釈尊の出家と打坐
藤田 一照 ふじた・いっしょう 2013年9月14日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「所有」から「存在」の次元へ
「四門出遊しもんしゅつゆう」が契機に [上]

 釈尊が誕生したばかりのとき、アシタという仙人が訪ねてきてその子の将来を予言した。「このみどり児は将来、世俗のうちにとどまるならば世界を統治する帝王となるか、あるいは出家して人類を救う仏陀ぶっだになるか、どちらかである」と。
 わたしは「帝王」を「所有」という次元の象徴、「仏陀」を「存在」という次元の象徴だと理解している。所有か、存在か。これは、釈尊だけではなく、われわれすべてに突きつけられた、生きる態度の選択肢である。
 「所有」の次元では何かを自分の所有物として占有することが最優先事項になっている。そして、物や人、もっと抽象的なもの(知識や権力など)、それらを量的に豊かに所有すればするほど、幸福度が増すとされる。「わたしとはわたしが持っているもののことである」がこの次元における基本原則である。
 しかし、所有物を増すことへの没頭は必然的にその当人に不安、疎外感、空虚感をもたらす。失うことを恐れることなく、安心して所有することができるものなどこの無常の世には存在しないからである。また所有は所有者(主体)と所有物(客体)との間に溝を生み出すので、所有物に重きを置けば置くほど所有者の「存在」は空虚で皮相的になっていかざるを得ない。


 釈尊は人生の最初の段階をこの「所有」の次元で生きた。王である彼の父親は息子を世俗にとどめておこうとしてあらゆる努力を払った。感覚的喜びを惜しみなく与え、最高の教育を施し、結婚して子供をもうけることで王族の血統が絶えないように仕向けたのである。「王」は世俗社会が所有志向の価値観をその構成メンバーに押しつけてくることの象徴になっていると理解できるだろう。
 望むものがなんでも直ちに与えられる「所有」の理想郷のような宮殿での生活を享受していた釈尊であった。しかしあるとき、王城の東西南北の四つの門から郊外に出掛け、それぞれの門の「外」で、老人・病人・死者・修行者に出会うことで、そういう生き方に大きな疑問を持つようになる。釈尊が出家を決意する契機となった「四門出遊しもんしゅつゆう」と呼ばれる重要な出来事である。
 こうして、老い・病・死といういかにしても避けられない現実の深い実存的意味に気づいた彼の中で、それまでの「所有」の価値観は見事に破産してしまった。老人、病人、死者は「所有」の次元の外に、それとは異質の「存在」の次元があることを示す具体的証しであり、修行者は所有ではなく存在に基づくまったく新しい生き方の実物見本である。
 仏伝の表現によれば「心臓を毒矢で深く射られた獅子」のようになった釈尊にとって、宮殿の生活はもはや何の喜びも充実感ももたらさない。存在という垂直の次元に目覚めた釈尊には、所有という水平の次元の象徴である宮殿はもう「牢獄ろうごく」にしか見えないのである。この二つの次元の間の妥協がそれ以上受け入れられなくなったある夜、かれは両親や妻子を含めた「宮殿」を去って、宗教的修行者の生活に身を投じた。
 本来の意味の「出家」とはこのような、所有の次元から存在の次元へのラジカルな転換のことをいうのである。それは、「豊かに持つために生きる」のではなく、「豊かに存在するために生きる」という人生の意味や目的の根本的なリセットなのである。そのときには、生活のまるごと全体が宗教的なものになる。


 釈尊の宮殿生活を凌駕りょうがするような「豊かな社会」に生きているわれわれにも「四門出遊」は可能だろうか?これほどまでに老人・病人・死者・修行者が大衆の眼から巧妙に隠され、社会から軽視された時代があっただろうか?
 真正の宗教的意識とは、所有という水平的次元の延長ではなく存在という垂直的次元への目覚めに関わるものであるとするなら、現代はまさに宗教にとって危機の時代である。しかし、そのような所有の次元にまどろんでいるわれわれを激しく揺さぶったのが東日本大震災と原発の事故ではなかったろうか。

「コントロール」から「感じて、許す」へ
「存在の次元」が実現[下]

