震災から2年
田口 ランディ たぐち・らんでぃ 2013年3月2日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
心の静寂を求めて
救いとは何か 答え探し [上]

 2011年、震災の年、わが家では同居していた義父母が相次いで亡くなった。
 義父は92歳、義母は93歳、弔問客から「大往生ですね」と慰められたが、幾つで亡くなろうと死は死である。
 義母は脳梗塞で倒れ、入院中に肺炎で亡くなった。妻を亡くした義父はすっかり落ち込み生きる気力を失い認知症が悪化した。夜中に転んで大腿だいたい部を骨折、入院中にめっきり食が細り、妻の後を追うように老衰で逝った。
 ニュースは震災一色だったが、私たち夫婦は両親の看護に忙殺された。何万人という人が亡くなったという。その人たちの死が、義父母の死と重なっていく。目の前に見せられた<死の平等性>に、日常と非日常の遠近感が狂っていく。人は死ぬのだ…と思った。死という運命から誰も逃れられない。でも、それを語ることはためらわれた。


 義父母は戦争を体験している。義父は3人兄弟だったが兄と弟は戦地から帰っては来なかった。同居するようになってから義父が夜中に叫び声をあげ廊下を走るので驚いた。うなされているのだ。たぶん戦争中のことが夢に甦よみがえっていたのだろう。
 私の住む地域は原発事故による電力不足を補うための計画停電地域だった。病院に通うにも、信号機が作動せず危険で怖かった。真っ暗な中でろうそくを灯ともして義父と食事をした。義父は秋になったと思ったらしく「早く日が暮れるなあ」と不思議そうにしていた。
 義父母をみていると、彼らも被災しているような気がしてきた。老いて記憶を失ったり、能の血管が切れて半身不髄になるのは、当人にとっては突然の惨事。何が起きたかわからぬまま混乱し、それでも人は人生を受け入れていく…しかない。
 この年、私は激しく仏教に惹かれていくのだが、それは人間にとって「救い」とは何かが、わからなくなったからだと思う。
 被災者とは誰なのか。たぶん、義父母と同じように個々の運命と立ち向かっている人たちのことなのだ。では、その個々の人たちの苦しみを救うのは「支援」なのか。
 骨折した義父は医師から「がんばってリハビリしましょう」と言われた。だが日々老いていく義父が、元の状態に戻ることはない。老いは病ではないから、治療が目的の医療では手に負えない。では義父に必要なものは何か。
 震災後「復興」という言葉を何度聞いたことか。元に戻すことが幸せなのか。なんだか違う気がした。
 義父の様態が悪化したとき、私たちは義父を在宅で看取みとることに決めた。親族が集まって、別れの時間が始まったとき、不思議な体験をした。臨終に至るまでの3日間、私の心はかつてないほど静かだったのだ。
 淡々と介護と雑用をこなし、落ち込みもせず興奮もせず、まるで映画を観ているように日常を眺めているもう一人の自分がいる。自分であって自分でないような、とても透明な状態になっていた。ぼんやりしているようでいて、意識は明晰めいせき。疲れも億劫おっくうさも感じなかった。


 義父が旅立って、お葬式が終わったとたん、私のその状態も終わってしまった。心がざわつき、不満がわいてくる。エゴが戻ってきたのだ。心配、不安、怒り、感情に振り回される自分に戻っていた。
 あの静けさはなんだったのだろうか…。心が湖面のように世界を映していた。あの静けさの中で日々暮らしていけたらいいのに、なぜできないのだろう。
 震災から1年目、私が考えていたのはそんなことだった。もう一度、あの静けさを取り戻したい。そこに自分の求めていた答えがあるような気がした。それで、座禅や、瞑想めいそうを始めるのだ。外的には原発の歴史の本を書いたり、福島の子どもたちの支援活動に携わり慌ただしかった。でも、内側では心の深い部分に潜ろうとしていた。そうしないではいられなかったのだ。
 裡うちへ、裡へ…と。

深く瞑想する時代へ
己の内面と向き合う時 [下]

