)とは、クライアントとカウンセラーとの対話である以上に、「自分自身との対話」である。「自らの魂との対話」である。カウンセラーの存在は、その器にすぎない。

 人間には、自分と向き合うことなく「浅くしか悩めない人」と自分と向き合いつつ「深く悩む人」がいる。「深く悩むことができる人」が「深く生きることができる人」である。
 人は自分と向き合い、悩むことを通して、「自分自身」となっていく。悩むことがなければ、決して得ることのできなかったさまざまな気づきや学びを得て、人間としての深い成長や成熟をはたしていくのである。「深く悩んで、深く生きている人」はまた、同じ時間を生きるのでも、濃密に生きている人でもある。
 一方の「軽い悩みしかないけれど、心の奥は空虚な人生」と、もう一方の「いや応なくめぐりあう大きな苦悩にさいなまれ続けているけれど、心の奥では濃密な時間が流れている人生」。私たちは、生きている以上、いずれかを生きなければならない。あなたはどちらを選ぶだろうか。
 わたしは、たとえ苦悩に満ちていても、濃密な人生を生きていきたい。

さみしさを抱えて生きる
孤独力鍛え真の仲間を [下]

 カウンセラーとして「もういっそ、死んでしまいたい」と語る方とお会いする時、私は次のように言うことがある。
 「どんなに死にたくなっても、あと三年だけ、生きてみることにしましょう」。五年生きろ、十年生きろとは言わない。三年だけ、生きてみることを提案する。
 「人生の目標とか、生きがいとか、そんなものは何も見つからなくてかまいません。とにかく、今のからだのまま、とりあえず、生きてみることにしましょう。そして三年後にどうするかは、実際、三年経った後に決めればいいのです」
 この言葉を聞いて、「とりあえず、死ぬのをやめることにしました」と言ってくださる方がいる。もう死んでしまいたい、というところまで追いつめられている人にとって、「後五年」は長すぎる時間である。「後十年」と言われると、限りなく永遠に近い時間に思えるだろう。
 しかし不思議な物で、「とりあえず、あと三年」と言われると、「三年くらいだったら」と思える方が少なくない。これは五十代の方であっても、二十代三十代の方であっても、変わりがないようである。
 そして毎年四月や五月になると「いっそ死んでしまおう」という方が増えてくる。春は、出会いの季節であると同時に、別離の季節であるからだろう。
 多くの人は言う。「もう私の人生はからっぽだ」「誰も私を必要としていない」「何もない、さみしいだけの人生だ」。このように語る方は確かに以前からいた。しかしその方々を覆っている「さみしさ」「空虚」の切実さが、ここ十年くらいに、急激に切迫感を増しているように思う。


 私は、カウンセラーの仕事を始めて三十年近くになるが、私たち日本人が抱えている「さみしさ」の度合いは、そしてその切実さは確実に増してきているのではないか。そしてこの「さみしさ」とどう向き合って生きていくかにこそ、私たちがこれから生きていく鍵が存在している。
 私たちの抱える切実なさみしさの原因は、ある程度、社会の変化に由来している。独居老人の孤独死、老老介護の問題に加え、今後、病院不足の問題が深刻化する。自宅での死を望む人が多いが、それ以前に受け入れてくれる病院自体が足りなくなり、病院での死すら望んでも不可能な社会になりつつあるのである。
 こうした問題は高齢世帯だけが直面するものではない。世帯別では、単身世帯がすでに最も多く、2030年には男性の三人に一人、女性の四人に一人が生涯未婚になると予測されている。若い世代の多くが早く結婚したいと望むのは、結婚へのあこがれがあるからではなく、孤独な未来を恐れるがゆえである。
 こうして多くの人が未来の孤独におびえ家庭づくりに急ぐ一方で、結婚しなかったり、したとしても離別したマイノリティーはひたすら世間から取り残され空虚な孤独を抱えていく。単身世帯の増加が顕著なように「孤独なマイノリティー」はマジョリティーになりつつあるのが現実である。


 こうした現実に私たちはどう向かい合えばいいのか。
 一つは、「孤独力」を鍛えることである。孤独を紛らわせようとするつながり作りの営みの大半はないよりましな程度の、一時的な気休めにすぎない。むしろ重要なのは、たとえ職場から去り、家族を失っても、「自分はこの世界とつながっている」「この世界の営みにその一員として関わっている」と感じられる自分なりのテーマを見つけ、それを自分のミッションとして日々を送ることだろう。
 「おひとり様」での旅行や食事を楽しむ能力に加え、「物理的には一人であっても、内面的には世界の営みに関わっている」と思える共同体感覚(アドラー心理学)こそが、孤独力を鍛える肝である。
 もう一つは、大半の時間を孤独に過ごしていても、本の一人か二人でいい「濃密な時間を共に過ごすことができる仲間」を見つけることである。安易なネットワーク志向は、浅い関係しか育まず、私たちの心は深いところで空虚なままである。
 孤独であることを受け入れよ。孤独をごまかし友人づくりに励んでも、人生は空虚なままである。大半を孤独に過ごしても、内面は充実し世界と共にある。そうした方向を目指せ。友人は深くふれあえる友が一人か二人いればよい。私はあえてそう提案したい。

ねるけ むほう もろとみ・よしひこ 1963年、福岡県生まれ。筑波大大学院博士課程修了。千葉大助教授を経て明治大教授。臨床心理士。著書『悩みぬく意味』(幻冬舎新書)『あなたがこの世に生まれてきた意味』(角川SSC新書)『魂のミッション』(こう書房)『あなたのその苦しみには意味がある』(日経プレミア新書)など多数。