 釈尊は出家したあと、すぐさま一人で森に入って樹の下で打坐だざし、仏陀(覚者)になったのではない。ものの占有をどこまでも追求する水平的な「所有の次元」から、現在の深さへと目覚め、鎮まっていく垂直的な「存在の次元」への転換は、出家したからといって、そう簡単には実現しない。
 出家後の釈尊がまず試みたのは、人が集まる都市へ行って高名な師を探し、その指導を受けて伝統的な宗教的探求の「方法」を学ぶことだった。かれは、当時名声をはせていた二人の瞑想めいそう指導者のもとで修行に励み、教えの究極を極めたのだが、それには満足することができなかった。
 次に苦行に取り組んだ。ここでも、指導者や先輩から「方法」の手ほどきを受けたことだろう。過酷な苦行も身心しんじんを極度に消耗するのみで根本的な解決をもたらさないと見極めて、これも放棄した。
 けっきょく釈尊は、瞑想と苦行という「既成の方法」では、自分が求めていた「人生の根本的ジレンマへの真正な応答(レスポンス)の仕方」を見いだせなかったのである。
 このとき、釈尊は幼いころ自分が自発的に樹の下に坐すわったエピソードを思い出す。この回想を契機に「これこそが覚さとりへの道にちがいない」との確信をもち、村娘のささげた乳粥ちちがゆで体力・気力を回復し、そばの河で沐浴もくよくをして身を清め、大樹の下に座った。これが「樹下の打坐」である。


 この打坐にいたる以前に釈尊が試みた瞑想や苦行は「わたしが・なんらかの目的を目指して・ある方法を・実行する」という枠組みで行われていた。瞑想の場合は主に「心」を、苦行は主に「体」を対象に特定の方法に従って「コントロール」し、ある理想の状態に「変えよう」とする。この営みの主体は「わたし」という意識にほかならない。
 釈尊が気づいたのは、このような「方法に基づくコントロール」という意識的・技術的なアプローチの限界だった。このアプローチには「所有の次元」の残滓ざんしがこびりついている。その証拠に瞑想や苦行は「心」や「体」を「わたし」の所有物として客体視し、ある「境地」や「状態」に到達する「体験の獲得」を目指しているからだ。
 樹下の打坐はそれとはまったく質を異にする、「存在の次元」を受肉化したものとして理解しなければならない。一般には聞き慣れない「打坐」という言葉が用いられたのも、それが「○○瞑想法」だとか「○○宗の座禅法」というようなテクニック的な限定から離れた「短銃素朴な坐り」であることを強調するためである。釈尊が思い出したのは、子供時代に行った自発的な坐りが「○○のための方法」などではなかったということだった。
 樹下に打坐した釈尊は、何か特定の「方法」を試みようとしたのではなかった。傍には指導者も手引書もなかったし、こうしたらこうなるというような見込みや予想もなかった。いわば、まったくの「お手上げ」状態での、素手の坐りこみだった。ただ純粋に静かに「存在」していた。
 そのような打坐では、心身のありのままの状態が深く繊細に感じられているだけで意識的で人為的なコントロールは差し控えられている。感覚からのフィードバックを受けて心身は自然に変化しようとする微細な動きを生み出すから、それを拘束することなく許していく。打坐とはそういう無条件の受容の営みなのである。わたしは、この営みを短く「感じて、許す」と表現している。
 そのような在り方を道元は「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」と言う。「仏のいへ」、「仏」とは、人間の思慮分別、計らいを超えた大自然の働きのことである。「存在の次元」は、「南無なむ(仏にすべてを託す)」の姿であるこの打坐においてはじめて実現したのだ。


 近年、日本や海外でも仏教が「人生の問題を解決してくれる有効なメソッド(方法)のシステム」として注目を集め、打坐もまた瞑想メソッドの一つとして理解されている。しかし、仏教は、釈尊がメソッドではどうにもならない人生の現実に直面して「出家」し、メソッドの限界を知って「打坐」したところから始まったのである。今こそ、そのような仏教の原点を改めて見直してみる必要がある。さもなければ仏教が「凡夫の問題解決の道具」になってしまうのではないだろうか。

ふじた・いっしょう 1954年、愛媛県生まれ。曹洞宗国際センター(米サンフランシスコ)所長。東大教育学部卒、東大大学院を中途退学、曹洞宗僧侶となる。米マサチューセッツ州の禅道で約18年間住持として活動。著書に『現代座禅講義』(佼成出版)『あたらしいわたし』(同、共著)など。近刊に『アップデートする仏教』(幻冬舎新書、共著)。