今仏教を問い直す
ネルケ 無方 ねるけ・むほう 2014年3月1日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
思考実験をしてみると…
釈尊の実践を現代に [上]

 日本にはコンビニの約1.5倍、7万5千カ寺のお寺があります。今は、そのお寺の存在が危ないといわれています。「お葬式はもう要らない」と言う人が増えて、お寺の檀家の数が徐々に減っています。日本の仏教をこれから誰が、どうやって、守るのでしょうか—そうつぶやいているお坊さんが多くいるそうです。
 お坊さんが守るのか、檀家が守るのか。私なのか、あなたなのか。そもそも、「日本の仏教を守る」と言った時、何を守るつもりなのでしょうか。京都や奈良の国宝を守るのか、菩提寺の伽藍がらんを守るのか。それとも自分のお墓だけを守るのか。
 そもそも日本仏教には、どのような存在意識があるのか、というところから問い直す必要があると思います。日本人の生活の中で、仏教はどのような役割を担うべきか。そのことこそが問題なのです。


 そこでひとつの思考実験につきあっていただきたいと思います。
 「もし一夜にして日本から『仏教』が消えたとしたら、この国はどう変わるのでしょうか」
 お寺やお坊さんといった形あるものが消えるのではなく、「仏の教え」がなくなったとしたら、ほとんど誰一人としてその消失には気づかないのではないでしょうか。
 「〝仏の教えなんて〟今どきそんなもの日本にあったっけ?」と言う人もいるでしょう。では「仏教」とともにお坊さんまで日本から消失したら、どうでしょうか。もしかしたら葬式やお盆を迎えるまで誰も気づかないかもしれません。
 では、今まで日本にあった多くの寺院がすべて公園になったとしましょう。
 「金閣寺も銀閣寺もなくなるのはもったいないな。お寺は日本の国宝だから」
 もしお坊さんとお寺だけではなく、お墓も各家の仏壇も消失したらどうでしょうか。このとき初めて、多くの日本人の心に、ポカーンと大きな穴が開くのではないでしょうか。お墓も仏壇も消えたときこそ、「日本人の仏教がなくなった」ということができるでしょう。つまり「仏教を守る」ということは、多くの日本人にとって「お墓や仏壇を守る」ことを意味します。しかしそれでは今の時代にあまりにも即していない気がしてなりません。仏の声は現代に生きている私たちにも届いていなければなりません。仏教のテーマ、それは「今をどう生きる?」という問題ではなかったでしょうか。
 かく言う私にとある同業者は忠告しています。
 「君は外国出身だからか、住職としての覚悟がたりない。君も、お寺という〝会社〟の経営者。檀家はお得意先だから、需要と供給の法則をよくよくわきまえていなければならないわけだ。求められていないものを提供しても、カスタマーは離れてしまうよ」


 私が日本に渡ってまで求めていた仏教は単なるサービス産業ではありません。もともと、私が住職をしている安泰寺あんたいじは檀家の数がゼロです。釈尊が2500年前に実践しようとしていたことを、現代に沿った形で教えることこそお坊さんの使命ではなかったのではないでしょうか。そう反論するも、別のお寺の住職が言います。
 「ほら、住職の『職』という一字、それは職業という意味だろ? 決して使命でやっているのではない。檀家がお寺に求めているのは『仏の教え』なんてものじゃない。そんなものを提供することはお寺ではなく、新興宗教の仕事だ!」
 こう言い放つお坊さんがいるからか、仏教を否定的に見ている日本人は少なくありません。私自身が仏教の「これから」をどう考えているのか? そこが知りたいという方もいらっしゃるかもしれません。次回は将来に向けて、仏教の可能性を考えてみたいと思います。

あやうい将来
無報酬の菩薩行で修行を [下]

 「日本仏教はたんなるビジネスであって、そもそも『宗教』と呼ぶには値しない」
 そう言いながらでも、多くの日本人はいざお葬式という「人生の卒業式」を迎えると、やはりお坊さんを呼んでいます。仏教への帰依があるからではもちろんなく、単にそれまでの習慣からそうしているにすぎません。
 「仏教徒」と自称する日本人でも、仏教を自分の宗教として自主的に選んだ人はごくわずかでしょう。
 「気がついたら、お坊さんになっていた」と言うお坊さんも多いのではないでしょうか。お寺の子として生まれたから、仕方なくお坊さんになった、というわけです。それは本来の出家が意味するものとは正反対、家業の跡継ぎにしかすぎません。


