トラックよりも畦道を
哲学者・大谷大学教授 鷲田 清一  2014年9月17日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
「想定外」への対応力育め
鷲田清一

 陸上男子400メートルハードルの選手として、シドニー、アテネ、北京とオリンピックに連続出場した為末大さんはいま、全国各地でスポーツ教育に取り組んでいる。その為末さんから先日うかがった話は、なかなかに含蓄の深いものだった。


 ハードルは、都会だと習っている子もいるのでそれなりにうまく跳べる子が多いが、ハードルにぶつかって動きが崩れたときにすっと立てなおす能力は地方の子のほうが上、都会から離れれば離れるほど高くなるというのだ。
 都会の子は運動場や競技場のトラックで練習する。整備されたトラックではそれなりの力を発揮するが、凸凹やぬかるみのある普通の道で足を取られたり、転びそうになったときの回復力に劣る。畦道あぜみちで練習している田舎の子のような、不測の事態への臨機応変の対応力が育たないということなのだろう。
 子の話を聴いて、安倍内閣が推進しようとしている「教育改革」は、標準化されたトラックをさらに一元管理し、生徒たちにそこを走らせようとしているのだとおもった。
 第一次安倍内閣の教育再生会議は「ゆとり教育の見直し」から始めた。第二次内閣では教育再生実行会議を立ち上げて、当初のもくろみを一気に加速する。「成長戦略に資するグローバル人材育成」を謳うたい、それに合わせて教科書改定や大学入試のあり方を見直し、道徳と小学英語を教科化し、6・3・3という学制の改革にも踏み込む。
 さらに、教育を「未来への投資」としてとらえ、その成果をより効率的に得るために、「優れた教師に対する顕彰を行い、人事評価の結果を処遇等に反映するとともに、諸手当等の在り方を見直し、メリハリのある給与体系とするなどの改善を図る」(7月の第5次提言より)。そして教育行政の責任者である教育長の任免権を首長に与える…。
 提言の注に、子の提言を危ぶませるデータが載っている。経済協力開発機構(OECD)の調査では、中学校段階の教員の一週あたりの勤務時間は、参加国平均が38.3時間なのに対して、日本はなんと最長の53.9時間。授業時間に大きな相違はないから、積み増し分は、課外活動の指導・監督、内申書の記載、保護者からのクレーム対応、そして何より業務評価のための書類作成に割かれているのだろう。


 上からの指示で教育課程と制度がころころ変わるたびに、子どもたちにかかるその衝撃を少しでも和らげようと体を張ってがんばってきた教員たちも、提言どおりの「改革」が進めば、トラック整備に心身をすり減らし、走者である生徒一人ひとりと向きあう時間をいま以上に削るほかなくなる。
 こういう生き方もありうる、こんな価値観もあるというふうに、子どもに生き方の軸となるものの多様さを教師がみずからの背で示す、あるいは過去の人物に託して語る…。そういうふうに将来の可能性の幅を拡げるところに教育の意味はある。「提言」は逆に、整備された道ならうまく走れるが、不測の事態にうまく対処できずへたり込むばかりの、そんな子どもを育てたいかのようである。「想定外」の事態にどう対処するかの能力が、生き延びるためにもっとも重要だということを、わたしたちは福島の原発事故で思い知ったはずなのに。