宗教の普遍性
晴佐久 昌英 はれさく・まさひで 2014年3月15日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
すべての人は救われる
分け隔てなく愛す [上]

 「あなたは必ず救われる」。キリスト教は、すべての人にむかって、そう宣言する。
 もしあなたが悩みを抱えて苦しんでいるなら、「その苦しみは生みの苦しみだ。あらゆる苦しみには意味があり、必ず喜びにかわる。信じてほしい」と語りかける。
 大切な人を亡くして悲しんでいるならば、「死はまことのいのちへの誕生だ。すべての人のいのちは永遠であり、必ず天での再会がある。信じてほしい」とよびかける。今、現につらい十字架を背負っているすべての人に、闇から光へむかう、復活の希望を告げ知らせるのが、キリスト教なのである。 
  「すべての人」というからには、いかなる条件もない。特定の宗教を信じていてもいなくても、善人も悪人も、およそこの世に生を受けた人間すべてである。特に、自分のような罪人は決して救われないと思い込んで自らを責めている人にこそいいたい。「神はまことの親だ。すべての人をわが子として愛しており、必ず救う」と。
 意外に思われるかもしれない。一般にキリスト教は、信者だけを救う宗教だと思われているし、現にそのように教えている教会もあるからだ。しかし、本来のイエスの教えは、すべての人を分け隔てなく愛するあたたかい教えであるし、キリスト教の最も深いところには、そのような究極の普遍性が流れている。


 私はカトリック教会の司祭であるが、「カトリック」とは「普遍的」という意味であり、現在のカトリック教会は何よりもこの普遍性を大切にしている。
 もしも救いが一部の優れた人のものであるならば、私などは間違いなく救われない側であろう。しかし、神はこんな私を愛しているし、イエスはこんな私を救ってくれた。だからこそ、あなたも必ず救われると信じて疑わない。
 物事には優先順位というものがある。仮にキリスト教憲法でもあるならば、第一条にはこう書いてあるはずだ。
 「神は愛であり、すべての人の救いを望んでおられ、神にできないことは何一つない」。第二条にはこうあるだろう。「イエス・キリストの言葉と行いは神の愛そのものだ。神は、イエス・キリストによって、すべての人を救われた」
 第三条以下のすべては、この二つに基づいている。
 ここでいう「救い」とは、「神と人が親子のように永遠の愛で結ばれ、人と人が兄弟のように愛し合う状態」のことである。これはいわゆる死後の天国のことだけでなく、そのような天国へとつながる、この世でも実現可能な天国のことでもある。
 神を「天の父」と呼んだイエスは、まさに神とひとつに結ばれていたし、命を捨ててまで人々を愛して、そのような天国の扉を開いた。イエスにおいて、人類の救いはもう始まっているのだ。
 そもそも、すべての人は神に望まれて生まれてきたのだし、神に愛されていき、やがて死を超えて神のもとに生まれていく存在である。それは人間側の条件とは無関係な、神の恩寵おんちょうによるものである。その意味でも、人は本来的に救いのうちにあるといえる。
 その救いを知って目覚めた人は喜ぶし、その救いを知らずにいる人は苦しんでいる。だからこそ、教会は救いの宣言を使命としているのだ。

 「信じる者は救われる」というが、何を「信じ」たからどう「救われる」のかが重要だ。これを特定の神仏を信じる者は御利益を得るとか、特定の宗教に入ったものが天国に行くのだとか解釈すると、普遍性が損なわれる。
 むしろこれは、「すべての人が救いのうちにあること」を信じる者は、「その救いに目覚める喜びによって」この世でも救われるということであろう。
 カトリック教会は、そのようにすべての人を救う方を神と呼び、普遍的な救いをもたらす方をキリストと呼ぶ。
 これらを踏まえて改めて冒頭の宣言を繰り返すならば、キリスト教はすべての人に、こう宣言しているのである。
 「あなたはもうすでに、救われている」

すべての人を救う宗教
共感、共生する道へ [下]

