道元の時間論
角田 泰隆 つのだ・たいりゅう 2013年9月28日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
時間と存在は一体のもの
分けられない現実 [上]

 時計が刻む時間の長さは一定であるけれども、それぞれの人間が感じる時間の長さは一定ではない。時間にはいろいろな時間がある。
 まず時間を分類すれば次の四つが考えられると私は思う。
 第一に物理的時間。一日は二十四時間であり一時間は六十分であり一分は六十秒といった世界共通の時間である。
 第二に心理的時間。楽しいことをしていると時間はあっという間に経ってしまうし、イヤなことをしなければならない時間は長く感じる。
 第三に相対的時間。同じ年齢でも、若々しい人もいれば、年相応の人もいれば、老けている人もいる。あるいは、相対性理論では、時間の進み方は条件によって違うという。光速に近い宇宙船で宇宙を旅し、何年か後、地球に戻ってきたような場合、地球では10年経過していたのに、宇宙船では5年しか経っていなかったなどという現象が生じるという説がある。
 時間というのは実に不思議である。
 そして第四に宗教的時間。これを説明するのはちょっと難しいが、これこそが道元の時間である。時間を超越した時間であり、時間なき時間である。存在と一体の時間であり、修行(行動)そのものが時間である。


 ところで、文字どおりに解釈すれば「時間」とは、時の流れの中の二点間の長さをいうのであろうが、ここでは「時の流れ」ほどの意味で使うことにする。
 道元の著作に『正法眼蔵しょうほうげんぞう』「有時うじ」がある。
 「有時」とは、通常「有る時」と読み、「ある時は~、ある時は~」などと用い、”その状態にある時”というような意味を示す。しかし道元は、「有」を「存在」とし「時」を「時間」として、存在と時間が一体であることを示している。つまり、時間は存在であり、存在は時間である、というのである。
 この『正法眼蔵』「有時」の中に、時間論に関わる道元の有名な言葉がある。
 いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。
 <いわゆる有時というのは、時(時間)がすでに有(存在)であり、有はみな時であるということである。>
 私たちは、思考の中で、わたしたちが生きているこの世界を分析して、時間と存在を区別して考えることができる。同様に、身(肉体)と心(精神)を区別したり、自分と環境を分け隔てて考える。しかしこれらは分けることができないというのが仏教の基本的な考え方である。


 しばらく主題から離れるが、あらゆる物事は、関係し合って存在している。「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」という。この言葉は、身(肉体)と心(精神)が一体であることを言ったものであろうが、肉体と精神をいったん区別した上で、その関係性を言ったものである。私たちは、現実を分析して思考する。しかし、分析できないのが現実である。
 「眼で物を見て認識する」ということを例にとれば、外部の物(光や色)が水晶体に写り、網膜や神経を通って脳に伝わる。そしてその物が何であるかを認識し、そこに美しいだとか、好きだとかの感情が生じる。これら一連の働きで、どこまでが物質的な働きであって、どこからが心(意識)の働きであるのか、明確に区別できない。
 自分と、自分を取り巻く環境。これも同じである。自分と自分以外の物が存在するのではない。全てがつながっている。環境が汚染されれば、私の身体も汚染される。
 時間と存在もそうである。すべての時間は常に変化している。その「変化する」ということが時間である。時間は存在として現れており、存在はみな時間なのである。
 次回は、さらに道元の時間論に踏み込んでいく。

修行すること以外に時間はない
刹那刹那を費やす [下]

 前回(9月28日)、時間には、物理的時間、心理的時間、相対的時間、宗教的時間があると分類してみたが、今回は、まさに宗教的時間である道元の時間論を紹介する。
 道元が、「時間と存在は一体のものである」としていることは既に述べたが、『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』「有時」巻では、次のように示している。
 有時みな尽時じんじなり、有草有象うそううぞうともに時なり。時時の時に尽有尽界じんうじんかいあるなり。しばらくいまの時にもれたる尽有尽界ありやなしやと観想かんそうすべし。
 <有時(存在と一つである時間が、すべての「時」なのである。存在としての草も存在としての象(形のある物)もみな「時」なのである。その時その時の「時」にすべての存在があり、すべての世界があるのである。しばし、今の「時」から漏れてしまっているすべての存在、すべての世界があるのかどうか、しっかり考えてみるべきである(漏れてしまっているものなどありはしない)>
 まさに現代語訳のとおりである。「時」以外に「存在」はなく、「存在」が「時」なのである。
 ゆえに道元は「山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の二而今にこんに時あらずとすべからず。時もし壊えすれば山海も壊す、時もし不壊なれば、山海も不壊なり」と示す。時がなかったら海も山もない。時がもしなくなってしまえば、山や海もなくなってしまう、時がなくならなければ、山も海もなくならない、というのである。


 また、道元は次のように示す。
 松も時なり、竹も時なり。と木は飛去ひこするとのみ解会げえすべからず。…時もし飛去に一任せば、間隙かんげきありぬべし。有時の道を経聞きょうもんせざるは、すぎぬるとのみ学するによりてなり。要をとりていはば、尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。
 <松も時である、竹も時である、時というのは飛び去るものとばかり理解してはいけない。…時がもし飛び去るのなら、飛び去る間や隙摩すきまがあるはずである。「有時」という言葉の正しい意味を聞くことができないのは、時は過ぎ去るとだけ学ぶからである。要するに、全世界のあらゆる存在は、連なりながらその時その時なのである>
 「時」と言えば、過ぎ去っていくものと思う。アナログ時計の針が動くように、デジタル時計の数字が変わるように、物が移動するように、鳥が飛び去るように、動くもの、目に見えて移り変わるものと考える。しかし道元は言う、静止しているように見えるものも時であると。静止しているものも時々刻々変化していると。「松も時なり、竹も時なり」とはそのことを言う。


 「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり」とは、すべての存在は、連続して存在しているように見えるが、一瞬一瞬は途切れているという意味である。西田幾太郎は、このことを「不連続の連続」という言葉で表した。時は過ぎるのではなく、積み重なっていくということであろうか。
 道元は「一弾指だんしのあひだに、六十五の刹那せつなあり」と言っている。指を一回パチンと鳴らす間に六十五の刹那があるという。刹那とは、仏教が説く時間の最小単位で、七十五分の一秒である。そしてこの一刹那に「五蘊ごうんともに生滅す」(私たちの身体は生死を繰り返している)と言うのである。あらゆる存在は、生じては滅し、滅しては生じていく。その連続であり、その連続が時間である。
 そのような時間を、道元はひたすら仏道を修行することに費やした。四六時中が仏としての生き方の実践であった。すべての時間が修行であった道元。だから道元にとって時間とは修行そのものであった。それが道元の時間論である。
 音楽家にとって時間とは音楽であり、詩人にとって時間とは詩であろう。あなたにとって時間とは。

つのだ・たいりゅう 昭和32(1957)年、長野県生まれ。駒澤大大学院博士課程満期退学。大本山永平寺安居。曹洞宗宗学研究所、駒澤短期大を経て、現在、駒澤大仏教学部教授。著書に『道元入門』(角川ソフィア文庫)『禅のすすめ—道元のことば』『ZEN道元の生き方』(日本放送出版協会)など。