哲学カフェと釜ヶ崎
哲学者・大谷大学教授 鷲田 清一  2013年9月4日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
境遇問わぬ対等な対話

 かれこれ15年ばかり、哲学カフェという集いを市中で開いてきた。大阪で始めて、それを大学の同僚や大学院生が少しずつ全国に広めていって、数えてはいないがおそらく300回以上は催してきたはずだ。
 参加者がテーマを持ち寄り、哲学研究者は(議論を主導するのではなく)ファシリテーターに徹して、議論の内容は参加者にまかせる、そんな対話のセッションである。何か共通の土壌をつくってからでしか本題に入れない、いわばコンテクスト過剰な「察しあう」コミュニケーション文化よりも、これからの社会では、それぞれに価値観を異にしたまま、よく考えたうえで口にされる他人の異なる思いや考えにこれまたよく耳を澄ますことで、じぶんの考えを再点検してゆくこと、そのようにして視野を拡ひろげながら個々に社会運営に参加してゆくことが重要になると考え、そのトレーニングの場として哲学カフェを設定してきた。


 哲学カフェでは無理に合意をめざさなくてよい。それよりも問題の設定の仕方を探ること、問いが書き換えられてゆくプロセスそのものを共有すること、つまりは問題をシェアしているという感覚がもてることに意味があると考えている。言ってみれば、デモクラシーのレッスン?
 手法をめぐってはいまも試行錯誤のさなかにあるが、先だって久しぶりに大阪の釜ヶ崎(通称「あいりん地区」)を訪れて、そこでの労働者たちのコミュニケーションのかたちが哲学カフェのそれに酷似しているのを発見し、気持ちがいつになく高ぶった。
 みなが他人に言えないような複雑な事情を抱えているこの街には、「過去にふれあわない」という無言の約束がある。ここでは、出自や経歴や本名をあきらかにせずとも、住民票がなくとも、仕事に就けるし、暮らしができる。話に深入りしないし、後も追わない。縁もゆかりもない人びとがそれでもその<無縁>を唯一の縁として、酒を奢おごりあうなどミニマムのつながりを維持している。哲学カフェのルールもおなじく、名前(仮名でもよい)を言うだけで、職業も所属も住まいも一切問わない。語られる言葉だけがたよりのこのセッション、釜ヶ崎の生活作法とぴたり重なる。


 釜ヶ崎の高齢労働者の支援をしている大学院生の論文を読んでいて、さらに興味深い記述に出会った。日雇いで知りあった二人はここ10年ほど、毎週2回、時間を決めて将棋を指している。盤上のこと以外交わす言葉はなく、食事もともにしたことがない。一方の入院で途切れることもあるが、部屋の明かりを見つけるとまた再開される。そして生活保護受給者と日雇い労働者というふうに「格差」が生まれても、将棋盤の上ではあくまで対等な関係なので、いまもこの指しあいは続いているという。
 私の友人は釜ヶ崎でも定期的に哲学カフェを開いてきた。初回のテーマは「幸福」。そして「幸せになりたいと思ったことはありません」というのが、初老の労働者の口から出た最初の言葉だったという。みずからの過去をほじくり返さざるをえないこういうことがらが、まるで将棋盤上のつぶやきのように語りだされるのも、普段とは異なる水準での対話を試みる哲学カフェのささやかな功績の一つであると信じたい。