報道という<かたり>
哲学者・大谷大学教授 鷲田 清一  2014年4月16日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
「騙り」に落ちぬ自覚を
鷲田清一

 テレビでも新聞でも、表明された言葉が嘘かまことかを問いただす報道でもちきりだ。
 原発をめぐる事業者の「情報公開」についてはもはやだれも鵜呑みにしなくなっているが、国会議員の政治献金をめぐる釈明や、作曲家や生命科学者の記者会見については、その発言や挙措きょそが、事細かに取沙汰される。
 一昔前なら、これを「センセーショナル」と言った。「センス」(感覚・官能)という語からきているので、字義どおりにえいば「扇情的」、そこから「物議をかもす」といった意味になる。「扇情的」とは劣情に訴えるという意味だから、そこにはまだ「劣」情との価値判断があった。その価値判断すら、このところの報道は脱落させていないか。
 釈明の是非に先だって、政党交付金というものが設定されたあともなぜ不正な献金が続くのかという問題がある。作曲委託については、ポップスのそれ、著名人の語り下ろしにおける代筆がスキャンダルにならないのに、なぜクラシック音楽についてはそれが厳しく問われるのかを考えてみたくなる。STAP細胞については、研究者による徹底した追試・検証という「ウラを取って」からの話であろう。会見の演出という、科学ではなく報道の域に足を踏み入れた理化学研究所のふるまいがたとえ発端であったにしても。


 報道は噂話ではない。それは「お話」ではなく「語り」である。
 哲学者の坂部恵はその物語論のなかで、「はなしにならない」と「かたるに落ちる」の違いについてこんなふうに分析している—。
 起承転結というまとまりをもたない話が「はなしにならない」のに対して、語りはそもそも起承転結なしにありえないものだから「かたりにならない」とは言わない。一方、語りが一定の構成をもつのに対し、話はつい素朴に洩らしてしまうものだから、「はなしに落ちる」とは言わない。つまり、<はなす>が「内容の真偽や話者の意図の誠実不誠実に無記な行為」であるのに対し、<かたる>は「高度の反省的屈折をはらみ、ときに、誤り、隠蔽いんぺい、自己欺瞞ぎまんなどに通じる可能性」をもつ一段上の言葉のふるまいだというのだ。
 「かたり」が「語り」であるとともに「騙かたり」でもあるゆえんも、ここにある。舌先三寸、調子のいい語りで、別人になりすますこと、つまり「誰某だれそれをかたる」というのとおなじことが、当事者の釈明のみならず釈明の報道にも不可避的に含まれる。


 編集もまた価値判断である。人びとの「情」(視聴率?)に訴えるのではなく、何が詳細に報道するに値するかの、一つまちがえば「騙り」にもなってしまう、難しい判断である。「教師は教壇に立つときには知者を<かたって>いる(野家啓一)おとおなじで、報道人はデスクでは事実の「証人」を<かたって>いることに自覚的でなければならない。
 「ファクト(事実)」とは「作る」という意味のラテン語動詞facereに由来する。そこには「作られたもの」という含意がんいがある。「かたり」にしろ「ファクト」にしろ、古人はそういう綾あやに通じていた。そこに込められていたのは、言葉や気分にふりまわされるのではなく、仔細しさいはわからずともこれは大事、という感覚を備えることであった。