 「あなたは必ず救われる」「あなたはもうすでに救われている」
 すべての人にむかってそのように宣言する宗教こそが、いま、この地球上に求められているのではないだろうか。そのように信ずる宗教同士であれば、心から尊敬し合い、世界平和のために協力し合えるのではないか。
 多くの宗教が、これこそが正しい教えだ、これを信じなければ救われないと、自らの絶対性を主張する。
 しかし、この世に現実に多くの宗教があり、人生をかけて信じている人がいる以上、自分だけが正しいと言い張る原理主義や教条主義が人類を救うとは到底思えない。
 今求められているのは、既成宗教が、いっそう普遍主義的なことばと振る舞いを鍛えあって、すべての人を救う道を共に啓ひらいていくことだ。


 この危機の時代にあって、人類は間違いなくそのような道を求めているし、グローバル化が進む今後の世界では、そのような道を行く宗教が主流になっていくだろう。
 だれだっておかしいと思っているはずだ。なぜ、人を救うはずの宗教が争いあうのか。なぜ、自分の宗教の利益と拡大だけを目指すのか。なぜ、より良い関係を求めて忍耐強く対話を重ねないのか。
 だれだって夢見ているはずだ。宗教が互いに尊敬しあい協力しあって、苦しんでいる人に具体的な救いの喜びをもたらし、すべての人を救う究極の教えを広める日を。
 夢はいつの日か必ず実現するだろう。それが人類史の必然だからだ。そのような夢のために働く宗教家も、すでに現れている。もとよりそれこそがイエスの願いであったし、何度失敗しながらも、その夢にむかって二千年歩み続けてきたのが、真実のキリスト教なのである。
 イエスは、その方法として非常に単純な道を示した。
 「隣人を愛し、敵を愛せ」
 だれかを愛する喜び、誰かに愛される安らぎ。赦ゆるし合い、 和解する感動。この世にそれに勝るものはないし、それを否定する宗教などありえない。ならば、まずは敵味方を超えて愛し合うという実践において、共感し、共生しようではないか。
 特に最も困窮している人、最も排除されている人に優先的に関わって惜しみない援助をし、精神的に苦しんでいる人、生きる意味を見失っている人によりそって普遍的な救いに導くことは、あらゆる宗教を結ぶ最も確かな方法であると思われる。
 日本では特定の宗教をもたない人の割合が増えている。宗教嫌いという人も少なくない。その理由が宗教の不寛容と独善、言行不一致にあることは、いうまでもない。
 日本人が特別に非宗教的であるはずはない。(笑)をもって貴しとなし、狭い国土で助け合って生きてきたこの国の根底には、普遍性あふれる霊性がしなやかに流れているし、だれも排除せず、互いにもてなし合うような教えならば喜んで受け入れる、おおらかな国であることは、みんな直観しているはずだ。
 そうでなければ、お正月に神社に初詣に出かけ、結婚式は教会で挙げ、葬式を仏式で出すことなど、ありえない。この世で真の普遍主義が花開くならば、それはまずはこの国をおいてほかにないといえるのではないだろうか。
 安易な宗教多元論でも、単なる宗教協議会でもない。
 すべての人は救われるという普遍主義を学び合い、愛の業と救いの宣言で一致しながら信頼関係を深めていく実践的な「聖なる道」である。


 神社にお参りし、お寺で手を合わせ、教会で神に祈る。それが大きな目で見れば実はひとつのことであり、自然界に宿るカミへの敬意であり、万人を救う弥陀みだの本願であり、神の愛を実現するキリストの道だといえるような超越的教義を見いだし、実践することこそは、この国で宗教を名乗るものの使命であろう。
 このような普遍性は、もはや相対的な「宗教」を超越した「真理」と呼んでもいいと思う。そのような真理で結ばれるなら、多様な宗教があたかもひとつの「普遍教」のように機能して人類を救うことも夢ではないと思う。
 「カトリック」、すなわち「普遍的」という名を冠した教会の司祭として、さらにはそのような夢の普遍教の信徒として、神仏ご自身の愛のことばを贈りたい。
 「わたしはあなたを、愛している。すべての人を、必ず救う。安心して、あなたのまことの生みの親である、わたしの親心を信じてほしい」

ねるけ むほう はれさく・まさひで 1957年、東京都生まれ。東京カトリック神学院、上智大神学部卒。87年、カトリック司祭に。現在、カトリック多摩教会主任司祭。著書に『星言葉』『十字を切る』(女子パウロ会)『あなたに話したい』(教友社)『恵みのとき』(三マーク出版)など多数。