するべき苦労 怠らずに
哲学者・大谷大学教授 鷲田 清一  2013年3月6日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
責任を負うということ

 この国から「責任をとる」ということばは消えうせてしまったのだろうか。「尻尾を切る」という、組織によるあざとい責任のとり方はあっても、あるいはだれかに責任をとらせずにはすまさないという、メディアやネットの攻撃についに抗しえず、世間に「ご迷惑をかけた」とトップが責任をとらされることはあっても、見事といえるような責任ととり方にはめったにふれることがなくなった。


 原発事故をめぐっても、つい先頃、敦賀原発の活断層調査の報告書原案を役人が事前に電力会社に渡していたという事実が発覚したが、これも「個人の過ち」として訓告処分と出身官庁への更迭というかたちで処理され、組織としての責任は問われなかった。
 体罰を苦にして生徒が自殺した大阪市立桜宮高校の入試においても、教育委員会は、体育科とスポーツ健康科学科の入試を中止決定したあと、それを普通科に振り替え、しかも二つの学科とおなじ試験科目、おなじ配点で判定をおこない、4月から授業内容もスポーツに特化したものにすることにした。形は変えたが中身は何も変わらない。生徒たちはそれを見て、ああ、大人というのはこういうふうに辻褄つじつまを合わせて終わりにするのかと思ったはず。結果として最悪の実物教育となった。
 責任をとらなくなったのか、システムにがんじがらめになって責任をとれないのかは別として、責任を負う、あるいは果たすということの意味が、責任を問いただされる、とらされるといった受動形にずらされてきたようにおもう。「自己責任」という語もそうだが、「悪いのは、~だ」「~のせいだ」という帰責の意味に。


 もう十数年前のことになるが、北海道・浦河町の精神障がい者施設・べてるの家をはじめて訪問したとき、こんな話を聞いた。メンバーが喧嘩けんかをして物を壊したり、壁に穴を開けたりしたとき、べてるの家では、詰問されるのでなく、修繕の代金をしっかり請求されるという。そしてそういうかたちで施設に貢献していると、施設の人たちから賞賛されるのだという。代金を請求されたその人はわたしに「べてるっていうのは責任をとらしてくれるのがいいね」と言い、施設の責任者だった向谷地生良さんは「変に甘く無条件に受け入れるというよりも、徹底してその人のものはその人に返してあげる、きちっと返せよ、って」と言っていた。
 そのこころは「苦労を取り戻す」ことにあるという。苦労をするということが大事で、人間は、しておくべき苦労、跨またぎ越してはならない苦労というものがある。そして、障がい者たちはこれまで苦労をさせてもらえなかったのであり、だから、苦労を引き受ける主人公にそれぞれがきちんとなれるよう、その苦労するチャンスをこそ守る装置としてべてるの家があるのだ、と。
 責任のことを英語でリスポンシビリティという。文字どおり「応える用意がある」という意味だ。リスポンドはラテン語のレ・スポンデーレに由来する。約束し返すという意味だが、この「レ」にはくりかえし(約束し)続けるという意味もきっと含まれているのだろう。責任とは、進んで負うものであって、とらされるものではないことを、この語源は教えている。