男の生き方 男の死に方
大村 英昭 おおむら・えいしょう 2013年8月3日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
男という名の病気
強さの指標 実は弱点 [上]

 ご存知「寅さん」の啖呵たんかをまじえた主題歌の中に、「顔で笑って、腹で泣く」という一節があります。今でも日本人の間では、これぞ“男らしい”感情表現の仕方として、大抵の人が共感できますよねぇ。ところがです。近年、欧米では、この種の「男の面子めんつ」にこだわり、人さまのあわれみを拒絶するような態度こそ「男という名の病気」の代表的な症候である、といった議論がまき起こりつつあるのです。
 ほかにも、喫煙・飲酒など健康維持をかえりみない行動はもちろん、危険をかえりみない大胆さ、さらには人の援助を求めたがらない傾向など、ついこの間までは、むしろ”男らしさ” の証明ですらあった大抵のことが、「男という名の病気」の症例に数え上げられているのですから、たまりません。一体、こういった議論の背景にあるのはどういう事態なのか。設立して4年目に入った私たちの「生き方死に方を考える社会フォーラム」においても早速、そのあたりの事情を探索することにいたしました。現に、この7月15日に開催しましたシンポジウム「続・男もつらいよ」の主な検討課題もそのことだったのです。


 実は、もうひとつ不思議なことがあります。従来型の、いわゆる女性問題論から、先に言いましたような「男という名の病気」を云々うんぬんする体の、いわば男性問題論へと大きく方向転換しているのが、いまの欧米先進国の動向であるにもかかわらず、この新思潮がわが国へは一向に波及してこないことです。要は、女性の方が被害者だ、弱い立場にあるのだといった、欧米と比較すれば、いささか古めかしい議論に終始している感が否めないのです。実際、おかしいとは思われませんか。平均寿命の点からいっても、自殺する人の男女比率で見ても、むしろ男性の方が弱いと考えて当然ですものねぇ。さらに、国立の一流大学はいざ知らず、たいていの私学では、なにごとにつけ女性優位を実感せざるを得ませんし、筆者が懇意にしている私学の教員なら誰もが同じ実感をもっているのも事実なのです。
 ですから、欧米先進国から学力における女子の優位を示すデータが次々と公表されてきても、正直「さもありなん」と思いこそすれ、驚くようなことはありませんでした。実際、「落ちこぼれる」可能性ともなれば、圧倒的に男子のほうだと思わせるデータも、欧米各国においては遠慮なしに公表されているのが実情です。当然ながら現在、欧米先進国では四年制大学への進学率でも女性が男性を上回りつつあります。かつ、この線上で考えれば、これまた当然のことながら、企業の役員や政治家、あるいは大学教授など指導層に占める女性の割合もぐんぐん伸びる傾向にあるのです。
 逆にいえば、男性の「長期低落傾向」。これが、従来”男らしさ”ないし、男性の強さを表すものとして認められていた多くの事柄が、かえって男性の弱点を示すものとして問題視されつつある理由です。
 では、先に不思議だと言ったもうひとつの点はどうでしょう。つまり、欧米に見られるようになった新思潮が、なぜわが国には波及してこないのかという問題です。ことに女性論者たち、こんな新思潮を受け入れると、自分たちのこれまでの主張に傷がつくとでも思われるのでしょうか。筆者から見て従来、それこそ日本男子の”男らしさ”だとでも思っておられるのか、男性のほうが女性のことを気遣うあまり、明確な自己主張をせずに済ましてきたことが、一番の原因のように思えてなりません。


 しばらく「男の死に方」—例えば石飛幸三医師が提唱される「平穏死のすすめ」など—に重点を置いてきた私たちのフォーラムが、原点に戻って再び「男もつらいよ」のキャッチフレーズで公開シンポジウムを開催した理由もここにあります。死に方より、まさしく「男の生き方」。本欄では(下)もこの線で続けさせていただきます。

新鮮な男性像を
競争「降りる人」評価して [下]

