現代お弔い事情
小谷 みどり こたに・みどり 2013年8月31日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
葬儀・お墓 変わる在り方
「家族が担う」破綻は必然 [上]

 最近、死や葬送をテーマとした話題を見聞きする機会が増えたとお感じではないだろうか。わが国では今後二、三十年間、志望者が増加し続ける。しかも死亡者が出生数を毎年20万人以上も上回る人口減少社会でもある。死を取り巻く環境が大きく変化している。
 長寿化は裏を返せば、死亡年齢の高齢化だ。昨年志望した女性のうち、80歳以上だった人は70.6%。男性も5割近い。40年前は、80歳以上で亡くなった人は2割程度しかいなかったので、長寿化が急速に進んでいることがわかる。


 家族も変わった。これまでは、死を看取みとり、葬送や供養を担うのは家族や子孫の役割だとされてきた。しかし昨今、子どもが長寿の親より先立つケースは珍しくない。子どもがいても離れて暮らしていれば、万一のときに頼れるとは限らない。「子どもがいるから安心」ではなくなっている。
 子どもがいるからこそ、子どもに気兼ねする高齢者も少なくない。日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団の2011年調査では、高齢者ほど、ぽっくり死にたいと思う人が多いが、その理由として最も多かったのは「家族に迷惑をかけたくないから」だった。「介護や看護で子どもに迷惑をかけたくない」と、自宅で最期を過ごしたいのに病院死を選択する人も少なくない。
 「遺産を自分の葬式代に使うなら、住宅ローンの返済や孫の教育資金に使ってほしい」と、火葬のみで澄ませる「直葬」を望む高齢者は少なくない。「お寺との付き合いで、子孫に気苦労をかけたくない」と、先祖のお墓を民間霊園などに移し、菩提ぼだい寺との関係を絶つ夫婦もいる。
 それでは、社会や家族の変容でお葬式はどのように変わったのだろうか。これまでのお葬式には、生前の故人を知らず、義理で参列する遺族の仕事関係者が大勢いたが、最近では、家族や故人と親しい人たちを中心とした少人数でのお葬式が目立つ。「家族葬」という言葉がメディアで使われるようになったのは2000年以降だが、今ではすっかり市民権を得ている。
 地域のつながりが弱体化し、「世間体」が崩れたこともある。高度成長期からバブル崩壊までは、祭壇の前で何人もの僧侶が読経し、供花がずらずら並ぶお葬式は、遺族の見栄みえでもあった。しかし昨今、こぢんまりしたお葬式を出すことを恥とする感覚は薄れている。「お返しが面倒」と、遺族が香典や供花を受け取らないお葬式も多い。


 お墓の変化も同様だ。ロッカーのような納骨堂は、これまではお墓を建てるまでの一時預けとして利用されていたが、最近では、お墓として代々使用する人が増えている。廉価な費用ももちろんだが、電車で気軽に行ける、掃除をしなくてすむという利便面から、駅から近い室内納骨堂は特に人気が高い。
 一方、従来の「○○家の墓」は民法上では祭祀さいし財産で、子々孫々での継承を前提としている。ところが、少子化や核家族化、生涯未婚率の上昇などで、誰がお墓を継承するのかという問題を抱える人が増えている。人口減少社会では、家や家族を単位とするお墓の無縁化が避けられないのは、明白だ。
 そうしたなか、血縁に関係なく入れる合葬式のお墓や、子々孫々での継承を前提としない永大供養墓への関心が高まっている。同じお墓に入る人同士で交流する「墓友」づくりを支援する動きもある。家族の枠組みにとらわれず、亡くなった人を残った人たちで供養すれば、無縁になることはない。私たちにも発想の転換が求められている。
 葬送だけではない。人が亡くなると、死亡届の提出や年金受給の停止、各種の名義変更、資産分轄の手続きなどの事務手続きが必要となる。故人が一人暮らしだと、ガスや電気を止め、自宅を処分する作業も発生する。こうした作業を誰がするのかという問題もある。
 介護や看取り、死後を家族や子孫に担わせる仕組みは、破綻を来している。どんな人も一人で死を完結することはできない。葬送の変容は、社会の必然だといえる。

人生の価値観が多様化
「死の当事者」で話し合いを [下]

