周死期学をおこす
対本 宗訓 つしもと・そうくん 2013年10月12日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「デスベッド・ビジョン」という現象
臨終プロセスの一環 [上]

 今からもう20年以上も前のことです。私の父は数ヶ月にわたる入院生活の末、満80歳の誕生日を目前にして亡くなりました。死の数日前に病床を見舞った時、私は父の様子がいつもと違うことに気づきました。父の視線が私を通り越して病室の天井の彼方かなたにじっと定まっているのです。そして明らかに誰かとやりとりをしているそぶりに見えます。父は静かに落ち着いており、どことなく生き生きとした表情さえ浮かべていました。
 死を前にした父にいったい何が起こっていたのか、その日の記憶は私の心の奥底に不可解なものとして残り続けました。後に45歳にして宗門を離れ、死の臨床を目指して医学の道に転身したきっかけの一つがここにあります。
 仏教では生老病死の四苦を説きます。生まれ出ること、老いること、病むこと、そして死んでいくことは、誰もが経験する根源的な苦しみであるというのです。この四苦のなかでも、とくに死についてはほとんど何もわかっていません。私たちはいったいどうやって死んでいくのでしょうか。私たちが死ぬとき何が起こるのでしょうか。死んだ後どうなるのでしょうか。これらの問いは「科学的な根拠に基づく医療」の立場に立つ現代医学が直接答えることのできる領域のものではありません。かといって宗教が説く教えに心から納得し、死の恐怖や不安の念から解放されたという人もあまり多くないようです。
 こうした状況を踏まえ、私は「周死期学」を提唱するようになりました。出産分娩ぶんべんの前後の時期を「周産期」というように、死の前後の時期を言い表すものとして「周死期」という概念を新たに立て、臨床的な死のプロセスを明らかにすることをめざしています。


 死は瞬間ではありません。何時何分という時間的な一点で生と死を区切るのは社会の約束事にしかすぎません。長短の差はあれ、実際のところ死は一連の経過のなかで訪れます。つまり死ということを考えるならば、そのプロセスを問題にしなければなりません。
 かつて米国の精神科医キューブラー・ロスは死にゆく人々にインタビューして、死の心理的過程を明らかにしました。今度はそこからさらに大きく歩を進め、「周死期学」では医学、心理学、医療人類学などの方法論を用い、身体的・精神的・霊的な観点から死のプロセスのチャートを描こうというのです。
 そこで私が特に注目しているのが「デスベッド・ビジョン」と呼ばれる現象です。冒頭で述べた私の父のケースに典型的に見られるように、要するに、既に他界している親しい存在が死の床に姿を現し、スムーズな旅立ちを助けると考えられるもので、私は「むかえびと」と呼んでいます。この経験をした比較的多くの患者さんが平安な終末期を過ごしていることが欧米のホスピス関係者の間で以前から広く知られています。
 突発的に訪れる死の場合は別として、死にゆく人は死のあるていど手前から、意識的あるいは無意識的に旅立ちの準備を始めるもののようです。たとえば、死が近づくにつれ意識がこちらの世界とやがて移行していく次なる世界との間を行ったり来たりするようになることがあります。意識がこちら側の世界にあるときには、周囲で見守る人々と同じものを知覚していますが、次なる世界のほうに意識がシフトしているときには周囲の者が見えないものを見ています。デスベッド・ビジョンとはそのようなときに起きる現象ではないかと推察されます。


 確かに人によって死の様相は異なりますが、それは経験の仕方の違いであって、死のプロセスじたいは基本的に一つではないかと私は考えています。肉体の死が私たちの存在の終焉しゅうえんでは決してないとわかっても、海図のない大海原に船出することには不安が尽きません。もし死のプロセスについて記したチャートがここにあれば、そして平安な旅立ちの仕組みについての知識があれば、死の臨床はもっと安らぎと希望に満ちたものになるのではないでしょうか。

平安な旅立ちという仕組み
末期にもたらす多幸感 [下]

