大阿闍梨の利他行
久保田 展弘 くぼた・のぶひろ 2013年12月7日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
中年に始まった回峰
限りなく死に近い行 [上]

 まだ夏の気配が残る9月23日、比叡山の「千日回峰行」を二度まで成就された酒井雄哉ゆうさい大阿闍梨あじゃりが、89歳で逝去された。目に浮かんだのは、中年で出家して以来、48年に及ぶ凄絶せいぜつな行ぎょうの人であった酒井さんの、目を細めた気さくなその笑顔であった。
 比叡山の山上山下を一千日に及んで、ひたすら真言を唱えながら駈ける千日回峰行は、そのあまりの過酷さゆえに、生死の境を駈ける行とまでいわれていた。
 それまで事業の失敗、新妻の自殺と、いくつもの人生の重荷を負いつづけてきた酒井さんが、知人とのお山参りがきっかけとなり、出家したのは39歳のことで、それから数年後、一途なその修行が評価され、比叡山の決まりを改めた特例をもって、47歳で千日回峰行に挑むことになったのである。
 7年にまたがり琵琶湖側から京都側に及んで、一日に40キロから80余キロを一千日間駈ける回峰行とはどんな行なのか。


 それは最初の三年間は、一年に百日ずつを回峰し、四、五年目にはそれぞれ二百日ずつ回峰を重ね、この時点では七百日となる。千日回峰行の半ばを超えたかに思えるこの七百日の回峰を遂げたその日の午後から、行者は無動寺谷の明王堂に籠こもる。これは二人の僧の注視のもと断食・断水・不眠・不臥ふがをもって九日間、不動明王の真言を十万遍べん唱え、法華経全巻を読誦どくじゅする<堂入り>と呼ばれる、限りなく死に近いといわれる行であった。
  生きるための基本を支えるべきもの一切を断絶したこの<堂入り>は、自分の苦しみを乗り越えようと重ねてきたそれまでの自利じりの行から、すべての他者の幸せを願う利他りたの行へと進んでいくその境界にあった。しかも<堂入り>には、毎朝二時に、二百メートルほど離れた地へ桶おけを肩に水を汲みに行き、仏前に供えるという過酷な儀礼が含まれている。
 しかしその日の朝私は、唇が乾き、目が虚ろで透き通るような青白い顔を仰ぎながらも、行中跳ぶような身のこなしを見せたその白衣姿を思い浮かべ、この人ならどんな苦行も乗り越えるに違いないと確信していた。
 私が比叡山の役僧の方に懇願して、はじめて回峰中の行者の後方を走らせてもらったのは、1975年6月初めのことだった。


 滝に打たれ、山中の行者堂でおよそ一時間の勤行を終えた午前一時。真新しい草鞋わらじをしっかりと足裏に着け、足首に結んだ紐を確認した行者は「さあっ」と両脚を左右から叩くようにして立ち上がった。
 右手に数珠、左手に提灯を下げ、さらに背丈より長い杖を手にした行者は、不動堂に向かって真言を唱え、合唱するとあっという間に闇のなかへすべるように走り去った。
 朝露を浴び、背丈よりも高い草生の急坂を、かき分けるようにして登る行者の白衣を見失わないよう必死に追いかけるだけが、この日およそ40キロの、私の初めての山駈けであった。行者の足が真言のリズムに乗るように速い。しかも息切れする様子もなく、15歳も若い私は回峰中およそ260カ所で真言を唱え、般若心経を唱える行者の間近で、息をつくだけで精いっぱいだった。
 およそ8時間余に及んだ、歩く禅ともいわれる回峰行は東塔・西塔・横川よかわへとひろがる山上の聖域を巡りながら、山中に点在する先人の墓、古樹、巨岩、水の流れといった比叡山を形成する山川草木ことごとくをカミ、仏の鎮しずもりととらえ拝んで歩く礼拝行であった。
 二十代からのフィールドワークで私はそれまで各地の霊山を一度ならず歩いていた。だが登山と回峰行の決定的なちがいは、自然を形成する一つひとつが、私といういのちと、どうつながっているのかを徹底して実感できるか否かにあった。回峰行がその実、礼拝行の名で言われるのは、人が他のあらゆる生命によって、いまここにこうして生きていることへの、無言の感謝と畏敬の念を抑え難いことによるのではないだろうか。

山のいのちに向き合う
日本宗教の根本示す [下]

