道元に学ぶ生き方
頼住 光子 よりずみ・みつこ 2013年2月2日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
今しなければ いつするのか
日常の行為に徹せよ [上]

 今、禅が静かなブームになっている。坐禅会が各地で開かれ、東京・青山のカフェで行われるイス坐禅も人気を呼んでいるという。先ごろ亡くなったアメリカのIT起業家、スティーブ・ジョブズ氏が、禅の教えに深く傾倒していたことも話題になった。
 鈴木大拙は、著作『禅と日本文化』で、武道、茶道、水墨画、俳諧などの日本の伝統文化と禅との深い関係を論じたが、昨今の禅ブームには、単なる伝統文化への興味にとどまらない切実さが感じられる。閉塞へいそく感が重くのしかかる先ゆき不透明な時代にあって、禅は「心の糧」として多くの人々を捉えている。
 二千数百年前の釈迦しゃかの菩提樹ぼだいじゅ下の開悟成道を源とするともいわれる禅が、今なお新たな魅力をもって人々をひきつけるのはなぜなのだろうか。この答えを、日本における禅の出発点ともいえる道元(1200~53年)にさぐってみよう。


 道元の思想的展開は、その中国留学からはじまる。そこで道元は、何人もの優れた禅僧と出会い、衝撃を受けた。自分がこれまで日本で抱いていた禅に関する思い込みが破られたのである。たとえば、道元が禅寺の炊事を担当する典座てんぞに対して心構えを説いた『典座教訓』には、次のようなエピソードが伝えられている。
 道元が中国の天童山で修行していたある夏の日のこと、昼食を終えた道元が廊下を歩いていると、仏殿の前で一人の老いた典座が、料理に使う海藻(椎茸しいたけとも)を干していた。背骨の曲がった老僧は、真夏の太陽に照らされて苦しそうにあえぎながら、一心不乱に仕事を続けていた。
 道元が、「そんなことはお付きの者にでもさせたらいいでしょう」と声をかけると、老典座は、「他はこれ吾われにあらず。――他人がしたのでは、自分がしたことにはならないのです。自分がやるのです」と言った。
 道元は、さらに、「あなたのおっしゃることはもっともですが、こんな炎天下にわざわざする必要があるのでしょうか」とたずねた。老典座は、「さらにおいずれの時をか待たん。――今しなければいつするのですか」と答えた。老典座の覚悟に接して、道元は沈黙するしかなかった。
 日本の禅院では雑役でしかなかった台所仕事が実は修行として重要な意義を持つことに、この時、道元は気付いた。禅の修行というと、毎日、何時間も坐禅をしたり、語録を読んで優れた禅僧の言行を学んだりすることだと、それまでの道元は考えていた。
 しかし、老齢にもかかわらず、典座としてのつとめを果たそうと、今、ここでなすべきことを一心に行う老僧の姿に接して、道元は、はじめて理解した。台所仕事をはじめ日常の一つ一つの行為こそが修行であり、坐禅と同等の意味をもつのだということを。
 坐禅とは、姿勢と呼吸と心をととのえ、静かに座ることであるが、坐禅によって何かが達成されるわけではない。むしろ、それは、何ものをも目的とはしない、それ自身だけで充実し、完結した行為だといってもいいだろう。


 私たちがこの世でおこなう行為のほとんどは、何かのための手段である。たとえば、勉強するのは、いい大学に入るため、いい学校に入るのは、いい会社に入るため…、このように手段―目的の連鎖が限りなく続き、その連鎖の中にいる人間は、つねに目的達成のために追いたてられ、手段としての行為を、果てしなく積み重ねていくしかない。
 このような連鎖を断ち切るのが、坐禅なのである。そして、もし、日常の一つ一つの行為を坐禅と同じように、何かのための手段ではなくて、それだけで充実した行為として行うことができるのであれば、それは坐禅とおなじく禅の修行として大切な行為となる。禅寺で調理や掃除をはじめとする作務が重んじられるのはまさにこの意味なのである。
 道元が老典座のエピソードを通じて私たちに語っているのは、「何かに役立てよう」という考えからいったん離れて、今、ここ、この私に徹せということではないだろうか。