 医学生として初めて出産の場に立ち会ったとき、赤ちゃんがお母さんの産道をくぐり抜け、元気に呱々ここの声を上げるのを見て何とも言えない生命の神秘に感動を覚えました。それと同時に、ふと思ったことがあります。すなわち、赤ちゃんが母胎から生まれ出るための巧妙な仕組みが備わっているように、人が死でいくときにも平安な旅立ちを助ける絶妙な仕組みが用意されているのではないかと。
 この世に生まれ出る出産分娩ぶんべんのプロセスと、この世から去っていく死のプロセスは、方向こそ正反対でありながら、そこに何か通底するものがあることを感じ取ったのはおそらく私だけではないはずです。上編(12日)で述べた「周死期学」の提唱はこうした直観がもとになっています。
 私は以前「枯れて死ぬ仕組み」をテーマにした本を書き、高僧の死を参考にしながら死のプロセスについて考えてみたことがあります。もちろん「枯れて死ぬ」と言えるような死はどちらかといえば少ないのかもしれませんが、基本的な一つのモデルとして、死のプロセスや旅立ちの仕組みについてのさまざまな示唆を与えてくれます。
 昔から高僧は7日以前に死期を悟り、飲食を節して旅立ちの準備を行い、やがて大往生を遂げる人が多かったようです。つまり結果的に緩やかな脱水と飢餓の状態に身体をもっていくことになるのですが、そうすることで死の苦痛が少なくなることを生体の智慧ちえとして会得していたのでしょう。確かに現代の緩和医療の現場でも終末期の患者さんには過剰な輸液を控えるようになってきています。


 あらかじめ死期を悟ることにできるのは長年厳しい修行を積んだ一部の高僧だけではありません。実は人間は誰でもあるていど死期がわかっているのではないでしょうか。その段階が近づくと、意識的・無意識的に旅立ちの準備と思われる行動をとる患者さんがいらっしゃることに多くの医療者が気づいています。
 死そのものはほんらい苦痛に満ちたものではないと思われます。死期に呼吸状態が悪くなって低酸素の状態になると脳内にベータ・エンドルフィンという物質の分泌が促され、苦痛をしずめ多幸感をもたらすということが言われています。またいわゆる臨死体験の報告のほとんどが、平安に満ちた死(あるいは近似死)の経験を語っていることからもそのことがうかがえます。
 死のプロセスを描くとなると「死後」の問題も当然のこと含まれてきます。これは経験的に語れず、また科学的に実証できないことから、なかなかアプローチがむずかしいところですが、悠久壮大な死後の世界を明らかにする必要は決してないことをまず銘記しなければなりません。
 私たちは常に<いま・ここ>に生きています。そしてこの現実世界に両足を踏みしめて立ち、一日一日をせいいっぱい生ききることが大切です。したがって、はるか彼方かなたの未来のことよりも、この<いま・ここ>から多少手を伸ばして届くていどの先のことがわかっていればそれで十分です。航海にたとえると、たどり着く先の大陸の描写を細々こまごまと聞かされるよりも、むしろこれからどうやって船を漕ぎ出しどちらを目指せばよいかという情報のほうが何層倍も有益ではないでしょうか。
 こうした意味で、たとえば臨死体験者の報告は検討に値するさまざまな情報をもたらすものであり、私の言う「むかえびと」のようなデスベッド・ビジョンの研究もたいへん示唆に富んだものとなることでしょう。


 身体的・精神的・霊的な観点から旅立ちの仕組みを明らかにし、臨床的な死のプロセスのチャートを描こうという「周死期学」は経験としてのさまざまな事実の積み重ねです。よってその調査・研究の方法としてエスノグラフィーがまず挙げられます。すなわち死の臨床に直接かかわりながら、現場の内側から共感と理解を深めていくのです。死にゆく人々やご家族の声に謙虚に耳を傾け、その視線と愛する者の思いを何よりも大切にしたいと考えています。
 「周死期学」は僧医としての私のライフワークです。最初は私個人の小さな小さな思いにしかすぎませんでしたが、長年求め続けてやっと一つのプロジェクトとして各分野の専門家たちと共に取り組むところにまで至りました。霊性とは何か。そして私たちは本来どういう存在なのか。こういった成果を、いずれ多くの皆様方と共に分かち合えることを心より願っています。

(すみません、資料紛失しました)