余白のある人生
山田 史生 やまだ・ふみお 2013年12月21日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
画竜点睛と蛇足
やり残しても悔やまず [上]

 年の瀬になると、ついグチってしまいませんか?今年もなんにも成し遂げられなかったなあ、と。いけませんねえ。ちっとも悔やむことなんかありません。というか、やり残したことがあるほうがいいんじゃないでしょうか。
 「画竜点睛(竜を画えがきて睛ひとみを点ず)」という言葉があります。事業を完成するために、最後に仕上げとして肝心なものを加えることです。
 張僧?ちょうそうようという天才絵師がいました。その腕前はほとんど神がかっていました。時の皇帝は仏教にあつく帰依してして、たくさんの寺院を建てましたが、その壁画をしばしば張に描かせました。安楽寺の壁にも張は四頭の竜を描きました。ところが、その竜には目玉が描かれていません。張は「もし目玉を描こうもんなら、すぐさま飛び去っちまう」といいます。人々はデタラメだとおもい、無理に描きこませます。たちまち雷鳴とともに稲妻が壁を突き破り、竜は天高く昇ってゆきました。
 神の域にあるものの仕事を、人間のぶんざいで値踏みすることはできません。絵師の言葉を信じず、せっついて目玉を描かせたもんだから、いのちを吹きこまれた竜は天へと昇ってしまいました。せっかくの「画竜」が、下手に「天睛」したばっかりに消えてしまったわけです。


 「蛇足」という言葉があります。中国語では「画蛇添足がだてんそく(蛇を画きて足を添う)」といいます。余計なものを加えることによって成果を台無しにしてしまうことです。
 酒を賭けて、蛇の絵を描く競争をしました。真っ先に描きあげたやつが、余裕をかまして足を描き加えていると、遅れて描きあげたものが「蛇に足はない。お先に失礼」といって酒を飲んでしまいます。有りもしない足を描こうとして、酒を飲みそこなってしまったわけです。
 「画竜点睛」は最後に大事なものを描いて完成させることです。「画蛇添足」は最後に無用なものを描いて失敗することです。描くことによって立派に仕上がる場合もあれば、描くことによって元も子もなくなる場合もある。要するにケース・バイ・ケースってことでしょう。
 「画竜点睛を欠く」のも「蛇足をつける」のも、どっちもダメなんだけど、個人的には蛇足のほうがまずいような気がします。こんな話を聞いたことがあります。


 ある研究会で、某氏がカントについての非常に細かい発表をした。面白いんだけど、あまりに話がちっちゃい。発表後、偉い先生がカントについての演説を長々とぶつ。懇親会のとき、偉い先生に「あれは蛇足でしたね」と口走ってしまう。それから事あるごとに「蛇足だったか」と嫌味をいわれて閉口する。偉い先生、亡くなるまで根にもちつづける。
 蛇足ではなくて「老婆親切ろうばしんせつ」というべきでしたね。あ、老婆親切という言葉、ご存知ですか?老婆のように心づかいが親切なことです。つまり余計な世話を焼くことなんだけど、これなら蛇足よりも当たりが柔らかだったかもしれません。
 それはさておき「画竜点睛」ですが、日本語では、もっぱら「画竜点睛を欠く」というかたちで使われます。竜を描いたら、ちゃんと目玉まで描かなきゃダメだよ、という意味で使うわけです。「あと一歩なのに、惜しいなあ」という感じでしょうか。
 でも、目玉を描きこんで完成させたりすると竜は飛び去っちゃうんじゃなかったっけ? だったら「画竜点睛」することは、むしろ「蛇足」に似た行為じゃないでしょうか。下手に完成させたりすると、かえって元も子もなくなるってことはないでしょうか。
 さて困った。「画竜点睛を欠く」のはダメ、「蛇足をつける」のもダメなら、どうすりゃいいの?気をもたせるようで申し訳ありませんが、つづきは来週のこの欄で。

諦めるのも悪くない
完成の手前にこそ味わい [下]

 「画竜点睛を欠く」のは不足してるんだし、「蛇足をつける」のは余計なんだから、ちょうどいいのが「いい加減」なんでしょうね。でも、それができるくらいなら世話はない。
 正直にいうと、画竜点睛の話を読んで、「わが意を得たり」とほくそ笑んでいました。これで堂々と中途半端でいられる、と。しかし、よく考えてみたら、じっさい目玉を描いてみなけりゃ、その結果どうなるかはわかりません。目玉を描いてみた結果、ひょっとしたら大成功するかもしれない。だったら目玉を描かないと損です。吉と出るか凶と出るか、やってみなきゃわからない。どうしましょう?