 先週の本欄(3日)で筆者は、欧米先進国では近年、男性の弱さ—あるいは「こわれやすさ」と呼ぶべきかもしれません—を問題視する議論が盛んになりつつありますのに、なぜかわが国だけは旧態依然の女性問題論が幅をきかせているという風に申しました。
 実際、いじめられて自殺した少年たちで見ても、引きこもって自らをさらに孤立させるような少年たちで見ても、女子より男子のほうがはるかに多いこと、さらに中・高年のほうで見ても、自殺にはしる確率や救命施設へ搬送される頻度など、やはり男性のほうが「こわれやすい」と思わせるデータはいくらでもあります。ですから広く客観的なデータを検討する限り、現代社会は女性より男性のほうが、よほど生きづらいと申して過言ではないのです。おまけに、少し考えれば、その原因も容易に推察することができるはずです。要は、男性における体力や腕力の優位が昔ほどには有効に作用しない社会になってきたからです。


 一般に、ものづくり中心の工業社会から、情報・サービス産業中心の社会に転換したといわれますが、そのものづくりの現場ですら、体力や腕力が必要で、かつ危険の多いところほど、開発されたソフトのおかげで、いまやロボットアームが主な動力源になっています。一昔前まで、それこそ男性が独占していた職場(!!)、あの戦場ですら、ロボット兵器のおかげで「男女共同参画」も不可能ではない時代になってきているのです。ですからソフト開発の現場では、ものづくりより「ものがたり」づくりの方が大切なのだといった言い方もされるのですが、いずれにせよ、これらが相俟って、男性優先の職城を縮小させてもきたのでしょう。
 ただし、ここからが本欄の肝心な論点なのですが、こういった社会・文化情勢の変化に対応して、男女各々おのおののジェンダーイメージ—つまり、男らしさや女らしさに関する人びとの見方—が、どのように変容してきたか、この点をじっくり考えていただきたいのです。ことに男性より、むしろ女性が胸に秘めておられる男らしさ、及び女らしさについてのイメージを内省してみてください。さすれば、一方の女らしさが、慎み深さや恥じらい、あるいは、あの「良妻賢母」などがほとんど死語になるほど変容しているのに、他方の男らしさや男性の理想像はほとんど変化していないことに気づかれるはずです。要は競争場に出て(将来を見越して)いまは禁欲的に頑張って勝ち抜くこと、これぞ男らしい男の典型である点で、昔もいまも、まったく変化していないと言っていいほどでしょう。
 実際、体育会系サークルにいる「肉食系」男子と、文化系サークルにいる「草食系」男子と、どちらがもてるかを考えてみてください。いや、企業の採用人事においても、どちらが好まれるのかを考えてみてほしい。ことにサラリーマン家庭の男子にとって—自営業家庭なら「家業」を継ぐということもあり得ましょうが—一人前の「男」になるためには、企業の「正規雇用」を確保するよりほかにほとんど選択肢がありません。女子の場合、専業主婦も含めほかに選択肢がある分、多少の余裕もありましょうが、男子はそうはいきません。大学で見ておりましても、必死の形相で「就活」に勤しんでいる感があり、ためにかえって、ずる賢い企業の術中にはまってしまうことにもなりやすいように思うのです。2、3年で辞めてしまう新規採用者に対して、「根性がない」のなんのと非難する中・高年の人たち。ここにも、競争に勝ってこその男という、旧態依然のジェンダーイメージが見え隠れしています。


 しかし、解決困難な、ほとんどあらゆる問題を次世以降に”つけ回し”しているだけの、いまの中・高年に、若者を批判する、どんな資格がありましょうか。
 捜せば、あえて競争場からは降りて、かつ、その体力を生かし、重度心身障害者のため、有償ボランティアの形で支援するひと、あるいは要介護者の支援をも兼ねた「ユニバーサル就労」の現場に赴こうとするひとなど、優しいというより「雄々しい」男性も結構いるのです。ならば、いま中・高年に求められるのは、こういう男性こそ「男の中の男」だと評価できる斬新な「ものがたり」をつくることではないかと私は思うのです。

おおむら・えいしょう 1942年、大阪市生まれ。京都大文学部卒。大阪大大学院、関西学院大大学院教授を歴任して、現在相愛大特別契約教授。兼ねて浄土真宗本願寺派僧侶。著書に「臨床仏教学のすすめ」(世界思想社)など。近くは井上俊・阪大名誉教授との編著「別れの文化 生と死の宗教社会学」を朱鷺書房から出版。