唯識からみた人間関係
多川 俊映 たがわ・しゅんえい 興福寺貫首 2013年4月13日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
すべてを心に還元
一人ひとり違う世界 [上]

 仏教に「唯識ゆいしき」という考え方がある。奈良の興福寺や薬師寺の法相宗ほっそうしゅうは、この唯識を教義にしている。こうした唯識仏教を紹介するため、筆者は2009年(はじめての唯識)と10年(唯識に学ぶ)の二度、本紙に寄稿した。今回は、その唯識からみた人間関係について考えてみたいと思う。
 その前に、唯識仏教の概略を述べなければならないだろう。唯識ということを一口でいえば、あらゆることがらをすべて心の要素に還元し、心の問題として考えようとする仏教だ。
 あらゆることがらであるから、ふつう物質と考えられているもの、たとえば、私たちの肉体も、そして、その肉体を取り囲んでいる自然界も、実は、私たちの心の深層がかかわっているのだという。
 また、浄土の問題も、たとえば、西方極楽浄土のように、十万億土の西のかなたにある浄土に行くのではなく、「唯心浄土」といって、わが心の浄(土)化こそ問題なんだ、と考えるのだ。なお、当面、識と心は同じ、と思ってもらってよい。
 こういう仕儀なので、いわば心理学のように、心の構造とそのはたらきについて、きわめて精密に考察している。
 そのなか、心の構造が、まず深層心の「阿頼耶識あらやしき」が想定され、その阿頼耶識から意識下の「末那まな識(無意識の自己中心性・自己愛)」、そして、表面心の「意識(知・情・意にわたるいわゆる心)」と「前五識(五感覚)」が転変し、私たちの日常世界が展開していると考えるのだ。


 深層心の阿頼耶識は、一人ひとりの<私>の世界を作りだす心的基体。つまり、大本といえるものであるが、同時に、<私>の善悪にわたる行為・行動の情報が蓄積される場でもある。
 というか、阿頼耶識の阿頼耶は、サンスクリット語のアーラヤ(蔵、保有する意)の音を漢字に写した音写語。つまり、阿頼耶識には、<私>の過去のすべての行動情報が保存されていて、それらを内容とする現在の<私>がいる、という考え方だ。
 つぎに、末那識は、意識下ではたらく自己中心性・自己愛で、絶えず表面心の意識に向かって、自己中心性や自己愛の正当性を声なき声でささやいているという。
 そして、いわゆる心に相当する表面心の意識は、その無声のささやきに絶えず引きずられて動かざるを得ないのだという。この意識は、私たちがきわめて深い瞑想めいそうに入った時や、熟睡・気絶のほかは、唯識の基本テキストに解説されるように「意識は常に現起」しており、いわば、<私>の日常生活の現場というか、最前線ではたらくものだ。
 また、前語識は、いわゆる視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の五つの感覚のことで、これらの能力は一体に、個体差が大きい。


 以上、心の構造を駆け足でみてきたが、ここですぐわかることは、一人ひとりの<私>の心は皆、違うということであろう。
 深層心の阿頼耶識は過去の行為・行動、言い換えれば、経験や体験の情報を蓄積保存するから、その内容は当然、人さまざまである。
 また、表面心の意識は、問題意識の有無や濃淡、真・善・美に対する意欲、あるいは、物事に対する好悪の感情など、これらも人さまざまだ。そして、五感覚の前五識は、感覚の個体的条件が人それぞれだから、その能力は微妙に相違しているだろう。
 なお、自己中心性・自己愛は、意識下の末那識のほか、表面心の意識にもあり、その濃淡は当然、人それぞれだ。
 こうしてみれば、まさに人それぞれであり、一人ひとりの<私>の世界はきわめて独特なもので、私たちの世界は一人ひとり違う。これを「人人じんじん唯識」というが、そうしたさまざまな世界からみれば、たとえば、手を打つという単純な音も、聞く側によって、意味が違うのだ。
 手を打てば 鯉こいは餌と聞き
 鳥は逃げ 女中は茶と聞く
 猿沢の池

 唯識の寺・興福寺には、こんな道歌が伝わっている。

一人一宇宙
豊かな過去を背負う [下]