 「仏作って魂入れず」という言葉があります。「画竜点睛」と似たような意味です。でもなあ、下手に魂が入っちゃうと始末に困るってことはないかしらん。
 同僚の彫刻家・塚本悦雄さんが、小生の胸像を作ってくれました。見事な出来で、モデルの私が見ても、本人よりも本人なくらいです。「これ魂は入ってるの?」「いや」「よかった。入ってたら参っちゃうところだった」。偽らざる実感です。優れた芸術を見ていると、魂を持ってゆかれそうになります。
 仏像に魂を入れることには、きっと宗教的な意味があるのでしょう。美術作品として仕上げるというのとは意味合いがちがいそうです。「作品っていつ完成するの?』「完成はしないよ」「じゃあ、どこで作るのをやめるの?」「諦めがついたときかな」
 諦めるとは「明らめる」ことです。「ここらが限界かな」と明らかになったら、いさぎよく「ここまで」と諦める。迷いを断ち切るのです。「きれいに断念できるのが芸術家なのかもしれないね」というと、塚本氏は「うん。でも、ヤッターなんて瞬間がある芸術家もいそうだけどね」と笑いました。
 水墨画では「余白」が大事だといいます。余白があっても、絵として未完成なわけじゃない。水墨画における余白とは、無限の可能性を残しつつ筆を置くのでしょう。余白とはなんにもない空き地ではなく、語りにおける「間」のように、その存在によって奥行きを演出しています。われわれは余白の存在を感じており、だから「余白の美」といったりするわけです。
 老子は「持して之れを盈たすは、其の已むるに如かず」といいます。(第九章)。あふれそうな器をこぼさないように持っていると手が疲れてしまうから、満杯になるまえに注ぐのをやめたほうがいいよ、と。完成の一歩手前でやめておくのです。限りなく1に近づくけど、けっして1にはならない無限級数のイメージでしょうか。
 格好よくいえば「未完成の完成」です。完成しちゃうと、やることがなくなります。無理にやり尽くしてしまったら、もう夢がない。やっぱり「画竜点睛」は欠いたほうがいいんじゃないでしょうか。


 わたしの人生、諦めにつぐ諦めでした。
 草野球でエラーを重ねることによってプロ野球の選手になることを諦め、高校生になって試験で赤点を取ることによって東大に入ることを諦め、大学院に進んで論文をケナされることによって一流の研究者になることを諦め、気がつけばこの体たらくです。
 わたしは転機において、つねに判断を間違ってきたような気がします。最大の間違いは、大学に入って漢文病にかかり、それから回復することを諦めて中国哲学科に進んだら、あっさり漢文病がなおってしまったことでしょうか。が、いまさら漢文を読む以外にできることはない。で、ずっと職業的な漢文教師をやっています。もっと楽しい人生があったのかもしれないけど、「こういう生き方しかできなかったのだ」ということを明らめて、「これでいいのだ」と諦めるしかないんでしょうね。
 幸か不幸か、わたしの人生、余白がいっぱいです。さんざん諦めてきたおかげで、いくらやっても「蛇足」になる気づかいはなさそうです。あれも見たいし、これも食いたい。さっそく来年から始めようとおもっていることがあります。なにかって? それは内緒。

やまだ・ふみお 1959年、福井県生まれ。東北大文学部卒。弘前大教育学部教授。閃光は中国哲学。博士(文学)。著書に『孔子はこう考えた』(ちくまプリマー新書)『門無き門より歯入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)『絶望しそうになったら道元を読め!—「正法眼蔵」の「現成公案」だけを熟読する』『はじめての「禅問答」—自分を打ち破るために読め!』(光文社新書)など。