自己をならい、自己を忘れる
万物とつながる中で [下]

 仏道修行は、「己事究明こじきゅうめい」であるという。つまり、「自己とは何か」を本当の意味で理解することを目指すのである。
 「自己とは何か」を説明することになったら、多くの人は、自分の名前や職業を言うかもしれない。しかし、仏道修行によって明らかにされる「自己」とは、そのようなものではない。
 名前にしても職業にしても、それは後天的なものである。いわば、自分があとからまとった衣装である。それらの衣装を一枚一枚脱ぎ捨てていったら、果たして何が残るのか。何も身に着けていない「裸の自己」をどのように考えていたのか。「日本思想史上、最高の哲学書」とも呼ばれる主著『正法眼蔵しょうほうげんぞう』 (全87巻)の一節を手掛かりとして考えてみよう。


 最初の巻、「現成公案」巻に次のような一節がある。
 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは自己をわするるなり。
  先に述べたように、仏道修行とは、「自己とは何か」をを明らかにすることである。しかし、道元は、それは「自己を忘れる」ことだという。つまり、「裸の自己」を問うことは、「自分とは~である」というような固定的な答えを獲得することとはまったく違うということで、自分を忘れてしまうことである、というのである。
 「自己を忘れる」とは、いってみれば、「自分に対するこだわり、執着がなくなる」ことである。「自己とは何か」と追い求めていたはずなのに、追い求めていった結果、もう自己にはこだわらなくなったというのである。なぜそうなるのかを、続く道元の言葉を手掛かりにさらに考えてみよう。
 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心しんじんおよび他己たこの身心をして脱落せしむるなり。
 道元は、「自己を忘れる」ということは、自分を忘れて何もなくなってしまうことではなくて、「万法に証せらるる」ことだという。「万法」とは、あらゆる存在を意味し、「証する」は「悟る」ことである。つまり、自分が自分を忘れている、つまり自分への執着から離れているのは、万物によって悟らせられているからだというのである。
 このことをさらに説明するのが、次の「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」という文章である。ここで注目したいのが「他己」という言葉である。道元がしばしば使うこの言葉は、要するに「他」という意味であるが、それに「己」がつく。ここには仏教の、「自」と「他」に関する考え方があらわれてる。
 仏教では、「他」は自己と対立するものとは考えない。自己と自己以外のすべてのものは密接に関わっており、他があるから自己もあるし、自己があるから他も成り立つ。他は自己との関わりの中ではじめて他となる。これを一語であらわしたのが、「他己」という言葉である。そして、「脱落」とは「解脱げだつ」であり、いっさいの執着がなくなることであり、それは「悟り」と言うこともできる。
 自分とそれ以外のものとは、本来、別々のものではなく、互いにはたらき合い、つながり合って、互いを成り立たせ合っている。「万物によって悟らせられる」ということは、本来、そのような関係の中にあったことに気付くことである。本来、そうであったからこそ、そのことに気付ける。万物とのつながりに気付くことによってはじめて、自分へのこだわり、他への執着から解放されるのだ。


 自分と万物との密接なつながり合い、はたらき合いのなかで、日々刻々と、新たに「今、ここ、この私」が立ち現れてくる。これを自覚すること、それこそが禅の求める「悟り」といえるだろう。
 最初の問いは、「自己とは何か」であった。この問いを追い求めた果てに、他から切り離され、何によっても影響されない「本当の自分」などは、そもそもなかったということが分かる。
 「裸の自己」とは、まさに他とのつながり合い、はたらき合いつつ立ち現れてくる「今、ここ、この私」なのである。さまざまな執着や思い込みから脱して、「今、ここ、この私」を生きることが、真に自由に充実して生きることだと道元は教えているのではないだろうか。

よりずみ・みつこ 1961年、神奈川県生まれ。東京大大学院博士課程修了。現在、お茶の水女子大教授。専攻は倫理学・日本倫理思想史。著書『シリーズ・哲学のエッセンス 道元』『NHKブックス 道元の思想』(NHK出版)『日本の仏教思想』(北樹出版)など。