 前回(13日付)は、「手を打てば/鯉は餌と聞き/鳥は逃げ/女中は茶と聞く/猿沢の池」という唯識道歌を紹介した。
 手を打つという単純な動作、そこから出る音も、鯉は餌にありつけると思って水際に近づいてくるが、鳥は驚いて逃げてしまう。また、女中とは古いが、猿沢池畔の旅館の仲居さんだろう、お客の茶の催促と受け止める。
 同じ音でも、聞く側によって意味が全然違う。つまり、私たちは皆、互いに相違する認識世界に暮らしているということだ。しかし、どうしたことか、私たちは、この明白な事実が意外にわかっていない。人間関係が絶えずギクシャクするのは、おおむねそのためであろう。
 逆にいえば、人間皆一人ひとり独特の<私>の世界をもって生活している、という理解に立てば、私たちの人間関係も、おのずから豊かに展開していくのではないか。
 前買い、唯識仏教に「人人じんじん唯識」という言葉があることを述べた。これを、ある唯識仏教者は「一人一宇宙」と言い換えたが、言い得て妙だ。私たち一人ひとりの阿頼耶識あらやしきに蓄積保存された行動情報はじつに独特で、一人ひとり、まさに違う世界を生きているわけだ。人間関係を考える場合、この違うということがポイントではないかと思う。
 ところで、問題は、阿頼耶識という深層心に記憶された行動情報の中身である。仏教ではそもそも、いのちというものをこの世の生存だけでなく、前世・今生・次生という長いスパンで考えるので、唯識仏教の過去も当然、前世の経験・体験を含んでいる。


 と、こういえば、――もうついていけない、といわれるかもしれない。が、たとえばである、齢よわい63と60の兄弟が、同じ両親から生まれ、同じ家で成長し、同じ家業に従事していても、ほとんどの場合、兄と弟では人間性が違うのは、どうしてか。ということになると、やはり、私たちのいのちというものは、この世のたった60年、63年という短いスパンだけで解決できないものを含んでいるとみなければならないのではないか。
 話はややわき道にそれたかもしれないが、私たち一人ひとりの過去は、それほどの重みをもったもの。そして、それに押し出されるかたちで、現在の<私>がいる。つまり、一人ひとりの人間とは、それほどの重い存在・独特の存在であり、もうそれだけで、すでに個性的な存在だということであろう。
 しかし、どうしたことであろう、私たちの日本社会では、なにかにつけて「皆同じ」というところから発想される傾向にあるのではないか。
 たとえば、いま大きな社会問題になっているイジメも、同質性が好まれる環境の中、違うとグループからはじかれ、イジメの対象になる。
 親しいセラピストから、こんな話を聞いた。――下校する生徒数人のグループが、電車の中でワイワイガヤガヤお喋しゃべりしている。会話の中身はよくわからないが、皆口々に「そうそう、そうだそうだ」と、意見の食い違いはなく、仲良しグループの趣だ。


 そうこうしているうちに、電車が駅に着くごとに一人また一人と降りていったが、最後に残った生徒が実に印象的に、ほっとした顔をしたというのだ。
 その生徒はおそらく、ほんとうは違う意見なのだが、意見を口にする雰囲気ではないわけだ。こうしたことが、私たちの社会のいたるところにあるとすれば、大いなる不幸というほかはない。
 私たちを取りまく世界は、まさに人人唯識の世界である。一見、同じようにみえても、私たちは一人ひとり皆違う世界を抱えて、こんにちただいまを生きているわけだ。
 自分自身はもとより、目の前にいる彼や彼女もまた、豊かな過去に押し出されて、いまここにいる。そして、どういうご縁かはともかく、彼や彼女とさまざまな人間関係を結んでいる。考えてみれば、もうこれだけで、私たちはもともと、実に豊かな世界にいることがわかる。
 それを、私たちはどうしたことか、狭く貧しい人間関係に貶おとしめている。そもそも、生きるというのは人間関係がすべてだ。それが狭く貧しければ、人生そのものが狭く貧しいということにほかならない。
 せっかくいただいたいのちである。私たちも、自他の阿頼耶識に蓄積保存された豊かな過去に思いをはせ、個性的な人人唯識の世界を互いに関係づけたいではないか。

たがわ・しゅんえい 1947年、奈良県生まれ。立命館大文学部卒。興福寺貫首。著書に『はじめての唯識』(春秋社)『唯識 こころの哲学』(大法輪閣)『合掌のカタチ』(平凡社)など多数。