 自分が死んだらどんなお葬式をしてほしいか、どんなお墓に誰と入りたいか。そんなことを元気なうちに考えようと言う気運が高まっている。しかし少なくとも20年前までは、「そんな縁起が悪いことを考えるなんて!」と眉をひそめる人は多かったはず。そもそも、そんなことは家族が考えるべき問題だという風潮もあった。
 私たちのライフスタイルや価値観が多様化し、人生をどう締めくくるかについても、自分の生き方の問題として捉える人たちが増えてきた。
 高度成長期以降、お葬式には見栄や世間体が優先され、義理参列者の増加もあいまって、バブル期の葬儀費用は高騰した。こうした流れへの反発は、長引く不景気のせいだけではない。私が昨年おこなった調査では、お葬式を「故人の霊を弔う儀式」と考える人は少なく、7割近くの人は「故人とお別れする儀式」だと回答した。
 お布施に対する考え方も変わった。かつては、高額なお布施を払い位が高いとされる戒名を欲しがる遺族は多かったが、最近では「戒名は不要」「読経はいらない」と断言する人は少なくない。慣習やしきたりに必ずしもこだわらず、その人らしいお別れを模索する傾向が強くなっている。
 白木の祭壇ではなく、花を多用した祭壇が志向されるのも最近の傾向だ。これまで、祭壇の花は白や黄色の菊と決まっていたが、昨今では、パステルカラーの洋花が主流だ。故人が好んだ花を使うこともある。
 お墓も変わった。「○○家」と刻んだお墓は、火葬率の上昇とともに普及したが、昨今では、家名の代わりに、「ありがとう」「愛」などの言葉を彫るお墓が増えた。私は墓石大賞というコンテストの審査員をしているが、故人や家族の思いが込められたお墓はまさしく芸術作品といえる。


 またメモリアルパークの広告には「日当り良好」「海を一望」など、住宅と同じ宣伝文句が並ぶ。家族の記念碑や生きた証しとしてのお墓、あの世の住まいとしてのお墓など、お墓の意味合いは、人それぞれに多様化している。
 お墓に入らない選択肢もある。例えば散骨。「暗い墓の下ではなく、自然豊かな場所で眠りたい」と考える人もいれば、「生まれ育ったふるさとに遺骨の一部だけでいいから帰りたい」と、故郷での散骨を希望する人もいる。
 遺のこされた人の偲しのび方にも変化がみられる。納骨せず、遺骨を自宅に安置したいというのはその一例だ。実は、私も当事者である。先祖のお墓はあるが、遠いこともあって、亡くなった父と夫の遺骨は、自宅に安置している。遺骨を墓地以外に埋める行為は違法だが、自宅に安置することになんら問題はない。これからも当分は、彼らと「同居」するつもりだ。
 私の知人は、先立った妻の遺骨を愛用の梅干し壷つぼに入れ、台所に安置している。自分が死んだら、妻の遺骨と一緒に納骨してもらうそうだ。お墓に納骨したが、おしゃれなガラス容器に遺骨の一部を入れて身近に置く人も少なくない。


 故人やペットの遺骨を身につけたいと考える人もいる。遺骨から人口宝石を製造する会社や、遺骨に含まれる炭素に圧力をかけ、ダイヤモンドに加工する会社もある。子ども全員で親の遺骨を持ちたいと、複数のペンダントを注文する遺族もいるという。
 私たちの多くは、自分が死んだら無駄と思う反面、亡くなった大切な人は自分をいつでも見守ってくれているという二重の矛盾した感覚を持っている。「お葬式もお墓も不要」と言い残した人の遺族のなかには、死の悲しみを共有する仲間や機会もないまま、死を受け入れられず、ひどい場合には、家の中に引きこもったり、抑うつ状態になったりすることもある。大切な人を亡くせば、激しい悲しみや喪失感に教われるのは、どんな時代でも変わらない。
 自分らしくどう逝くかという視点は、一人では死を完結できない以上、家族や周りの人にかける手間を軽減し、生前の関係を見直すきっかけにもなる。自分の死後を誰にどう託すかは、核家族化や少子化が進む社会に生きる私たちにとって、みんなが考えておくべき重要な問題である。
 同時に、遺された人たちが大切な人の死をどう受容していけるかという観点も忘れてはならない。死にゆく側と遺される側はどちらも死の当事者だからこそ、双方で、死の迎え方や葬送について話し合っておきたい。

こたに・みどり 1969年、大阪府生まれ。奈良女子大大学院修了。第一生命経済研究所主任研究員。博士(人間科学)。終末期医療や葬送など、生死に関わる諸問題を研究している。主著に「今から知っておきたいお葬式とお墓45のこと」(家の光協会)「変わるお葬式、消えるお墓」(岩波書店)など。専門は生活設計論、余暇論、葬送問題。