智慧で生き抜く 
篠原 悦一 しのはら・えいいち 2014年2月15日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
孤立しない、させない
自ら動けば周りも動く [上]

 心身ともに疲れ果て、生きる力を失った人たちとの対話を重ねて二十年が経つ。年齢は十五歳から八十四歳の老若男女。
 誰もが心のなかに居座って動かぬ苦悩をポツリポツリと語り、息がつまる日常という「息づまり」と行き先が見えない「行きづまり」、この二つの「いきづまり」に耐え切れず死をみつめていると訴える。
 そして皆孤独を通り越して孤立しているという。孤独と孤立はどう違うのか…。
 孤独感に近い寂寥せきりょう感ということばがあるが、家族や友人がいても、ふと自己をみつめて「オレの人生、これでいいのか? こんな人生で終わるのか?」などの思いが湧いてきて孤独を感じることは誰にでもあるはずだ。けれどそんな時身近な人から「何か、おいしいもの食べに行かない?」と声をかけられると孤独感から一気に解放される。
 しかし「孤立」は手ごわい。孤立は孤独と異なり自分と他人との関係が断絶してしまっている状態といえよう。自分も他人と関わることをやめている。そんな自分に他人も関わってはくれない。
 「オレなんか一人だ。誰もオレのことなんか気にもかけてくれない。オレはこの世から消えていい人間なんだ…」
 こんなことをつぶやく多くの若者と会ってきた。


 私が住職をしている長寿院を「自殺志願者駆け込み寺」と名付けて報道したのは東京新聞(中日新聞東京本社)の記者だった。この時から私の日常は「自殺志願者」との対応に追われることになり、すでに一万二千人以上の人と対話をした。そして、この体験から得た結論が「人は孤立してはならない。孤立させてはならない」ということだ。なぜなら他との関係が断絶して孤立状態に追い込まれると自死念慮が湧いてくるからである。
 数年前。中東の国々で活動する「アルジャジーラ」というテレビ局が来寺した。成田空港に近い長寿院を基地にして日本各地を取材するのだという。私はプロデューサーに問いかけた。
 「取材目的は何か?」
 するとプロデューサーが通訳を通してこんなことを告げたのだ。
 「今の日本は世界で最も不思議な国と思う。なぜなら、一年間に孤独死する人々が三万二千人。自殺者が三万三千人。合計六万五千人の生命が一年間で消えている。中東で戦争が起こっても、一年間に六万五千人の死者は出ない。日本ではなぜ六万五千人の生命が一年間で消えるのか?このことに疑問を持ってやってきたのだ。私はふと考えた。日本のどこかにとんでもなく大きな穴があって、その穴は日本人を死へ誘い込む穴にちがいないと。私たちはその穴を見つけて撮影して帰り、世界中に発信したいんだ。住職、穴のある場所の心当たりはありませんか?」
 私は彼のことばに大きくうなずいて言った。
 「あるよ。とてつもなく大きな穴が。その穴とは個人に多くの苦悩をいくつも背負わせる日本の社会的構造という穴だ。知らぬ間に社会的構造からやって来る苦悩を背負い、存在や生存を否定され、孤独から孤立して自死へ向かうという経路。これこそ、あなたの言う日本人を死へ誘う大きな穴だ。もっと簡単に言えば〝おまえひとりで生きていけ〟と脅迫して孤立に追い込む日本の社会。この穴をいっときも早く埋めねばならないんだ!」


 この穴を埋めるのは誰か。同じこの社会に生きる私たちの「連帯責任」において、私が、あなたが、埋めるしかないのである。私は今日も孤立を訴える若者に語る。
 「自分以外の人とのつながりが切れてしまうことはとてもつらいよね。そんな時、誰かが手をさしのべてくれるのを待つのではなく、自分の方から動いてみてはどうだろう。するとそこに、新しいつながりが生まれて孤立から解放される。君が動けば周りが動くのだよ…」
 仏教では時や場所、そして人を選ぶことなく、二度とない人生を幸福に生き抜く羅針盤のことを「真理」とか「智慧」と教えている。
 〝孤立しない、孤立させない〟の一言も人生を生き抜く「智慧」にほかならない。

死者と生者の協同
現世浄める原動力に [下]

