良寛に学ぶ
頼住 光子 よりずみ・みつこ 2014年5月16日(金曜日)中日新聞「人生のページ」より
「無用」の世界を生きる
「遊び」の中に人間の尊厳 [上]
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昨年の秋、講演で新潟県柏崎市に行った。講演が午前中で終わって、さて、と地図を見たところ、柏崎から日本海沿いに北上したところに「出雲崎」という地名があるのに気付いた。子供のころ絵本で読んで以来、ずっと気になっていた良寛(1758〜1831)の生まれ故郷だ。少し大回りして、出雲崎を通って帰ることにした。
日に何本かしかない柏崎と出雲崎を結ぶ路線バスに、一時間ほど待って何とか乗ることができた。車窓から灰色の波の逆巻く日本海を見ていると、子供のころに読んだ絵本『良寛さん』に載っていたエピソードが次々に蘇よみがえってきた。
子供たちと一日中毬まりつきや隠れん坊をして無邪気に遊んだ良寛。何も盗とるものがなくて困っていた泥棒に、わざと寝返りを打って布団を持って行かせようとした良寛。自分の庵いおりの床下から生えてきた竹の子のために、床板も天井もはずして竹の子の成長を助けた良寛。子供のころに抱いたイメージは、大人になって接した、良寛の漢詩や和歌、書、そして各種の伝記や研究書によってさらに膨らんだが、その源にあったのは、何物にもとらわれず、清らかに自由に生きた一人の禅僧の姿であった。
良寛の生きる世界は、「無用」の世界である。子供と一日中毬をついて遊ぶことには何の有用性も見いだされない。しかし、人間の人間としての尊厳は、何かの目的を立てた上での有用性にあるのではなくて、つまり、目的の奴隷となることにあるのではなくて、それ自身として充実した行為、それ自身が目的であって外部の目的に奉仕するのではない行為をなすところにあるのではないだろうか。「日常性」や「有用性」そのものが、実は、それを超えたもの、例えば「非日常生」や「無用性」によって支えられているといえるのかもしれない。
良寛も見たであろう風景の中を歩きながらこのようなことを考えた。
「愚」に徹する生き方
執着を断じて「無」の境地 [下]
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良寛(1758〜1831年)というと、多くの人は、数々の無邪気でユーモラスなエピソードを思い浮かべるであろう。たとえば、ある日、良寛は子供たちと隠れん坊をしていた。田んぼのわらの中に隠れていた良寛を見つけられず、夕方になったので子供たちはそのまま家に帰ってしまった。良寛はそれに気づかず一晩中わらの中に隠れており、朝になってやってきた農民が声をかけると、「静かにしないと、子供たちに見つかってしまう」と答えたという。また、解良栄重けらよししげという良寛と面識のあった人は、「家に良寛が泊まりに来ると、家中に和気がただよって家人がみな和やかになり、その和気は良寛が帰ってからも数日間残っている」と、良寛がかもしだしていた穏やかで和やかな雰囲気を伝えている。
このような良寛の天真爛漫らんまんでほのぼのとした人柄は、一般によく知られているが、それが、実は、厳しい禅の修行に裏打ちされたものであったことは、あまり知られていないだろう。良寛を本当の意味で理解するためには、彼が宗祖道元禅師への敬慕を貫いた禅僧であり、生涯、「我が生、何処いずこより来り、去って何処にか之ゆく」という問いを持ち続けた宗教者であったことは、ぜひ念頭においておく必要がある。
十八歳で出家した良寛は、数年間を故郷の寺で過ごした後、備中玉島(岡山県倉敷市)の円通寺で十年以上、厳しい修行に日夜励んだ。三十三歳の時、大悟成道し、師の国仙和尚より印可の偈げ(弟子が悟ったことを証明する詩)と一本の杖つえを与えられた。偈の中で、国仙和尚は、良寛に付いて「愚」と述べ、「騰騰任運」(こだわりなくおのずからなる境地)に遊び、自分が与えられた杖を寺の壁にでも立てかけて昼寝でもせよ、と勧める。
杖は、禅僧にとって説法や弟子の指導や行脚の際に使う道具であると同時に、「本来の自己」の象徴である。「本来の自己」を明らかにすることは、禅修行の目指すところだ。師の国仙禅師が良寛に杖を与えたのは、良寛が「本来の自己」を明らかにしたという印である。では、ここで良寛が明らかにした「本来の自己」とは何か。答えの一端は、国仙禅師の「愚」という言葉にある。良寛の号は「大愚」であるが、ここで言う「愚」とは、頭脳明晰めいせきの反対という単純な意味ではない。賢であろうが愚であろうがこだわらず、自分がどうあろうと小賢こざかしい思慮分別を働かせず、ありのままを受け入れていくという心の在り方である。
このことは、「本来の自己」と象徴された一本の杖について、国仙和尚が「壁に立てかけて昼寝でもせよ」と言ったことにも表れている。杖を「壁に立てかけて昼寝する」とは、「本来の自己」を体得したとしても、それにも執着することなく、おのずからなる自由自在の境地に居るという意味である。その後の良寛の生き方は、まさにこの言葉通りのものとなった。
円通寺に別れを告げ諸国行脚の旅に出た良寛は、四十歳ごろに故郷に帰り、粗末な庵いおりを結ぶ。そこで、坐禅をし、読書をし、詩歌を作り、また、良寛の人柄に引かれてやってきた人々—裕福な詩友から農民まで—と分け隔てなく交流した。そこで作られた詩には、すべてを受け入れ、澄み切った良寛の境地が表れている。
たとえば、「生涯身を立つるに懶ものうく」と始まる詩の中で、良寛は、「これまでの人生、世俗に交わり身を立てる気もなく、何にもこだわらず、おのずからなるありように悠々と身を任せてきた。それでも、生きていくだけの米三升も薪一束もある。これ以上何も必要ない。悟りも迷いも、ましてや、名誉だの利益だの世俗の煩悩は私の知ったことではない。終夜雨の降る草庵そうあんの中で、私は両足をのんびりと伸ばすのだ」と言う。
この詩からは、簡素な草庵の生活の中で良寛が、あらゆる作為から解放され自由な生活を送っているさまが浮かび上がってくる。それは、すでに禅の悟りを求めることすらも執着として断じるような「無一物」の境地である。寺も弟子も持たず、粗末な庵に住んで、何を目標にということもなく、心任せに生きている。世間的常識から見ても、禅僧の一般的なあり方からしても、何らの有用性を見いだせないこの在り方こそ、「愚」と「無用性」に徹するものであった。良寛の無邪気な和やかさの奥には、「愚」と「無用」に徹する厳しい覚悟が潜んでいたのである。
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