 酒井雄哉ゆうさいさんの千日回峰行は1980年、五十四歳をもって満行を遂げていた。
 この、一千日の山駈けをはたした、回峰七百日目の<堂入り>を前に、役僧によって、「不動明王が利他行りたぎょうを赦ゆるすとおっしゃるなら、行者は生きて再び皆さま方とあいまみえることができましょう」という挨拶がある「生き葬式」まで行い、生命維持の原則には遠い凄絶せいぜつな行にも耐え、すべての行を成就した酒井さんは、「活き仏」の名で呼ばれていた。ところが、この半年後、酒井さんは再び千日回峰行に入っていたのである。
 酒井さんはいつも、自分の行を見守り、不動明王礼拝の日に山中のお堂へ集う多くの信者を忘れることがなかった。「わしはあの人たちのおかげで行ができるんだ。だからあの人たちに幸せになってもらうために祈って祈って祈るんや」とよく言っていた。
 人の幸せを願って祈る。この単純明快な思いがもし、みずからの生死を分けるかもしれない、日々の回峰中に実践されているとしたら、この人が「活き仏」でないはずはない。


 奈良時代以前の人として『続日本紀』にその名が見える役小角えんのおづる(役行者えんのぎょうじゃとも)を祖とする、修験道の名で呼ばれてきた山林修行は、大仏造営にも深く関わる良弁ろうべんや行基がそうであるように、すでに八世紀以前に実践されていた。しかも山中に分け入り、悔過けか(懺悔ざんげ)を伴い、山川草木に向き合い祈るこの実践行は、仏教や渡来の道教、陰陽道おんみょうどうなどが融合した日本独自の救済思想を育んできたのである。
 明治初めの神仏分離はその実、排仏棄釈といわれるように、かたちある神仏習合の徹底した排除、否定にあった。この被害をもっとも激しく受けたのが山中に神仏の像を祀まつり、神仏習合を実践思想をもって体現してきた、山岳信仰・修験道世界であった。
 しかしすでに千三百年余の歴史を持つ神仏習合の信仰形態を、簡単に変えることなどできるはずもなかった。
 六世紀の半ば、仏教は百済から仏像や教典を伴い伝来した。日本人にとってはかたちと教えをもった宗教とのはじめての出合いだった。この仏教を日本人は百済王の推奨にしたがい信じようとした。しかし日本人はのちに、神木としてカミの依り付きを信じられてもきた樹木をもって神の姿(神像)をつくり、より積極的に仏教を受け入れることになる。
 むろん、呱々に生まれた神仏習合はもともと異なるものをむげには排除しない、日本人の古来の宗教性が育んできたものにちがいない。しかもこうしたいのちの認識が、山林修行に実践を伴い生きていることから考えれば、比叡山に相応和尚そうおうおしょう(九世紀後半)以来、継承されてきた回峰行は、日本の神仏習合史をそのまま語る生きた世界ということになるだろう。
 さらに回峰行が、生命体といっていい山のいのち一つひとつにたいする礼拝行であったこと、行が究極に目指したものが他者の幸せを祈る利他行にあったことは、物量とスピードを競うグローバル経済の価値観の対極にあるのではないか。
 自然保護を言い、自然との共生を語りながら、少なくともこの五十年、日本が奔走してきたのは、モノの豊かさを求め、その成果を実現するための、人間本位の自然の改造ではなかっただろうか。


 修験道にいわれる験げん(しるし)を修めるとは、その究極が利他にあった。これは、すべてに対し無関心の広がる現代の対岸にある思想といえる。だからこそ修験は、もともと仏教にも神道にも、いや一神教においても求められてきた行であったにちがいない。
 いま中近東、アジア各地における民族紛争の現場だけではない。日本においても、いのちは日常的に危機にさらされている。いのちがモノ化してとらえられているのだ。これは経済の価値観の前に、いのちが無頓着に放置されようとする警告以外の何物でもない。
 回峰行という、時代ばなれした世界ととらえられがちなここに、実は日本固有の自然観であり生命観によって支えられた宗教世界が生きていることを、私は酒井さんの実践行を通して教えられた。
 中年に及んでのみずからの苦汁の日々を払底するに等しい過酷な行への挑戦。だが、この酒井さんの人生の選択が、いのちがいのちに向き合う礼拝行であり、利他行である日本宗教の根本を指し示してきたのである。
 回峰行は自他のいのちを問う現代のテーマといえるのではないか。

くぼた・のぶひろ 1941年生まれ。早稲田大卒業。アジア宗教・文化研究所代表。専門は宗教学。著書に『さまよう死生観 宗教の力』(文春新書)『原日本の精神風土』(NTT出版)『役行者と修験道 宗教はどこに始まったのか』(ウェッジ選書)など多数。