 住職になる前に、私は二年間、「認可僧堂」といわれるお坊さんの育成期間で修行しました。驚いたことに、日本人が仏教の要と考えている「葬儀」については何も教えられませんでした。その理由について、こう言われました。
 「私たちは何もあなたを差別しているつもりはない。ただ、檀家さんの気持ちを考えると、青い目の雲水にお葬式を任せるのもちょっと…。『雇われ外国人』ではあるまいし、あなただって葬式のノウハウを学びにきたのではないだろう」
 なるほど、僧堂でも「葬式法要は仏教ではない」とちゃんとわきまえているわけです。お葬式はいわばアルバイトであって、仏教の修行は別にあるのです。残念ながら、アルバイトであったはずのものがいつの間にか本業になってしまい、「修行をしている暇はない」ということになってしまいました。僧堂でも、お葬式が重なれば禅堂の中で坐禅をしているのは外国人だけになってしまいます。ですから、日本人の修行僧がいざ父親のお寺に帰れば坐禅を続けるはずもありません。
 「坐禅なんて、外国人のためにあるのでは?」ということになってしまうのです。
 仏教を学びに日本に来ている外国人があまり葬式法要に関心を持たないというのも事実です。だからこそ、安泰寺のような檀家ゼロの自給自足の修行道場にも来るのです。彼らが本国に帰ってからどうやって生活するのだろうか、と不思議に思っている日本人もいるでしょう。
 私自身はそんなことを一度も考えたことがありません。「坐禅をしていれば、生活は何とかなるさ」と思っているからです。今から十三年前に大阪城公園で「ホームレス雲水」をやったこともありますが、将来の心配などありませんでした。もしも、安泰寺の後をつぐことになっていなければ、今ごろドイツのどこかの橋の下で坐禅していたかもしれません。
 私の外国人の弟子の多くは、国に帰ってから以前の職業に戻ります。安泰寺でたとえ出家得度を受けたとしても、普通の格好で在家生活を営んでいます。ただし、坐禅だけは続けているのです。自分で坐禅道場を開いた人も少なくありません。「道場」といっても、自分が住んでいるアパートのリビングだったり、裏庭にある「ガーデンハウス」だったりします。


 オーストラリアで精神カウンセラーの仕事をやりながら、「禅ホスピス」のプロジェクトに取り組んでいる弟子もいます。そのホスピスには建物はないので、末期がんの患者のターミナルケアを病院または在宅で行っています。無報酬のいわゆる菩薩行ぼさつぎょうです。彼は平日に仕事をし、コストもかからないので、こういう活動が可能なのです。彼に言わせれば、ホスピスは人のために何らかのサービスを提供するのではなく、「ただ、同じ船に乗ることだけ」だそうです。
 彼が一緒に死ぬわけではありませんが、それまでは言葉を交わし、その場に一緒にいるのです。それは自分の修行にもなっていると彼は言います。
 「そのためには坐禅も必要。自分をゼロにし、相手を受け入れるためには…」
 助けるのは「自分」、助かるのは「相手」という壁を打ち破っていうことが大事です。
 日本でも同じ活動をしているお坊さんがいますが、聞いた話では必ずしも周辺の理解を簡単に得られるわけではないようです。
 「病院で『縁起でもない!死んでもいないのに、どうしてお坊さんが?』と言われたよ。死んでいないうちにしか話を聞けないのにね」
 日本で仏教を学んだ人たちが、今世界中で活躍しています。日本人も、うかうかとしてはいられません。

ねるけ むほう ねるけ・むほう 1968年、ドイツ生まれ。16歳で坐禅と出合う。京都大留学を経て93年に曹洞宗・安泰寺(兵庫県)で出家得度。大阪城公園で「ホームレス雲水」を経て、2002年から檀家ゼロ、自給自足の山寺の住職に。著書は『迷える者の禅修行』(新潮新書)『日本人に「宗教」は要らない』(ベスト新書)など多数。