 土曜日の黄昏時たそがれどき。定年を迎えた男性たちが、旅先などで手に入れた「名(迷)酒」をぶらさげてやってくる。その名も「杯さかずきの会」。酒が進むと必ず話題になるのが、定年前のこと、つまり仕事に熱中していたころの思い出話だ。
 きまり文句は「あのころは良かった…」。同席の私が問いかけた。「あのころは良くて、今はダメなの?」。誰かが、「いやあ、そうじゃねえけどよ。なんだかいまひとつ実感がないんだよね…」。
 この一言に誘われて一人一人が語りだす。
 「ゴルフざんまいの日々を楽しみにしていたから一年間やってみたけれど飽きちゃったしねえ」「長年苦労かけた家内を慰労してやろうと世界一周船にも乗ったけど、思ったほどでもなかったよ」「オレ、自分史を書き始めたけど、今、ストップしているよ。オレの人生文字にしてみると、それほどおもしろくねえもの。やめるかな…」
 そしてまとめるとこんな討論になった。
 「仕事をしていた時は自分の存在が認められているという思いが確かにあった。誰かが自分のことを必要だと思ってくれていることがしっかりと感じられた。言いかえれば、他人のために役に立っているという自己有用感や自尊感情だ。これがあったからこそ、生きてこられたと思う。でも定年後は、どこか寂しい。時には孤立感さえ。自分の存在は本当に肯定されているんだろうかってことも度々」
 定年後まだ一年という男性が語る。
 「オレ、毎日の楽しみは女房と夕食の材料を買いに行くことなんだけど一カ月前に〝今日から来ないで〟と言われちゃってさ。〝うるさいし時間がかかる。それに無駄な品物を買うから支払いも増える。だから、もう来ないで〟って。いやあ、オレ、ショックでウツになりそう。笑いごとでないんだよ。オレみたいな定年男はけっこう多くて〝オレも連れてけ症候群〟っていう病名までついてるそうだ。オレ、人生終わったって気分なんだよ…」


 誰もが口を閉じた。酒席に沈黙はなじまない。私の出番だ。
 「定年を迎えたら、もう人生終わりだと思っていない?
 定年は、仕事や職業に一度区切りをつけることであって、人生の定年ではないよ。人生という物差しで考えれば、人生に定年はないし老後も余生もない。死を迎えるその一瞬までは、だれも現役なんだ。老後? どこからが老後なの。余生? 余った生ってあるの。余ってたら私に頂戴ちょうだい。貧困のため死を待つ子どもに持って行ってあげるから…。定年、老後、余生、こういう言葉にとらわれることはない。いつかは死ぬ。死ぬまでは人生の現役さ」
 「きんさん、ぎんさんが百歳のとき、菩提寺の住職さんが〝百歳まで仕事して、ようけお金もろうたんじゃろう。そのお金どうするの?〟って問いかけたらお二人が〝老後のためにとっておくよ〟と笑顔で答えたと聞いた。すごいじゃないか。百歳になっても現役なんだ」
 「現役についてもう一言いうとね。〝今日が本番、今が本番、この一瞬こそが本番〟という覚悟で生きるということにほかならない。このことを禅語で〝而今にこん〟という。私たちの人生は今を積み重ねて成り立っている。過去の今によって現在があり、現在の今は未来をつくる。だから今が本番、而今!今日から座右の銘を〝而今〟にしてはどうかね!」
 「人生80年として、三分の一の27年間は眠っている。食事に10年。食べたからにはトイレに行く。トイレ平均5年。健康を保つために大切なことだけれど、眠る、食べる、トイレで42年を費やす。眼をパッチリあけて何かができる時間は38年。これを短いと思うか、長いと思うかは自由。いずれにしても人生はこんなもの。だから〝而今〟なんだよ。つまり〝今でしょ〟。あの一語は正しいことを言っているんだ!」


 夜がふけていく。帰り支度を始めた彼らに告げる。
 「このコピーをトイレに貼るといい。毎朝自分に言い聞かせてみたら!」

 人生に定年はありません
 老後も余生もないのです
 死を迎えるその一瞬まで人生の現役です
 人生の現役とは
 自らの人生を悔いなく
 生ききる人のことです

 「智慧」を羅針盤として生きる人は強い。「智慧」に導かれて一念・不惑で生き抜く人生が約束されている。
 よろしければあなたもこの一文をトイレにどうぞ…。

しのはら えいいち しのはら・えいいち 1944年、兵庫県生まれ。駒沢大仏教学部卒。曹洞宗・長寿院(千葉県成田市)住職。NPO法人「自殺防止ネットワーク風」理事長。「風」は全国・ニューヨーク合わせて55カ所に相談窓口を開設。著書は『もしもし、生きてていいですか?』(ワニブックス)『どんなときでも、出口はあるよ』(WAVE出版)など多数。