 震災後に、私は突然「ブッダについて書きたい」と思いたつ。生老病死の苦しみの根源を見切り、救われる道を説いた人。いったいブッダが得た悟りとはなにかを知りたかったのだ。
 僧侶、研究者、さまざまな方たちと会って対話をするのだが、そうこうするうちに、困ったことが起こった。精神状態が不安定になり、感情が抑えられなくなった。
 私は震災の年に亡くなった義父母や、被災した方たちにとっての「救い」について考えていたのだが、救いを他人事として求めているうちは、仏の教えに近づくことすらできないと痛感した。震災から二年目に起こった大きな変化だった。


 救われなければならないほど自分が困っているとは思っていなかった。健康だし、なんとか仕事もうまくいっている…と。だが、それは勘違いであったことに気づかされてしまう。
 仏の教えを知りたいと願ったことによって露あらわになったのは、私が見ないようにしてきた私の心…内面だった。
 原発への怒りの奥にあったのは個人的な親への怒り。人の心は自分でもはかり知れないと思い知る。
 日々の暮らしの中で、抑圧してしまった感情、無念、満たされなかった思い、挫折、嫉そねみ、そのようなものが心に垢あかのようにたまっていき、いつしかものの見方や考え方まで歪ゆがめている。それが「許せない」という怒りや、「耐えられない」という苦しみの温床であることを、仏教は教えていた。
 自分にはそんなものはない、とたかをくくっていたが、震災という事件が私の表層の皮に傷をつけ、内側からじくじくと膿うみが出てきた。正直、不愉快な気分だった。
 社会的な問題に向き合えば向き合うほど、自分の言葉が空虚に響く。偉そうなことを言っているけれど、おまえの心は揺れ動いているじゃないか…と、声が響く。
 そんななかで執筆したのが「サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて」という作品だった。サンカーラとはパーリ語で「諸行」を意味する。震災後の社会と自分の内的葛藤を重ね合わせて書いた。
 他者を救済したいなど、自分のエゴにすぎず、自分の心が放ったらかしであることを、ブッダを求め思索するうちに知らされる。仏とは、なんとありがたくも恐ろしい存在だろうか。
 その後に体験することは、まったく不都合でのみ込み難い、自分の頑固さとの対決であり、それはいまもまだ続いている。
 「サンカーラ」の読者の感想を読むうちに、震災後にこのような体験をしているのが私だけではないことに気づいた。多くの人が人知れず、震災を通して内的な変容を促されている。あの地震は、人の心も揺らしたのだ。
 仏典によれば悟りを得たブッダはこう語る。「私が正しい悟りを得たなら大地は大きく揺れるだろう」。ブッダが手をつくと、大地は応えて揺れたという。
 鳥も獣も人間も、命は死ねば大地に還かえる。大地はあらゆる命も分け隔てなく受け入れ、育む。その大いなる慈悲ゆえにブッダは大地に己を問うたのか。もしや、地震国に住んでいる私たちは大地によって揺り覚まされているのか。


 昨年、小さなライブハウスで「ブッダと瞑想めいそうの夜」という催しを行った。若い方たちの申し込みが殺到しすぐ締め切りとなった。震災からニ年目、他者に向いていた皆の心が、ゆっくりと己に戻っているのを感じる。それぞれが静けさを求め、深く瞑想をする時期に入ったようだ。
 仏教に関する本もたくさん出ているが、どうも仏の教えはそれぞれの人生を通して個別に届くようだ。私を離れたところに答えはなく、激しく心が見られるからこそ、もがくように静けさを欲す。
 ブッダが行っていたというヴィパッサナー瞑想を伝えるお寺には、年初からたくさんの人が詰めかけており、真剣に指導を受ける若い人たちの姿が目を引いた。
 瞑想、座禅…心を静めることを続けていると、確かに変化が起こる。だが、それは手段であって目的ではない。
 目的を求めずただ生きることを、無駄だと思う自分との葛藤はいまも続いている。
 溺れるからこそ、人は藁わらをつかむのだ。
 岸辺で仏が笑っている。

たぐち・らんでぃ 1959年、東京都生まれ。作家。2000年『コンセント』(幻冬舎文庫)で作家デビュー。『ヒロシマ。ナガサキ、フクシマ 原子力を受け入れた日本』(ちくまプリマー新書)。近著に『マアジナル』(角川書店)『サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて』(新潮社)。10年から「原子力と対話」をテーマにダイアローグ研究会を開催。