自由主義の自傷
哲学者・大谷大学教授 鷲田 清一  2013年12月18日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
損なわれた確かな議論

 全文を読んで、条文の正確な意味からおのおのの字句が含意するものまで、すぐに読み取れる人は、日頃こうした作文をしている人以外にいないのではないかとおもう。特定秘密保護法案のことだ。
 法律だから一条読むたびに「第○条○項」の規定や「○○法第○号」の参照を求められるので、頭がこんがらがってくる。「ただし、○○の規定により○○は除く」とのただし書きもひっきりなしにつく。それに大事なところにかぎって、「その他必要な事項」とか「~に準ずるもの」「~に支障を与えるおそれがあるもの」「著しく不当な方法によるものと認められない限りは」といった曖昧な表現がなされている。言論と表現の自由を封じるところまで過剰解釈や拡大解釈ができて、このままではとても受け入れることのできないものである。
 採決にいたるプロセスも破綻していた。短時間の公聴会をアリバイのように二度だけ開いたが、法案やその審議過程を憂う声、反対の声に耳を傾けなかった。法案に対する疑義への答えも、採決を急ぐ理由の説明も、ろくになされなかった。理を尽くすことのないまま、採決になだれ込んだ。その後、首相は「反省」を口にしたが、その内容は「国民の不安の声」に耳を傾ける意思さえあればいつでもできることばかりだった。
 組織の改革についての議論は、その議論の形じたいが改革への方向を先取りするものでなければならない。組織内の意思疎通を図ろうというのなら、それについての議論じたいがすでにこれまでとは違う形になっていないといけない。たとえば発言しやすいよう座席のレイアウトを変えるとか、いずれの世代も等しく参加できるような仕組みにするとか。
 それを裏返しにあらわにしたのが、参院での採決にいたるまでに政府と政権政党がとった手法であった。それはまさに憂うべき未来を先に見せつけられるものであった。


 法案を提案した内閣は、「建前」としては自由主義を掲げる政党によって構成されている。その自由主義について、スペインの思想家、オルテガ・イ・ガゼットはかつて、《寛容》がたやすいものでないことを熟知したうえでこう書いた——
《自由主義は……かつて地球上で聴かれたもっとも気高い叫びである。自由主義は、敵との共存、それどころか弱い敵との共存を表明する。人類が、かくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである》(『大衆の反逆』神吉敬三訳)
 世界史のなかで「文明国」がこぞって擁護しようと努めてきたその価値が、法案の審議過程で損なわれた。こんなことを想起すればいっそう気落ちしてしまうが、リベラルとは、辞書に従えば、まずは「気前のよい」であり、次に「寛容な」である。
 政治とは、対立する意見のいずれに理があるかを公衆の前で言葉で競う、そういう説得の術である。そこでは、言葉への信というものが命綱だ。そして確かな議論のためにはその材料となる情報が十分に公開される必要がある。知る権利がつねに最大限確保されねばならない。戦時中の、近くは福島第一原発事故における情報隠蔽がどのような惨事をもたらしたかを、ゆめゆめ忘れてはならぬ。